第四十九話 『運河は波高く』

 翌日。

 朝のひとときは何の騒動もなく過ぎ、三人は宿を出た。

 街路は行き交う人で賑わい、開店準備をする商店員や場所取りをする屋台の店主が忙しそうに働いていた。

 その活況に眼を細めていたジェンタイだったが、ふとロベルクの方を振り返り、尋ねた。


「で、君達はこれからどうするんだい?」

「僕達は……これから西のヴィンドリアに向かう予定だ。砂漠越えがあるからその準備をして、恐らく北門の近くでもう一泊かな。ジェンタイこそ、これからどうするんだ?」

「俺か。俺は暫くこの街に留まって物見遊山としゃれ込むつもりさ。北門まで見送らせてくれよ。いまいちな出会いだったけど、いざとなると別れが惜しい」


 ジェンタイが道の向かいの船着き場を指差す。

 途端にセラーナの表情がパッと輝いた。


「いよいよゴンドラね!」


 ウキウキと跳びはねるセラーナ。

 カンムーと言えば運河とゴンドラだ。ここでは主な街路だけでなく、至る所に大小様々な船着き場が整備されており、流しのゴンドラを利用して気軽に運河を移動することができるようになっている。旅人はその涼しげな光景に旅の疲れを癒やし、水運によって発展した街を堪能するのだ。カンムーに寄った……いや、カンムーを通る以上、ゴンドラを体験することは彼女の中では既定路線だ。

 セラーナを先頭に、馬車がすれ違える程度の幅がある街路を渡って、向かいにある大きめの船着き場へと向かった。


 ロベルク達が船着き場に着くと、そこに待っていたのは、昨日の夕食時に感じたのと似た一触即発の空気だった。明らかに怒気を孕んでいる者、困惑を滲ませている者、諦念……人々の表情は様々だが、共通しているのは負の感情だということだ。


