第九章 精霊の消えた運河
第五十一話 『北門へ』
暗い水底に、『それ』は在った。
「どこ……? どこ……?」
『それ』は呼ぶ。言葉ではない。常人が聞き耳を立てても、水の揺らめく音にしか感じられなかっただろう。
だが、『それ』は呼び続ける。
己の下に辿り着かない『子供達』を……
***
「歓待ありがとうございました」
翌日、朝食まで供されたロベルク達は、艇庫で見送りを受けていた。
「道中気をつけて」
桟橋ではトーゾーが、様々な不安をない交ぜにした表情を浮かべていた。彼は自宅で待機する用事があり、ゴンドラで櫂を握っているのはリンノだ。
一晩の宿を提供されたロベルク達は、あまり好意に甘えすぎるのもよくないと、自力で北門に向かうと言ったのだが、トーゾーは何故か頑なに送ると主張したのだ。
一方のリンノは、親の心配をよそに自信満々といった風で胸を反らせていた。
「私にどーんと任せて。操船は一人前だから!」
「操船を心配しているんじゃあないんだが……」
トーゾーの顔が心配の色を濃くする。
親の心配もどこ吹く風のリンノは、早速ゴンドラを漕ぎ出した。
外は昨日の強風の名残が少々残っており、艇庫から出たセラーナの黒髪をたなびかせた。運河の水は支流でも乱れ、大運河に出るといよいよ波を感じるほどになった。
「北門へは、大体半刻程度で到着予定です。安全に運行しますので、快適な船旅をお楽しみください……なーんてね。最近はよくこういう天気になるから慣れてるし、安心してね」
リンノは慣れた手つきで櫂を操り、流れにゴンドラを乗せた。
大運河は荒天に関わらずたくさんのゴンドラが浮かんでおり、不安そうに船縁を掴む客と平常運転の渡し守の組み合わせが往来していた。一部のゴンドラがリンノのゴンドラを避けていく様子が見られる。昨日の立ち回りが噂になっているのだろう。
ゴンドラはじきに大運河を逸れ、北門に向けて舳先を向けた。
波は僅かに穏やかになり、乗り心地も安心したものになる。大運河に接続しやすい大きな支流は、見回すと左右に倉庫が並び、ゴンドラや艀、たまに小型の帆船なども係留され、活発に積み荷の上げ下ろしを行っていた。
その中の一軒に、三人が同時に興味を引かれる。
「精霊力の乱れを感じる」
「荷運びが武器を隠し持っているわ」
「倉庫の規模に対して人の数が多すぎるね」
「?」
リンノが首を傾げる。
別段、その倉庫に怪しげな船や人物が見えたわけではない。その倉庫が醸し出す僅かな違和感に、三者三様に気を引かれたのだった。
「いろんな商会がここに倉庫を構えているからね。必要以上に警戒していたり、もしかしたら禁制すれすれの物を運んでいたりするかも」
地元っ子のリンノも、三人に倣って違和感の出所をいろいろ想像して、さらに首を傾げた。
国によって、都市によって認可されている物、禁止されている物に微妙な差があることを利用して商売をする者もいる。そこに需要がある以上、供給して利益を得ようとする者が生まれるものだ。
ゴンドラは街中の運河を北門へ向かって滑る。左右に大きな倉庫や集合住宅が建ち並んでいる区画は風が遮られている為、揺れは殆どない。だがその分、空気の流れが滞りがちで、僅かな生活排水の臭いが鼻先を掠めた。
それぞれが考え事に没頭して言葉少なくなった頃に倉庫街は途切れ、昨日も見上げた北門が建物群の間から姿を現した。
ゴンドラは静かな水切り音とともに陸へ近づき、昨日の船着き場から少し離れた人目に付きにくい場所へと接岸した。
「門からちょっと遠いけど、変な騒動に巻き込まれるよりましかなって。ごめんねー」
「いや、助かった。ありがとう」
ロベルクが船着き場に降り立つと、小袋から1ラウ貨を六枚取り出し、リンノに差し出す。
「何してるのさ? タダだよ、タダ。この前のお礼にしては安いくらいだけどね!」
「ますます助かるよ」
ロベルクはリンノの好意に甘えて硬貨を納める。セラーナとジェンタイもそれに倣った。
「いい船旅だったよ、リンノ」
最後に降りたジェンタイはリンノに礼を言いがてら、しっかりと操船技術を褒め、片目を瞑って見せた。
「ジェ、ジェンタイったら……みんなまたね! 今度カンムーに来たときも、私のゴンドラを使ってね! ……あ、そうだ」
リンノは肩から下げた小袋をまさぐると、取り出した物を三人に手渡した。
「カンムーの記念に」
それは小さな木彫りの猫の人形だった。四肢や首が取れぬよう寸胴に作られた人形は、愛嬌のある表情を浮かべている。胴体には草が絡むような精緻な文様が刻まれていて、ちょっとした工芸品として販売に耐えうる出来と言えた。
「ほう、職人技だな」
「確か、猫はシージィでは金運を呼ぶといわれていたわね」
可愛らしい猫の人形を眺めて口許を綻ばすロベルクとセラーナ。
ジェンタイはすかさずリンノの手を取り、白い歯を見せた。
「これを見る度に君を思い出すことにするよ。今まで本当にありがとう」
「お礼を言わなきゃならないのはこっちだよ。みんな、よい旅を!」
船着き場で手を振るリンノと別れ、細い路地を通り北門の方へ向かう三人。
門前の大通りに出たとき、ジェンタイが歩みを止めた。
「さて、俺もここまでだ。名残惜しいけど、買い物の邪魔をしちゃ悪い。それに、二人の邪魔もね」
「あら、気が利くのね。さすが女たらし」
セラーナのきつい褒め言葉に、寧ろジェンタイは気をよくしてにやりとした。
「全ての女性の味方と言ってほしいな」
ロベルクはジェンタイの精神的な逞しさに苦笑していたが、ややあってジェンタイの方を向いて姿勢を正した。
「ジェンタイ、短い間だったが助かった」
「こちらこそ、面白い三日間だったよ。西のナージャラック台地は、ほぼ岩石砂漠だと思っていい。準備は念入りにね」
「ありがとう」
ジェンタイとロベルクが握手を交わす。お互い笑みを浮かべて手を離し――ジェンタイは何気なくロベルクの背後を見たまま硬直した。彼は不思議がるロベルクとセラーナに視線を戻すと、徐に口を開いた。
「……ロベルク、セラーナ。すまんが気が変わった。俺も店を見たくなった」
彼の表情の変化に、ロベルクとセラーナも表情を変えずに不穏なものを察知する。ジェンタイはごく自然に、ロベルクとセラーナの背後にある大きな商店を指差した。
「あの店を使ってみないか」
彼の指が示した先には『メニディ商会』の看板が掲げられていた。
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