第六十五話 『謀の館』
「奴等はその路地を曲がっ……」
空き家の一つに駆け込んで扉を閉めると、追っ手の声が消えた。
そのまま人影について細い間取りの空き家を駆け抜ける。打ち捨てられた家具や調度は都合よく壁際に寄せられていた。どうやらこの空き家は、『海竜の牙亭』からの脱走者を匿い、追っ手を撒く為に予め準備されていた逃走経路のようだ。
いくつかの路地を渡り、いくつかの空き家を通り抜けると、見覚えのある屋敷の前に辿り着いた。
その佇まいは、ロベルクの記憶のそう深くないところに刻まれていた。まさに昨夜、この屋敷を別な角度から眺めていた。副伯の別邸だ。
ロベルクの脚が止まる。
数歩先を走っていた人影はそれに気付き脚を止めると、その行動を訝しんで振り向いた。
「どうした?」
「ここは、副伯の別邸だな。イハル・レンドーが住まう」
「そう、だが……」
「騙した……のか?」
底冷えのする声と共に巻き起こる殺気。
ロベルクの言葉に男は狼狽える。
「ち……違う! イハル様は父君のやりように……いや、ここでは言いにくい。疑われるなら、俺の首を下げて入られるがよい」
男の言葉に、ロベルクは落ち着きを取り戻す。
「……イハルという女性は、随分人望が厚いようだな。失礼した」
男は頷くと、門へとロベルクを案内した。
館に入ると、ロベルクは即座に上階の客室へと通された。
「そちらのお嬢さんは、寝台へ」
「あ……ありがとう。でもソファがいい」
セラーナは男の心遣いをやんわり断ると、ロベルクと共に応接セットへと向かった。自力では歩行もままならないセラーナに肩を貸しながらロベルクが応接セット向かい、ソファで一息ついたのを確認して、男は退室した。
ロベルクは肩に掛かるセラーナの体重を感じながら、室内を見回した。当然のことながら、ロベルクに覗き穴や聞き耳穴の類を見つけることはできなかった。
格子状の木彫があしらわれた袖壁の付いた天蓋付きの寝台が二つ。『海竜の牙亭』にあった下心を匂わせる広大なものではなかったが、それぞれに一人が眠るには十分すぎる大きさだ。
寝台の向かいの壁には、観音開きの扉が付いた物入れが置かれていた。その扉の文様に、ロベルクの意識は吸い寄せられた。
(これは、どこかで……)
記憶を探る為に天井を見上げるロベルク。そこにも同じ、草が絡むような精緻な文様が描かれていた。そして、寝台の横の机に眼を移すと、そこに答えがあった。
猫の人形だ。
寸胴で、愛嬌のある顔立ちの猫。その胴体に刻まれた文様は、この屋敷の内装に取り入れられたものと全く同じだったのだ。
「この猫は、確かリンノが……」
「よくご存知で。これらはリンノからいただいたものです……全て」
ロベルクが独りごちるのと同時に扉が開き、冷たい声が響く。
「……あの子は赤子の頃に見ていた天井の文様を、無意識のうちに自分の装飾に取り入れていたのかも知れません」
そこには、先程の男に連れられて一人の貴婦人が立っていた。深夜なのに繊細に織り上げられた生地の衣を纏い、鮮やかな帯で腰を飾っている。陶器のように滑らかな肌と薔薇色の唇は、まるで生きながら硝子で封じ込められた花のように儚く見える。硬質な光を湛えた煉瓦色の瞳と燃えるような臙脂色の髪だけが、この女性の生命を主張しているかのようだった。
「誰だ」
鋭い声を突き刺すロベルクに、女性は表情もなく答えた。
「わたくしは、イハルと申します」
「イハル・レンドー……副伯の娘……」
ロベルクの横で、弱り切ったセラーナが渾身の力で声を絞り出した。
「その副伯の娘が、何故僕達を匿う?」
「父の政を改めたい……では、答えになっていますか?」
「僕達は、今は確かに助けられてここにいる。だが、今ひとつ信用に至らない」
その言葉に別段感情を動かされた様子もなく、イハルは相変わらず夢の中を彷徨うような声で話を続けた。
「血縁上、信用がないのはごもっとも。では、あなたの知り合いであり、わたくしの愛するリンノと、この猫の人形に免じて、せめてわたくしの話だけでも聞いてくれませんか?」
イハルの口からリンノの名が出たことは、ロベルクの警戒を幾分和らげることに一役買った。
空気が和んだことを感じたイハルが、ロベルクの向かいのソファに腰を掛ける。背後には先程の男が立った。
ロベルクが口を開く。
「……その前に、こちらも聞きたいことがある」
「何でしょう?」
「昨夜、あなたは外出の折、わざわざ領主から目をつけられているリンノのゴンドラを使っていた。その訳を聞かせてもらいたい」
「……昨夜」
