第四十八話 『運河の街』

 四人と一頭になった旅の一行は、次の日も西に延びた山中の交易路を進んでいた。日光は厳しい夏を予感させる日差しを投げかけていたが、吹きすぎる風は春の爽やかさを孕んでいた。


「もうすぐカンムーの街並みが見えるわ」


 リンノの声は心なしか弾んでいる。


 街の姿はまだ見えないが、森の木々は隙間から僅かな空の切れ端を見せ始める。その色も薄浅葱に光り、海が近いことを予感させた。

 木々は疎らになり、道が緩やかに曲がった先で突然開けた。


「わあ……」


 セラーナが感嘆の声を漏らす。


 眼下に広がる、緩やかな弧を描いた海岸線。

 紺碧の海は、日光の反射と白波で不規則に輝いている。

 そして海岸線に沿って、三日月の形に街が広がっていた。海岸線を弓弦とするならば、弓幹にあたる場所に城壁が弧を描き、その外側には耕地と湿地が、葉脈のように枝分かれする川によって継ぎ接ぎのように縫い合わされ、足元の山裾まで迫っている。特徴的なのは、街の建物全てが、青い色をしていたということである。そして海岸線の真ん中辺りには長い石造りの橋と神殿が、まるで係留された船のように浮かんで見える。その眺めは、まるで銀の月が海底に沈んでいるようだった。


「これは、美しいな……」


 ロベルクは我知らず呟いた。


「この辺の石切場の石には、青い色素が入っているのさ。俺も初めて見た時は驚いた」


 答えたジェンタイも、陸となく海となく青に染められた眼下の絶景に、眼を細めた。

 先頭で案内していたリンノが満面の笑みと共に振り返った。


「ようこそ、カンムーへ!」


 笑顔は一同に伝播し、旅の疲れを忘れさせてくれた。

 リンノがその笑顔に少しだけ悪戯心を滲ませて話を続ける。


「……と言いたいところだけど、ここからが最後の難関。この山を一気に下りるの」


 リンノの背後には二股に分かれた道が延びていた。右は今までの街道と同じ幅の緩やかな下り坂だが、山肌一面につづら折りの道が刻まれており、その折り返しの回数たるや、櫛の歯を数える方がまだましという規模だ。左の道は古めかしく急な下り坂だ。そこかしこに階段さえ刻まれている。


「右の新しい道は緩やかだけど半日かかるの。左の旧街道は急だけど半刻くらいで街の門まで行けるわ。私とこの子は旧街道を行きたいんだけど……」

「構わない」


 リンノの提案にロベルクが即答する。


「驢馬が行けるのに、僕達が行かない道理はないだろう」


 最も身軽なセラーナ、カンムー経験者のジェンタイも頷いた。


 驢馬を引いたリンノが先頭を歩き、下りの速度を調整する。驢馬も慣れたもので、足取りも軽やかに急な坂を下りていく。後ろに続く三人も、リンノのお陰で危なげなく下ることができた。


 急勾配を下り終えると、横から緩やかな馬車道が合流して、また一本の街道になった。そして数分も行かないうちに、一行はカンムーの城門前に辿り着いた。

 都市の規模に対して過大な城門棟が、大型船も遡上できそうな運河を跨いでいる。その規模たるや、跳ね橋の部分でさえ四頭立ての馬車がすれ違える幅を備えていた。それに対して運河の向こうに見える城壁は、精々水面から人を縦に四・五人並べた程度の高さしかない。レスティカーザと比べても半分以下の高さだ。運河は独特の景観や水運の利便性だけでなく、堅固な防衛力をもカンムーにもたらしていた。


「それでもこの東門は、ファス・トリバーと繋がっている南門とかヴィンドリアに抜ける北門と比べると小さいのよ」

「交易路としての歴史の浅さか? 確かに、行商と言うより、城壁の外で仕事をしている雰囲気の人が多いように見えるな」


 リンノの案内に、ロベルクが周囲を見やりながら答える。

 周囲の人々は殆どがファス・トリバー風の衣服に身を包み、荷物も旅装と言うよりは仕事の道具だ。人々はそれぞれの住処へと急ぎつつも、リンノが引き連れている旅装の三人に好奇の視線を向けていた。


 人々に混じって、跳ね橋へと繋がる頑丈そうな石橋を渡る。欄干から運河の流れをちらと横目に見たロベルクは、視覚でない感覚から異常を感知して思わずそこを流れる灰緑色の水に視線を戻した。一見すると凪いでいるほど穏やかな流れの上を、細長い船体のゴンドラや、貨物を運ぶ艀が行き交っているだけのようだ。だが、彼は普通の川や水路との違いを感じ取っていた。