「今度は何だ?」

「わからん。こんなにぎすぎすした街ではなかったと記憶しているんだが」


 ロベルクとジェンタイが顔を見合わせながら、人々のたむろした中に入っていく。次第に刺々し声が鮮明になってきた。


「六ラウってどういうことだよ! 旅人の渡し賃は二だろ! ファス・トリバー全体の取り決めじゃないのかよ!」

「そう言われても、俺達だって上に言われてるから、どうしようもないんだ!」

「いつもの癖で七十チェンしか持ってきてないんだ。何とか頼むよ!」

「済まねえ。俺もギルドに逆らったら商売していけないんだ」


 客は口々に渡し賃のことを口にしながら船頭に詰め寄っていた。


「値上げ、だな」

「しかも、上がって数日ってところね……混乱しているわ」


 ロベルクがセラーナを振り返ると、彼女も困惑の表情を浮かべていた。ジェンタイも横で眉根を寄せている。


「値上げ? 領民の暮らしに関わることをそんな安易に行うとは……」


 腕組みをするジェンタイを眺めていたセラーナが軽く溜息を吐く。


「でも……経済を回して街を健全に存続させるという見方からすれば、旅人としては支払わざるを得ないかしら……ロベルクはどう思う?」


 問われたロベルクは一瞬考えるが、徐に霊剣の柄を叩いた。


「街の外縁部に沿って湿地を凍らせて、徒歩で大回りするというのはどうだろうか? 運河を凍らせて渡るより、街に迷惑が掛からなそ……」

「駄目よ」


 セラーナが慌てて話を遮った。


「そんなに広い範囲を凍らせたら、その周辺の水温にも影響が出て、城壁の外で行われている農業に被害が出るわ」

「そ……そうなのか。セラーナは詳しいんだな」

「淑女の嗜み……ってね」


 率直に感心するロベルクに、セラーナは微笑んで見せた。


「……そうなると、どうやって北門まで移動するか、だな」

「高いけど、ゴンドラに乗りましょ。旅人が通り掛かりに他国の文句を言っても始まらないわ」

「そうだね。路銀にはまだ余裕がある」


 二人の絆に付け入る隙を見いだせなかったジェンタイは、小さく破顔しつつ運河に視線を戻す。と、騒ぎから少し離れた水上に手を振る人影を見つけた。

 人影は飾り気のないゴンドラを操作しながら声を張り上げた。


「ジェンタイ! ロベルク! セラーナ!」

「リンノじゃないか!」


 ジェンタイは満面に喜びを溢れさせると、大きく手を振り返した。


「一つ先の船着き場へ!」

「よしきた!」


 ジェンタイはリンノに応じると、ロベルクとセラーナを促した。


「愛を捧げると、思わぬときに返報にあずかれるというものさ」

「それを世間では『紐』っていうぞ」


 ロベルクの評も聞こえぬ素振りで、ジェンタイは百歩も行かぬ場所にあった小さな船着き場に駆けていった。

 慌てて後を追うロベルクとセラーナ。二人が追いつくまでの数瞬の間に、ジェンタイはリンノの操るゴンドラに飛び移り、彼女の手を握っていた。


「リンノ! 丁度困っていた所なんだ。助かったよ!」

「ジェンタイ……また会えて嬉しい」


 リンノは頬を赤らめ、握られた手を揺らされるがままになっていた。

 ジェンタイはそのままの姿勢でリンノの二の腕に触れながら、リンノに囁きかけた。


「……実は、渡し船の料金がおかしくてね。知り合いの誼で乗せてくれないか?」

「知り合いだなんて余所余所しいよ……勿論乗せてあげる」


 リンノが上気した顔で呟いた。

 交渉が成立したのと同時に、ロベルクとセラーナが船着き場に着いた。


「リンノが乗せてくれるのか?」

「そうよ! どーんと任せて!」


 リンノが、余り起伏があるとは言えない胸を拳で叩いた。

 その様子を見たセラーナが気遣わしげに言葉を投げかける。


「勝手に人を運んで大丈夫なの? 『新しいギルド』とやらに狙われているって言ってたわよね?」

「大丈夫!」


 リンノは悪戯な笑みを浮かべた。


「私まだ『見習い』。身柄は親方持ちで地位が低いんだけど、代わりに『将来の財産』として街全体から保護されているの。さ、乗って乗って!」


 いよいよ抱擁しかけていたジェンタイからようやく解放されたリンノは、慣れた手つきでゴンドラを船着き場に寄せた。

 そこへセラーナとロベルクが軽やかに飛び移る。慣れた手つきで揺れを抑えるリンノにセラーナが感嘆の声を上げた。


「上手ね……見習いとは思えないわ。ゴンドラだって飾りこそないけどしっかりした作りだし」

「ありがと。実力は一人前として認められているんだけど、まだ見習いでいた方が安心だって、お父さんがね」


 リンノは照れくさそうに笑うと、ゴンドラを出した。

 運河から眺める街の景色は、街道からとはがらりと違うものだった。両脇に迫る青い壁の建物が、まるで水底を進んでいるかのような錯覚を起こす。それぞれの建物が、裏口に船着き場を持っていて、運河から直接建物に出入りすることができるようになっていた。

 セラーナが船縁に身を乗り出し、景色を目に焼きつけようとするように見回した。


「すごいわねえ。まさに運河が道路のように利用されているのね」

「うん。この運河を見る為だけに訪れる旅人もいるくらいなんだよ」

「成程……ここまで運河が便利だと、橋も架ける気が起きないわけだ」


 ロベルクも、運河が十字路のように交差するのを通り過ぎる度に感嘆の息を漏らした。


「まあ、橋も少しはあるんだけどね。景観を損ねないように目立たない場所に架かっているから、橋だけで移動するとものすごく時間が掛かるよ」


 リンノが渡し舟の利便性について熱く語っているうちに、目線の低いゴンドラからも巨大な北門の姿が確認できるようになった。


「はい、着いたよ」


 リンノはそう言うと、北門からほど近い人気の無い船着き場へゴンドラを寄せた。

 と、いきなり目の前に黒光りするゴンドラが割り込んできた。


「何だいあんた。危ないじゃないのさ!」


 リンノが怒声を浴びせると、船頭の男は下卑た笑みを浮かべながら船着き場を塞いだ。


「ここいら一帯は、『新しいギルド』の縄張りになったんだ。お前は海に出て砂浜ででも客を降ろしな」

「いつから縄張りなんて決めたんだい? 今までずっとギルドに加入しなくても船着き場は自由に使えたはずじゃないか!」


 リンノが気色ばむ。

 彼女の怒りを楽しむように、船頭は人を食ったような調子の口笛を吹いた。


「『新しいギルド』は領主様の許可を得ている。決まりがどう変わろうが知ったことか……あ、そうそう」


 嗜虐的な笑みを浮かべながら、舟底から抜き身の新月刀を拾い上げる船頭。


「逆らった奴は運河に沈めても切り捨ててもよい、というお達しも出ている」

「な、何だって⁉」


 リンノの顔から血の気が引くのが見て取れた。

 近くに座っていたジェンタイが立ち上がり、船頭を見据えた。


「彼女は今、商売中だ……客を乗せている。商売上の問題があるなら、一度降りてから、改めて警備兵の詰め所で話し合うのはどうかな?」


 ジェンタイの提案を鼻で笑う船頭。


「残念だったな。『客ごとやっちまってよい』って言われてるのさ」


 気づくと、周囲には黒塗りのゴンドラがさらに七艘取り囲み、八振りの新月刀が向けられていた。


「ギルド未加入の舟に乗っちまったあんたらの不幸ってことで、諦めな」


 多勢に無勢の中、櫂を構えてゴンドラと客を守ろうとするリンノ。


「それを受け入れる訳にはいかないな」


 ロベルクは霊剣を引き寄せた。


「同感ね」


 同時に、セラーナも袖の内側に片手を差し込む。

 客の抵抗と見て取った船頭達からどっと笑い声が上がった。一人が、最も非力と判断したロベルクに刃先を向けた。


「揺れる舟の上でまともに動けると思ってるのか?」

「成程、一理ある」


 ロベルクが安い侮蔑に感情を動かされるはずもなく、立ち上がりざまに鞘から霊剣を鞘走らせた。


「では、揺れない氷の上ならどうかな?」


 言うが早いか、切っ先を水面に差し込む。


「おい、ここの水は精霊力が乱れていて……って」


 ジェンタイは制止しかけて、口をあんぐりと開けたまま運河を凝視した。

 運河に厚い氷が張っている。初夏にも関わらず、土の精霊に強く干渉された水であるにも関わらず。

 浮かんでいたゴンドラも、灰緑色の氷に塗り込められていた。


「……驚いたな。水精霊による浄化すら受けつけないのに」


 舌を巻くジェンタイ。

 だが、船頭達はそれどころではなかった。


「お……おい!」

「これは一体!」

「何なんだよ!」


 口々に喚き立てる船頭達。

 ロベルクは恐慌を満足げに睥睨すると、霊剣の切っ先を船頭の一人に向けた。


「『やっちまってよい』んだったな? では、やろうか」

「それとも、話し合う気になったかな?」


 ここぞとばかりに譲歩案を提示するジェンタイ。


「う、うるさい! 俺達の後ろには……」

「静まれい!」


 船頭達が新月刀を振り上げようとした瞬間、大音声が響いた。その威厳ある声に、船頭達は気勢をそがれる。


「?」


 ジェンタイが声の主に視線を向ける。

 船頭達は吊られてそちらを見たとたん、残された蛮勇が消し飛ばされた。


「あ、あんたは……」


 そこには、腕組みした初老の男が立っていた。長身で引き締まった体躯は日焼けして野性味を感じる。白黒模様の服を着崩し、短く刈り込まれた白髪交じりの黒髪だけが年齢を主張していた。


「トーゾーさん」


 船頭達は愛想笑いを浮かべながら、新月刀を船底に隠す。

 トーゾーと呼ばれた初老の男はその様子に憮然としながら、船着き場へ下りてきた。


「お父さん!」

「お父さん⁉」


 リンノの言葉を三人が同時に反芻する。

 その声を聞いて溜息を吐くトーゾー。


「リンノ。今は舟を出すなとあれほど……」

「だって、私の命の恩人なんだよ? 受けた恩はきちんと返せって、いつも言ってたよね⁉」

「だが、今は危ない時期なんだ。これでわかっただろう」


 不満げに黙り込むリンノ。

 トーゾーはまた一つ溜息を吐くと、船頭達の方へ向き直った。


 卑屈さと罪悪感をない交ぜにしたような顔をする船頭達。


「い、いや。トーゾーさんの娘さんだとは知らなかったもんで……」

「お前達……俺の娘はともかく、お客様に随分乱暴な応対をしているじゃねえか」


 泰然としたトーゾーに対して、船頭達は完全に浮き足立っていた。


「トーゾーさん……いや、トーゾーはまずい。引け! 舟は捨てていくぞ!」


 一人の船頭が我に返って叫ぶと、その他の船頭達もそれに倣って駆け去る。


 トーゾーはそれに危害を加えるでもなく、手出しをせず見送った。最後の一人が視界から完全にいなくなると、トーゾーはロベルクに深々と頭を下げた。


「危ないところを助けていただき、ありがとうございました。礼など用意できる身分じゃありませんが、我が家で茶でも飲んでいってください。ここでは落ち着きませんから……」


 トーゾーが周囲に視線を走らせながら、案内する。

 周囲に野次馬の人垣ができつつあることを確認したロベルク達は、騒ぎが大きくなる前に彼の家へと退散することを決断した。

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