第六十九話 『門前の官吏』
トーゾーの屋敷から漕ぎ出すと、やけに湿っぽく肌に纏わりつくような風を感じた。夏が近いとか、水域が多いとかでは説明しにくい、奇妙な湿気だった。
ロベルク達は副伯邸からは少し離れたところでゴンドラを降り、徒歩で接近すると門の出入りが見える建物の陰に身を隠した。
屋敷の周辺は先程にも増して湿り気を感じる。まるで海が溜息を吐きかけたかのように濃密な湿気だ。
「ロベルクさん」
イハルに呼びかけられて振り返ると、彼女は相変わらず何を考えているかわからない表情をしてついてきていた。
「ロベルクさん。わたくしは艇庫から侵入して、リンノの安否を確かめたいと思います……」
「いや、しかし……」
慌てて止めるロベルクに、イハルは頭を振って見せた。
「わたくしは、裏切る力がないという点で父に信頼されています。大丈夫です……もう命を粗末にする気はありません」
「わかった。くれぐれも気をつけて」
頷くイハル。
「わたくしが屋敷に入った頃を見計らって、正面で騒ぎを起こしてください」
イハルは同道していた男に舟を出すよう命じる。そのままゴンドラは屋敷の艇庫へと消えていった。
二人は暫く副伯邸の門を見張る。
木製の角材を組み合わせた城門棟に陶板製の屋根が乗り、分厚い木製の門扉が取りつけられた、ファス・トリバー風の華やかな門だ。
日中ということもあって、門前の往来は多い。しかし、門番の放つ物々しい気配と異様な湿気のせいで、人々は首を竦めて足早に門前を通り過ぎていた。
「人通りこそ多いけど、活気がないように感じるな」
「そうね。渡し舟が値上げされたってことは、動くだけで余計な金を取られるってことだからね。あと、この気候のせいもあるかしら」
「うん。明らかに精霊が乱れている。水の精霊が、風や土の精霊の領域を浸食しようとしているかのような動きだ」
と、三人の騎士が門の中から現れた。向かって右側の騎士は、東方語で『罪人』『水神』などと書かれた立て札を担いでいる。三人は鎧こそ着てはいなかったが、腰の新月刀と威圧的な歩きぶりは、領民が足裏の下で踏みにじられるのは当たり前だという意識が隠し切れていなかった。
門を避けていた人々が、つい何事かと振り向く。
「カンムーの善良なる民よ、聞けい!」
中央の騎士が叫んだ。
右の騎士は、立て札を恭しく門柱に立て掛けた。
道行く人々は興味というよりは、騎士の機嫌を損ねない為に嫌々立ち止まったのがありありと見て取れた。
騎士は領民が命令に従っているのに気をよくしたのか、口角を吊り上げた。
「昨今、街は真なる船頭ギルドと旧船頭ギルド残党との抗争や、精霊の乱れと思しき水の汚れや海の荒れに見舞われている。住民諸君が苦労と不安を募らせている現状に、我等の領主様であるカンムー副伯ウモン様は大変心を痛めていらっしゃる」
(自分達がしでかした愚挙の結果だろうに)
ロベルクが内心毒突く。
それに呼応するかのように、集まった群衆からざわめきが漏れる。
不満めいた響きを感じるが、騎士達は敢えて無視したのか鈍感なのか、演説を続けた。
「だが、安心するがいい。英明なる副伯様は対策を立てられた」
騎士の言葉に、群衆が静まる。
息を飲む群衆を前に、騎士は改めて大きく息を吸い、声を張り上げた。
「旧ギルド残党の首謀者、トーゾーの娘を召し捕った。これを水神アレイルへの供物に捧げる。反逆者の勢力を削ぐと共に反逆への見せしめとし、同時に水神のお怒りを鎮めるという、一挙両得のお考えである!」
静まり返る門前の広場。
騎士達は、自分の言葉が民衆に与えた影響を見て、満足げに薄笑いを浮かべた。
「あ……」
一人の男が気づいたように声を漏らした。