ロベルクの問いを、イハルは反芻した。
「わたくしは先程、『愛するリンノ』と言いました。多少危険でも、愛するリンノの生業を助けたいと思っただけです。何故なら……リンノはわたくしの妹だからです」
ロベルクとセラーナの肩が同時に跳ねた。
「妹……副伯の娘と船頭ギルドの役員の娘が、姉妹……?」
「はい。リンノはトーゾー殿の実の娘ではなく、わたくしと同じ、ウモン・レンドーの娘です。とはいえ、母は違うので腹違いの姉妹なのですが」
「言われてみれば……リンノはトーゾーさんに似ているとは言いがたい。寧ろ……」
ロベルクは脳裏でリンノとイハルを重ね合わせた。髪の色、目の色、顔立ち――確かにリンノはイハルとよく似ている。
そして、イハルの行動も副伯の政策に水を差すものだ。危険を冒して敢えて従来のギルド役員の関係者を助けていたとなると、イハルが副伯のやり口を快く思っていないという主張も信憑性が高まってくる。
「話……聞いても、よさそうよ……」
渾身の気力で瞼を開けていたセラーナは、イハルの言葉に対して何か腑に落ちるものを感じ、ロベルクの膝の上にがっくりと崩れ落ちた。
ロベルクは目元に一瞬緊迫の色を浮かべるが、彼女の肩がゆっくりと上下していることを確かめると、彼女が眠るに任せることにした。膝に乗った彼女の頭を撫でると、ロベルクはイハルに視線を戻した。
「……色々と失礼した。僕はロベルク、この
「まあ、やっぱり」
名を聞いたイハルは言葉だけで驚いた。
「お二人の名前と風貌はリンノから聞いていましたわ。これも何かの導きかしら。嬉しいわ」
別段嬉しそうでもなく喜ぶイハル。
「お強いのですってね。リンノが何度も助けられたと、大層喜んでいました。ロベルクさん、セラーナさん、そしてジェンタイさんという方に」
「強いかはともかく、彼女のことは何度か助けた。ジェンタイはこの街を案内してくれたが、今朝別れたところだ。彼はこの街に詳しいようだったから、何かの助けになったかも知れないが……」
ロベルクの態度が軟化したことを察し、イハルは居住まいを正して口を開いた。
「わたくしはずっと、父に追放され不遇の暮らしを強いられている家族や、路頭に迷った使用人などを調査し、秘密裏に呼び戻す活動を続けてきました」
「よく領主にばれなかったな」
「ええ。父はわたくしの政策立案能力以外には興味がなかったようですから」
顔色も変えないイハル。その表情から悔しさや諦念を窺い知ることはできない。
「わたくしは、父に捨てられて城壁の外へまで水汲みに行く程の苦労をしているリンノを引き取り、共に暮らしたい……場合によっては、その父であるトーゾー殿も含めて。ところが、なぜかうまくいかなくて、今に至ります……」
そこまで言うとイハルは、ロベルクとセラーナの顔を交互に見た。
「最近では、水汲みに出たところを保護しようと冒険者風に変装させた使いを出しましたが……半森妖精の男と盗賊の女と騎士に撃退されまして」
ロベルクはその場面に心当たりがあった。確かあの時は、荒くれ男にリンノが取り囲まれて、剣で脅されて連れ去られようとしていた筈だ。
「……あれは『名乗りもせずに拉致する』というのだと思うぞ」
「あらあら、そうだったかも知れませんわ。連れてきてから素性を明かそうと思っていたもので」
言ってからイハルは、ふふ、と付け加えた。
ロベルクはイハルが笑ったらしいことを理解すると、自身も微笑んだ。一頻りして笑みを収めると、イハルの煉瓦色の瞳を覗き込んだ。
「……で、親戚や元使用人を集めて、何をするつもりだ?」
「先程も申しましたわ。父の政を改めたい、と」
「改める、といっても色々ある」
「そうですわね」
イハルはゆらりとした口調で答えると、ソファから立ち上がり、天井の文様を見上げた。
「……簡単に言うと、父の政に対する反対命題として、リンノを……そして父の手によって城を追われた人々をわたくしの手で元の暮らし……乃至はそれに近い暮らしができるようにしていきたいのです」
追放された者達に元の暮らしをさせる――それはつまり副伯の方針と対立するということだ。イハルは巧妙に話をぼやけさせているが、背後では血生臭さがちらちらと漏れ出ていた。
だがロベルクは、リンノの身に関わることについて今更尻込みするつもりはなかった。
「聞こう」
ロベルクの言葉を聞き、文様の線を眼でなぞっていたイハルは視線を下ろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます