第五十話 『船頭の親子』
トーゾーとリンノが暮らす家は、大運河から二回ほど支流に入った静かな区画にあった。二人暮らしにしては大きな建物で、使用人の一人でも雇っていそうな屋敷だった。敷地の中に水が引き込まれており、ゴンドラのまま屋敷内の艇庫に入ることができるという、凝った造りだ。他の建物の例に漏れず、壁には青い石材が用いられている。
ちょっと一服のつもりで屋敷に立ち寄ったロベルク達だったが、トーゾーとリンノの心尽くしに甘えてずるずると滞在してしまい、気づけば夕食までご馳走になっていた。
「ご馳走様でした。随分長居してしまいましたね」
食後の茶を飲み終えると、ロベルクはトーゾーに一礼する。
「気にしないで!」
トーゾーに代わって、台所から顔を出したリンノが返事をする。
「おなかいっぱいになった? 最近稼げてないから、大した食事が作れなかったけどね。全く、『新しいギルド』のせいで……」
「リンノ! 黙ってろ」
トーゾーから鋭い叱責が飛ぶ。
リンノは小さく肩を竦めると、台所に消えた。
「どうも、お恥ずかしいことをお聞かせしました」
トーゾーは必要以上に恐縮した様子でに筋肉質の身体を縮めている。
彼女の背中を見送ったジェンタイは、椀を置いてトーゾーに正対した。いつになく生真面目な表情をしている。
「トーゾーさん、よかったら話を聞かせていただけないだろうか? 一応俺はシージィ騎士家に繋がりがある。何か助けになれるかも知れない」
「いえ……」
口籠もるトーゾー。
その時、表玄関の戸が荒々しく叩かれた。
昼の一件もあってか、一同に緊張が走る。
「失礼」
トーゾーが立ち上がり、戸の内側から呼びかける。
「どちら様で」
「俺達だ。開けてくれ」
知った声だったと見え、トーゾーは戸の閂を外した。
「よーう」
開いた扉をくぐって、三人の屈強な男が姿を現した。皆、白黒の横縞に染められた前合わせの服に、裾の広いズボンを身につけている。三人とも渡し守のようだ。
「お前達か」
トーゾーの顔が綻ぶ。
男達は手に手に食べ物や酒瓶を持って、一同が集まった食堂へ入ってきた。彼らは父子以外の顔を認めると、トーゾーに話しかけた。
「客とは珍しいな」
「旅の人だ。リンノの恩人でな……相当な腕だ」
「へえ」
男達は値踏みするようにロベルク達の顔を見比べた。一瞬、侮りが見え隠れしたが、人の強さが見かけによらないことを知っているのか、軽い表情はすぐになりを潜めた。三人はロベルク達に軽く会釈すると、一人がトーゾーの方へ進み出て深々と頭を下げた。
「トーゾー、昼間は俺の弟が失礼なことをした」
「お前の弟かよ……まあ、いいってことよ」
「すまねえ。俺達も生活があるから、『新しいギルド』には逆らえないんだ。お前ほどの腕っ節も肝っ玉もない」
男達は言い終わるや、机の上に肉や魚、
「食材と酒だ。受け取ってくれ」
「いつもすまねえな」
「こっちこそ、力になれなくてすまない。メニディ商会の金の力にはかなわない……」
「おい!」
不満を漏らしかけた男の袖を、別な男が引く。
「旅の人に身内の恥をさらす必要もないな……今夜は失礼するぞ」
男達はそれぞれの荷物を置くと、いそいそと屋敷から出て行った。
食堂には数日分になろうかという食糧と酒、そして奇妙な沈黙が残された。
「やれやれ……」
昔の仲間を見送ったトーゾーは観念したように椅子へ戻った。
「こんなにお喋りがいてはかなわん。お話ししましょう」
彼は重い口を開いた。
「ご存知かも知れませんが……実は、半年ほど前から船頭ギルドが分裂し始めまして……」
「分裂……メニディ商会の息がかかった『新しいギルド』ってやつか」
ジェンタイの呟きに頷くトーゾー。
「数年前から、ゴンドラの修繕や渡し守の制服調達にメニディ商会が顔を出すようになりました。皆、最初は価格が安いメニディ商会を重宝がりました。ですが、その時既にギルドの乗っ取り計画は始まっていたのでしょう」
トーゾーが僅かに声を潜めた為に、室内は物音を立てることすら憚られる空気になっていた。
「それと同時にメニディ商会の会頭であるコギョーが台頭し、領主様の館にもしばしば出入りするようになっていきました。コギョーはあっという間に船頭ギルドの御用聞きとしての立場を確立して、競合の商会や造船業は手を引いたり廃業したりしていきました」
「よくも悪くも切れない仲になっていた、と」
ロベルクが確かめると、トーゾーは苦しそうに唸った。
「その通りだ。ある者は高額な報酬に目がくらみ、またある者は法外な修理費や整備費と引き替えに、一人、また一人と『新しいギルド』に引き抜かれていった。今思えば、コギョーが裏で手を回していたのかも知れない」
図らずも一同の溜息が重なる。
「西方への旅の拠点であるカンムーで水運を牛耳ることができれば、莫大な利益を出すことができるでしょうね」
セラーナが言いながら、貴重品の水が入ったグラスに口を付ける。
ロベルクは彼女の瑞々しい唇に吸い込まれていく水を眺めているうちに、ふと昨日の出来事を思い出した。
「ところで、飲み水の井戸に兵士が立つようになったのは、メニディ商会の台頭と何か関係があるのですか?」
「関係は……正直わからん」
トーゾーは一瞬考えた末、首を振った。
「だが、それからというもの、運河の水質汚濁が始まり、街の井戸には兵が立って金を取るようになってしまった」
「それで甘い汁を啜っているのは領主とコギョー……でも、金と水の問題というだけで二つの問題を繋げるのは難しいわね」
セラーナの客観的な意見に、トーゾーは気を悪くした様子もなく頷いた。
「俺もギルドの役員として、調査や嘆願など手を尽くしたんだが、力及ばなかった」
隆々たる肉体を萎れさせるトーゾー。
ジェンタイがその姿を見て口を開く。
「何にせよ、水という命に関わるものに対して兵士が金を取り、それを見逃しているとすれば、領主の責任と言えるな」
「いえ!」
ジェンタイの言葉を慌てて遮るトーゾー。
「領民同士の小競り合いです。旅の最中に余計なご心配をお掛けしてしまい、申し訳ありません。騎士様のお手を煩わせるほどの問題ではありません」
「俺はただの司祭さ。ただ、ちょっとお節介なだけでね」
「話、終わった?」
ちょうどそこに、台所の片づけを終えたリンノが入ってきた。
「今日は泊まっていってよ。いつもお父さんと二人でつまらないんだ」
「それはいい。リンノも喜ぶ。三人とも今夜の宿が決まっていなければ、うちに泊まっていただきたい」
トーゾーもリンノの意見に同調する。
「しかし……」
「待てロベルク。今夜はご厄介になろうかと思う。どうかな?」
ジェンタイがロベルクの言葉を遮る。
横で見ていたセラーナはジェンタイの様子を窺っていたが、自分やリンノを意識していないことに気づき、夜這い絡まりではない理由を感じ取った。
「……あたし達も泊まらせていただきましょ。ね、ロベルク」
「? わかった。トーゾーさん、一晩の宿をお借りします」
ロベルクの言葉に、トーゾーもリンノも破顔して頷いた。
夜。
和やかさを取り戻した夕食の時を終えた三人は、それぞれが広い屋敷の使っていない部屋で就寝前のひとときを過ごしていた。
ロベルクが寝台に上がろうとしたとき、扉をノックする音が小さく響いた。
「誰だ」
「あたしよ」
扉を開けたロベルクは、滑り込んできたセラーナから薫る妖しい色香に、心臓の鼓動が速まるのを感じた。
セラーナは南国らしい薄手の夜着に着替えていた。いつもとは違う異境の衣は彼女の魅力に危うい艶を加えている。
「リンノから夜着を借りたの。似合う?」
「え? ああ。とても……可愛らしい」
「ふふっ、ありがと」
セラーナは艶やかに微笑むと、頬を赤らめるロベルクの前を通り過ぎ、寝台に腰を掛けた。そして自分の隣を軽く叩くと、戸惑うロベルクに座るよう促す。
「いくつか、話があるわ」
「な、何?」
ロベルクは自分の声が僅かに上擦っているのを感じた。彼はセラーナの隣に座ると、所在なさげに指を組んだ。
「夕食時にあった話、どう思う?」
「どうと言われても……」
ロベルクは高鳴る鼓動を必死に押さえつけながら頭を働かせた。
「カンムーは南国で、水質もよくないようだ。領主が有料を主張するなら仕方のないことだと思うけど、ただ……」
「ただ?」
「ここの運河の水は、精霊力が乱れているように感じる」
呟くロベルク。
セラーナは、はっと顔を上げた。横に座るロベルクの顔を覗き込む。
「それって、水の有料化が人為的に引き起こされたってこと?」
「あり得ると思う。レイスリッドの話だと、精霊が嫌う行いを続けると、精霊がその場所や精霊使いを避けるようになるんだそうだ」
ロベルクが、戦友であり師でもある魔術師の顔を思い浮かべる。彼はロベルクに力の使い方を伝授してくれただけでなく、様々な知識も与えてくれた。彼ならこの事態にどう反応しただろうか。
「精霊力の乱れなら、僕の力で何とかできそうな気がする。精霊の力は命ある者を困らせる為にあるのではないからね。だけど、そういったことに首を突っ込むと、ウインガルドに到着するのが遅れて、結果として王国奪還の遅れに繋がる」
ロベルクは悩ましげに溜息を吐いた。
「何とかしてあげたいところだが……一日も早くウインガルドに到着したい」
「ロベルク……」
セラーナがベッドに置いたロベルクの手に自分の手を重ねる。
ロベルクの肩越しにセラーナの温もりが伝わるのを感じた。
二人の語らいを隠すように、屋外では風が吹き始め、鎧戸が細かく揺れる音が鳴り始めた。
「優しいロベルク……あたしは大丈夫」
セラーナは隣でロベルクを見上げた。冬の夜空のように澄んだ黒い瞳は、ロベルクへの信頼を湛えている。
「この前も言ったでしょ? 力ある者は力なき者の為にその力を使うべきだって。それに、こういう普通じゃない出会いって、絆が続くときが多いから大切にすべきだと思う。だからリンノとトーゾーさんに……」
と、風の音に紛れて、何か大きな物が地面に落ちたような、柔らかく重い音が耳を叩いた。
「セラーナ、聞こえた?」
「うん」
ロベルクが寝台の横に立て掛けておいた霊剣を引き寄せる。
横でセラーナが身を固くする。が、それは恐怖ではなく、いつでも動くことができる為の構えだ。
二人は音もなく窓の両脇に身を貼りつけると、暫く耳を澄ませる。しかし、扉は沈黙を守り、鎧戸は相変わらず風を受けてカタカタと揺れているだけだった。
ロベルクは声を立てず精霊界に意識を集中する。
「我が
ロベルクの無声音での召喚により、鎧戸で閉じられた室内に微風が巻き起こる。
「『命あるもの』の動きを探れ」
命令に従い、部屋の微風は一瞬でやみ、屋外の強風に紛れる。暫くして、微風がすきま風のように舞い戻ってきた。目に見えぬ風はロベルクの耳朶を撫で、ロベルクはそれに何度か頷いた。
「屋敷の外には怪しい生き物はいないそうだ」
「なら、いきなり鎧戸を開いても安心ね」
セラーナは返事をすると、窓と鎧戸を開いて周囲を睨みつける。隣の屋敷にも注意深く視線を走らせると、次いで眼下の庭を見下ろした。
「微かに……何かを引き摺ったような……跡が……」
「僕にはわからないな」
「もう何の気配も感じられないわ。シャルレグも『いない』って言ってたのなら大丈夫でしょう」
「そうか」
ロベルクは安堵の息を吐くと、窓を閉めた。
「じゃあ、安心して寝るとしようか。お休み、セラーナ」
「ロベルク」
振り向いたセラーナの表情がみるみる不機嫌になっていく。
「もう一つ、話があるわ」
「な、何?」
戸惑うロベルクに、息が掛かる距離までにじり寄るセラーナ。
「あたしが夜中に、こんな薄着で部屋へ入ってきたのに、何とも思わないわけ?」
「え? 何ともって……何?」
「はあ……もういいわ。お休み」
セラーナは目元を押さえて首を振ると、戸惑うロベルクの鼻先を掠めて自分の寝室へと帰っていった。
同刻。
彼は寝台に身を横たえたまま、灯りの消えた暗がりの中へ視線を送っていた。
誰もいないはずの暗闇に、微かな人の気配が現れる。
「――様、屋敷の周りをうろつく不穏な者を排除しました」
「ご苦労だったね」
彼は警戒する風でもなく、暗がりに言葉を返した。
暗がりの気配もまた、ごく自然に闇に紛れて話を続けた。
「あまり無茶をなさいませぬよう……」
「わかっている。でも、そういったことを知っておくのも――の務めだと思うんだよね」
「……は」
「君達は引き続き、メニディ商会の動きに眼を光らせてくれ」
「承知しました」
「それと、リンノが部屋に来ないのだが、化粧でもしているのかな?」
「リンノはとっくに休んでいます。女漁りもほどほどに……」
「うーん、仲良くなれたと思ったんだけどね……まあいい。トーゾーとリンノの守りも、合わせて頼むよ」
闇の中の気配は消え、また静寂が訪れた。
「……彼らのお陰で今回の旅は賑やかだ。それも……いいな」
彼は満足げに微笑むと、改めて眠りに落ちていった。
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