「……それって、リンノちゃんを生け贄にするってことじゃあないか?」
名を知らぬものがリンノ、と反芻する。
「トーゾーさんの娘さんだよ。見習いの……」
「見習い……?」
「見習いだと?」
『見習い』という言葉が、群衆に伝播していく。それは直に怒りを含んだざわめきとなった。
「見習いは街の未来の宝だぞ!」
「見習いにギルドの罪を被せたら、仕事が守られないじゃないか!」
「横暴だ!」
「撤回しろ!」
ざわめきは怒号となり、民衆が騎士達を取り囲み始める。
「黙れい!」
堪りかねた騎士達が新月刀を抜いた。
「これは副伯様がお決めになったことだ! 逆らうなら……成敗してくれる!」
その声を聞いた左側の騎士が、反射的に目の前の男に新月刀を振り下ろす。
男は苦痛と衝撃で裏返った叫びを上げる。傷は浅かったようだが、斬られた驚きの余り、叫び声を上げ続けながら地面を転げ回る。
怒号は悲鳴に取って代わられる。民衆は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。
「副伯様に逆らうなら、お前等もトーゾーの娘と道連れだ……」
「やめろ!」
気づくとロベルクは、建物の陰から飛び出していた。
命乞いをする弱者の声とは異なる響きに、騎士達が手を止める。
「何だ、お前は⁉」
「リンノとトーゾーさんに縁のある者だ」
「権力を持っている奴が嵩にかかって、無力な人々を傷つけるのは許せないわ」
セラーナも後ろから歩み出る。無造作な動きだが、いつでも懐から武器を取り出せる体勢だ。
「そうか……」
三人の騎士は、民衆を追うのをやめ、ロベルク達に切っ先を向けた。
「では、貴様等から先に冥界へ送ってやろう」
ロベルクはそれには答えず、霊剣を鞘から引き抜いた。街の人が安全な距離を取ったのを確認すると、霊剣の切っ先を相手の死角に構え、無造作に間合いを詰める。
「死ねい!」
左側の騎士が、血糊の付いた新月刀でロベルクを袈裟斬りに斬りかかる。
それに合わせるように急加速するロベルク。相手の右手側に潜り込み、霊剣を振り上げて新月刀を滑らせる。柄頭で肘を打ち、体勢を崩した騎士の脇腹を薙いだ。
「がっ!」
「リンノは……必ず返して貰う」
凍りついた傷口を蹴り飛ばすロベルク。
騎士は
同胞が倒れたのを見て動揺する中央の騎士。
「お……おい!」
「余所見はいけないわ」
騎士が声を上げると同時に、彼の手から新月刀が滑り落ちた。
気づけば彼の視界の端からセラーナの姿が消えるところだった。そしてさらに数瞬後、彼は自分の腕の腱がセラーナによって切断されていることに気づくのだった。
「あ……ああ……」
最後に立て札を持っていた残された。
ロベルクとセラーナの視線を刺されて硬直する。
「……シャルレグ」
ロベルクの呼びかけに応じて、虚空に竜の姿をした氷の王が姿を現す。それは周囲に厳冬の冷気を撒き散らしながら騎士を睨めつけた。
「吹雪で壁に叩きつけて、凍りつかせろ。頭を冷やさせるんだ」
頷いたシャルレグの口から凍りついた息が吐き出される。
逃げる気力も失った騎士は吹雪に吹き飛ばされ、歪な雪像の中に埋め込まれた。
横暴な官吏を叩きのめし、歓声が沸き起こる中、ロベルクとセラーナは顔を見合わせた。
「少し先走ってしまった……そろそろ副伯邸の中へ行こうか」
「あたしもそう思ってたところよ」
シャルレグがロベルクの意思に呼応し、木製の門扉を凍結粉砕する。
季節外れの雪が舞う中、ロベルクとセラーナは副伯邸の中へ脚を踏み入れた。
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