第六十四話 『深夜の逃走』

 静まり返った廊下は、格式の醸し出す静寂と言うよりは、まるで狩人が息を殺して潜んでいると言うべき危険な空気を孕んでいた。


 ロベルクが無言で氷の王シャルレグを呼び出し、両隣の扉を凍結させる。これで監視者がそのまま追っ手になる事態は暫く防げるだろう。だが、元からロベルク達を殺すつもりで客室に案内したとすれば、両隣の偽装客室以外からも敵が飛び出してくる可能性もある。


「気づかれるのが遅れるように、静かに下りるわよ」

「わかった……」


 二人は忍び足で階段室へと向かう。


「はあ……はあ……」


 セラーナの息が荒い。先刻の演技の名残……というわけではなさそうだ。


「セラーナ、具合が……」

「今はできるだけ早く、できるだけ遠くに逃げることが大切よ」

「ああ、わかった」


 階段を駆け下りるセラーナの足取りは、いつもと同様に軽い。

 ロベルクは心配をひとまず胸に納め、セラーナの後ろに続いた。


 一階に辿り着くと、セラーナはロビーに背を向けて中庭へと駆け出した。


「人が多いところを突っ切るわけにはいかない。中庭を抜けて裏門から脱出するわ」


 鮮やかな花を付け、葉の多い南国の植物が植えられた中庭は、身を隠しながら移動するのに最適だ。ロベルクとセラーナは街の中心部にも関わらず広大な面積を持つ中庭を容易く横断し、裏門を難なく発見することができた。


 自前の井戸や食糧倉庫などが、客からは目立たないように配置してある。その中で、ロベルクは奇妙な小屋を目に留めた。一際陰鬱な佇まいのそれは、不自然な程に窓が少なく小さい。そして扉は重そうな木製で、縁に金属が打ちつけてある。まるで牢獄のようだった。


「何だ、この小屋は?」

「何だか、嫌な気配を感じるわ」


 小屋の壁面に近づくセラーナ。が、ぴしりという何かを打ちつける音を聞いて、動きを止めた。


「……まだ追っ手も掛かっていないし、ちょっとだけ見てみましょう」


 二人は音もなく扉に寄ると、隙間から中を覗き込んだ。


「これは!」


 ロベルクとセラーナは同時に息を飲んだ。

 小屋の内部は仕切りのない倉庫のような作りになっていた。広さに対してランタンの数が足りず、室内は薄暗い。小綺麗に見せかけられた外観に対して酷く粗末な室内には、薄汚れた衣を着た数十人もの男女がすし詰めに座らされ、俯いて作業に取り組んでいた。手には切り分けられた革と針――


「あれは……水袋だ!」


 ロベルクが無声音で叫ぶ。


 二人が驚きに身を強張らせている前で、一人の痩せこけた男が咳き込んだ。


「オラァ! 手を休めるんじゃねえっ!」


 太った見張りが鞭を振るう。

 男は身を縮ませるが、鞭の先端は彼ではなく隣で作業をしていた女の背を打ちつけた。


「ちっ!」


 見張りが聞こえよがしに舌打ちする。

 男は自分が打たれたよりも酷い痛みを感じたかのように苦悶の表情を浮かべ、作業を再開した。


 セラーナが眉根を寄せる。


「宿屋の裏にもこんな作業場があったなんて……しかも運河の倉庫より劣悪な環境ね」

「酷いな……助けよう」

「駄目よ!」


 精霊を召喚しようとするロベルクの手を掴むセラーナ。


「今、こんなにたくさんの人を助けても、追っ手が掛かったら全員を逃がしきることはできないわ」

「確かに……そうだけど……」


 ロベルクの握る拳に力が籠もる。


 不意に、背後の通路から剣呑な声が響いた。


「表からは出ていない! 中庭を探すぞ!」


 はっと目を合わせるロベルクとセラーナ。


「いくわよ!」

「わ……わかった」


 二人は音もなく裏門へ滑り寄り、『海竜の牙亭』を後にした。


 人目も灯りもない裏路地に、二人の小さな足音が響く。


「はあ……はあ……くっ」


 二つも角を曲がった頃、早くもセラーナの息は上がっていた。


「セラーナ、やっぱり具合が悪いんだね?」

「うん……」


 走る速度を落としてロベルクを見上げるセラーナの額は汗に濡れている。頬を伝って雫が滴った。


「あたし、夕食のときに……最後の食後酒をこぼしたわよね」

「ああ」

「あれに毒が入っていた」

「何だって?」


 ロベルクの脚が止まった。


「けど……唇に触れただけで、全く飲んではいなかったじゃないか?」

「そう、よ……」


 話している内にセラーナの身は前屈みになり、膝に力が入らないように震え始めた。


「匂いがなく効果も即効性も高い、物凄く値の張る睡眠薬よ。それが、致死量を遥かに超える程入ってた……」

「致死量……?」


 首を傾げるロベルクをよそに、セラーナは閉じそうになる瞼を必死で開きながら毒突いた。


「本っ当に凄い睡眠薬なの……唇に触れただけで効果を及ぼすくらいにね。でも小瓶一つで小さな家が一軒建つくらい高くて。それを計量もしないで……こんな雑な使い方をするなんて……許せない!」

「じゃあ、あのとき……?」


 手を貸すロベルクにセラーナは弱々しく微笑んだ。


「ええ。酒に入れると味を誤魔化せるんだけど、流石に致死量を入れられたら唇に触れただけで震えが来たわ」

「何てことだ!」


 最早、腕に縋っている状態のセラーナを支え、街路を逃げるロベルク。彼の耳には、背後から迫る足音が聞こえていた。


(多い……二十人前後か。乱戦になれば周囲への被害も避けられないな)


 音はまだゆっくりだが、確実に近づいてくる。歩きながら周囲の検索をしているのだ。


「光の精霊よ、闇を灯せ」


 追っ手が精霊を召喚するのが聞こえた。曲がり角から弱い光が差し、建物の影が伸びる。


(まずい……)


 ロベルクのこめかみを汗が流れたのは夜中まで暑気が居座っているせいではなかった。隠れられそうな建物の隙間もない。このままでは光を灯された道の真ん中で発見されるのは時間の問題だ。かといって、光の精霊を消滅させれば、近くにいることが露呈してしまう。


「セラーナ、走れる?」

「す……少しなら……」

「光を消したら走るよ?」


 ロベルクはセラーナが頷いたのを確認した上で、氷の王シャルレグを召喚した。曲がり角から光が見えた瞬間、氷の矢を発射し、光を貫いた。

 街路に暗闇が戻る。

 それを合図に駆け出すロベルクとセラーナ。

 同時に刺すような声が響く。


「光の精霊が攻撃された。近くにいるぞ!」


 ふらつくセラーナの手をとり走るロベルク。振り返れば、明らかに兵士と思しき一団が武器を手に曲がり角からわらわらと湧き出していた。


(思ったより早い!)


 ロベルクの手に力が籠もる。


「あっ」


 不意にロベルクの身体が下方に引かれ、握った手が引き剥がされた。

 セラーナが――運動能力において誰にも引けを取らなかったセラーナが――石畳の僅かな窪みに躓いた。そのまま受け身も何もなく、石畳の上を転がる。


「セラーナっ!」

「つうっ……はあっ、はあっ」


 セラーナは言葉を紡ぐこともままならず、浅い呼吸をしている。


 追っ手が迫る。剣は抜かず、網や刺又を用意しているのが見える。生け捕りの態勢だ。無論、不利となれば殺すことも躊躇しないのだろうが。


(こうなっては、無関係の人々に被害が出るのもやむなしか。僕はセラーナを守る!)


 ロベルクはセラーナに肩を貸しながら、氷の王シャルレグに指示を出すべく精神を集中する。


「そこの二人、こっちだ!」


 不意に、一区画先の路地から声が掛かった。


「誰だ?」


 暗がりに人影が身を潜めている。暗視能力を持つロベルクでなければ、そこに人影があることすら把握できなかっただろう。

 人影が、男の太い声で答えた。


「我々は『海竜の牙亭』から逃げ出した者を発見し、保護している組織だ。領主の手先ではない」

「それを信用しろと?」


 ロベルクの返答に、人影は掌を差し出す。


「その娘を庇いながら生き延びる公算があるのか? だったら尚更、どうか信用して我々についてきてほしい」

「…………」


 思案を許された時間は殆ど残されていなかった。

 背後には領主の追っ手が迫っている。


「……わかった」


 ロベルクはセラーナを抱きかかえると、暗い路地に飛び込んだ。

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