第七十二話 『水上神殿』

「これは……私の……」


 髪を振り乱し、市中を走るウモン。

 道行く人がぎょっとして振り返る。幾人かは巨大な水の霊晶に眼を奪われるが、それを持つウモンの狂気に染まった形相を見て声を掛けることもできずに道を空けた。


「私には……まだ味方がいる……」


 身も心も恐慌を来しているとは言え、ウモンの足取りは確実に一つの方向――海を目指していた。

 建物の林立する市街地を抜け、急にウモンの視界全体が明るく開ける。港に出た。

 空は晴れ渡っているにも関わらず、海は波が逆巻き、係留されている大型船を大きく揺らしていた。

 人々は海の異様な姿に恐れおののき、岸壁から離れて見守ることしかできなかった。

 荒れ狂う波の中、アレイルの水上神殿がぽつんと立ち、微動だにせず波に耐えている。

 港の中央に、水上神殿に徒歩で渡る為の石造りの橋が見える。

 見上げるような波濤が頭上から覆い被さるように打ちつける橋を、ウモンは躊躇なく渡り始め、水上神殿へと向かう。その狂気の行動は、波もおののいて飲み込むのを躊躇う異様さだった。





「どこへ行った……」


 ロベルクとセラーナが港に辿り着くと、海の異常な荒れを心配した領民達が集まっており、ちょっとした騒ぎになっていた。この大波の中、錯乱した男が水上神殿へ繋がる橋を渡っていったというのだ。


「領主のことだわ」


 セラーナが岸壁から橋に眼を向ける。

 果たして、波で洗われる石橋の中程にウモンの姿があった。


「追おう。波はシャルレグに止めてもらう」


 急ぎ橋を渡り始めるロベルクとセラーナ。

 突然、一際高い波が目の前にそそり立つ。


「!」


 波は見上げる二人の前でぐらりと傾くと、ウモンとの間に倒れ掛かった。

 爆発のような水音。

 脚を震わせる地響き。

 水が完全に海へと帰ると、そこにあった石造りの橋は粉々に打ち砕かれていた。


「危険だ。一度戻って仕切り直そう」


 港に逆戻りすることになったロベルクとセラーナ。そこで二人は呼びかける声に気づき、振り向いた。


「おうい、ロベルク、セラーナ!」


 不思議な残響を伴う極太の管楽器のような低い声。そこには、水中から上がったばかりでまだ髪も乾いていないノルビットの姿があった。


「いいところで会った」


 ノルビットは低い声に似合わない焦りを滲ませて捲し立てた。


「いよいよ海の中は酷い有様だ。一族は老人を中心に避難を始めている」

「それ程か。下手をすると集落ごと移り住むことになりかねないな」


 ロベルクが労りの言葉を掛ける。

 ノルビットは気遣いに対して感謝の色を見せつつも、かぶりを振る。


「下手なことにはさせぬ。さっきの男が巨大な霊晶を持っているのを感じた。あれを水の精霊に返せば怒りがある程度収まるはずだ。何とかして追いたいが、水中から直接神殿には入れず、橋は見ての通り落ちてしまった。何かよい手はないか?」


 ロベルクは水上神殿と、その下に広がる海を見やった。潮の匂いが濃い空気を軽く吸い、意を決して口を開いた。


「この海に満ちる水の精霊の怒り……時化しけが収まる見込みはない」


 そのままゆっくりと霊剣を鞘から抜き、海へと向ける。


「海を凍らせて神殿へと向かう」


 ロベルクは霊剣を逆手に持ち替えると、石畳に突き刺す。柄頭に左手を添え、彼の使役する氷の王を呼び出した。


「シャルレグ、大仕事だ」


 ロベルクは霊剣から流れる精霊力を感じながら、それをシャルレグへと流し込んでいく。


「ここから向こうの神殿まで、海を凍らせろ!」


 シャルレグは頷くと、竜の口を海に向ける。

 薄藍色の吐息が光線のような鋭さで吐き出され、海を撫でる。

 海面は一瞬で凍りつき、馬車がすれ違える程の幅を持つ氷の道が姿を現した。

 感心して腕組みするノルビット。


「恐るべき『王』の力だ。さあ、渡ろう」

「待て、ノルビット!」


 ロベルクは駆け出そうとするノルビットを鋭く制止する。


「どうした、ロベルク?」

「氷を見ろ」

「む! これは⁉」


 異様な光景に顔を引き攣らせるノルビット。

 恐ろしい勢いで氷が溶け落ちている。初夏とは言え、その融解する速さは異常だ。まるで熱湯に晒されているかのようだった。


「何が、起きているの……?」


 セラーナは、海を凝視するロベルクの横顔を覗き込んだ。


「水の精霊が、何か悪影響を及ぼしているようだ。本来なら、水と氷は相性がいい筈なんだが……」


 海は怒りを見せるかのようにいよいよ荒れ狂う。

 氷の橋は、砕かれて置きへと流されてしまった。


「次は全力で行く」

「あれで全力ではなかったのか……」


 驚くノルビットを後目に、ロベルクは霊剣の柄頭を握りしめる。


「シャルレグ、もう一度だ!」


 シャルレグは再度、氷の息を海に吐きかける。自身の精霊力だけではなく、ロベルクからも力を供与された吹雪の吐息は先刻よりも輝きを増し、その衝撃は海を穿つ勢いだ。

 ロベルクは半ば霊剣に身体を預けながら、自身の精霊力を絞り出し、シャルレグに与える。

 ロベルクに限らず、妖精という種族は先天的に強い精霊力を持っている。その精霊力を得てさえ、シャルレグと海との攻防は拮抗していた。


「くっ!」


 ロベルクの精霊力は枯渇しようとしていた。

 脚の力が抜けていく。

 身体がぐらつく。


 そのとき、霊剣の柄から白く滑らかな腕が伸び、ロベルクの手を優しく包み込んだ。

 ロベルクの身体に、失われた精霊力が注ぎ込まれていく。その膨大な力は彼の身体を通してシャルレグにまで流れ込み、氷の王は息を吹き返したように凍てつく吐息を吐き出した。

 再度、海に氷の道が現れる。今度は目に見えて溶ける様子は見られない。


「な……何と!」


 常軌を逸した精霊力に、ノルビットは思わず後退る。

 その間にも霊剣からは二本目の腕が飛び出し、それを頼りに癖のある白金色の髪を靡かせた美しい少女が顔を出す。彼女はその身を柄から引き摺り出すと地面に降り立った。


「この御方は、一体……」

「フィスィアーダ、助力に感謝します」

「あ、フィスィアーダ。お久しぶりです!」

「フィスィアーダ……」


 ノルビットはその名を反芻すると急に眼を見開く。そのまま数歩下がって平身低頭した。


「氷の御使い、フィスィアーダ様。顕現されたお姿を拝謁することが叶うとは、恐悦至極」

「面を上げよ、海妖精」


 フィスィアーダは藍色の衣から伸びる白い腕を伸ばした。


「水を愛でる者よ。我が霊剣の主への助力、感謝する。また、水の精霊への凶行を防ぎしこと、水神アレイル様もお喜びのことであろう」

「ははぁっ!」


 ノルビットは石畳に額を擦りつけ、神を眼にしたことと彼女からよみされた喜びを全身で表現していた。

 フィスィアーダは神々しく頷くと、ロベルクへ向き直った。


「ロベルク、氷の橋は我が引き受ける。汝らは神殿へと向かえ。霊晶を手に入れたら海へと投げ込むのだ」

「わかりました」

「霊剣は我が抜け出した故、シャルレグのみの精霊力に落ちている。気をつけよ」

「『王』の力にいる……」


 亀のように平伏していたノルビットが起き上がるなり、フィスィアーダの言葉に唖然とする。

 ロベルクは仲間が立ち上がったのを確かめると、霊剣を石畳から引き抜いた。


「よし、水上神殿に乗り込むぞ!」


 ロベルクは二人の仲間と頷きを交わすと、氷の橋を水上神殿に向かって駆け出した。

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