「どうしたの?」


 セラーナの呼びかけにロベルクは小さく唸った。


「ん。この運河、水の精霊が酷く少なくて……弱々しいなと思ってね」

「それは、さっきの『細かな土の霊晶』とかのせいかしら?」


 セラーナの疑問に首を捻るロベルク。


「わからない。ただ、何と言ったらいいか……この運河の水は水の精霊に避けられているように感じる」

「ロベルクの言うことにも納得できるね。遠目には綺麗だったけど、前回来たときよりも水が汚れている気がする」

「うん。ここのところ、水がどんどん汚れてきているの……ここ最近は、山妖精が水を飲んでも腹を下すって」


 リンノが悔しそうに運河を見る。


(この運河の水は、じきに腐りそうだな……)


 再度ロベルクが運河の水に意識を向けようとしたとき、一行は城門棟の中に到着した。

 驢馬を牽いたリンノを先頭に、門を守る警備兵の前に立つ。

 顔見知りであることを確認した警備兵は相好を崩し、親しげに話しかけてきた。


「お、リンノちゃん。今日も精が出るね」

「勿論よ!」

「後ろの三人は?」

「旅の人で、私の恩人」


 リンノが振り向いた。

 旅人はここで、自分の身分を名乗ることになる。形式的なものだが、役人への心証はここから始まるといってもよい。


「ヴィナバード・ラウシヴ聖騎士団客員精霊使い、ロベルク」

「同じく、セラーナ補祭よ」


 二人は今までの街でしてきたように、緑のマントをちらっと摘み上げながら名乗る。


「スレトー司祭、ジェンタイだ。出身はシージィのサンリアン」


 ジェンタイは二人に倣って、羽織っていた黄色いマントを摘み上げて見せた。


「大地神スレトーの司祭様ですか。首都からの長旅、お疲れ様です」


 司祭は補祭の三階級上位にあたる。警備兵は、一番地位の高そうなジェンタイに頭を下げた。


「入場料は皆さん十ラウです……あ、勿論リンノちゃんはタダだよ」


 三人は警備兵に指定された通行税――十ラウ貨を一枚払うと、無事にカンムーの街に入ることができた。


 街路に繋がるちょっとした広場に入ると、リンノが振り向いた。


「昨日から本当にありがとう。報酬なしって言ってたから甘えちゃったけど、何かあったら恩返しするから。じゃあね!」


 言うや否や、リンノは踵を返して驢馬と一緒に駆け去った。


「元気な娘だったな」

「警備兵の機嫌がよくなったのが、一番の報酬ね。助かったけど、もう会うこともないでしょう」


 見送るロベルクにセラーナが声を掛けた。


「いや」


 ジェンタイが横から口を挟んだ。


「会いたければいつでも会える。香りを覚えた」


 ジェンタイの言葉に、二人は半ば呆れ顔で振り向いた。


「……そういう、ものか?」

「俺は、一度関わった女性のことは忘れない。美女なら尚更だ」

「はあ……」


 若干引いた眼でジェンタイを見るロベルクとセラーナ。視線を浴びたジェンタイは、寧ろ誇らしげに己の顎を引き上げた。





 カンムーは人口二万人弱を抱える都市とされている。しかし実際には、人口も規模もその二倍とも三倍ともいわれている。旅人や貿易商達、また故郷を捨てた無宿者が入れ替わり立ち替わり街に滞在する為だ。中にはそのまま居着く者もあり、その数は役人も把握し切れてはいない。だが、公称の人口に対して宿やスラム街が多すぎることがその証左である。

 宿が並んだ街区は城門の近くにあり、商店や住居が並んだ場所、さらには北門や南門に行く為には、渡し船を利用する必要がある。街の人が宿の食堂や酒場を利用するには少々不便だが、部外者の侵入を制限するという意味では、理にかなった配置であると言えた。


 ロベルク達もその日の宿泊には、東門と地続きになった街区に立つ宿を取ることにした。セラーナが「鍵がかかる程度でいい」と言うのを、無理矢理ついてきたジェンタイが三人分の宿代を持つという条件を出し、三人は一段階上の宿に泊まることになった。

 『湿原の風亭』というこざっぱりした宿に部屋を確保した三人は、一階にある食堂で早めの夕食をとることとなった。


「いらっしゃい」


 女の給仕がやってくる。荒くれを相手にする類ではなく、接客を生業としている雰囲気を感じる女性だ。


「定食をいただきたいんだが?」


 ジェンタイがまた七三に構えて、給仕に微笑みかける。


 給仕は頬を染めながらも、さすがは専門職といった感じで対応を続けていた。


「定食を三つですね。ところで、最近調理法が編み出された、炊き干しはいかがですか? 白穀はっこくを煮た後、蒸したものです」

「いただこうかな」


 ジェンタイはファス・トリバー特有の穀物料理について、慣れた様子で注文を始めた。


「炊き干し? 初めて食べる」

「穀物を挽かずに調理……どんな食べ物かしら?」


 ロベルクとセラーナは軽い驚きを伴って、ジェンタイの注文を聞いていた。


「ファス・トリバーやシージィでは主食だから、手軽な食べ物だぞ。食べるよね?」


 頷くロベルクとセラーナ。

 ジェンタイは任されたと理解し、注文を続ける。


「今日のおかずは何?」

「今日は魚の塩焼きと貝のスープです。ご一緒に米酒はいかがですか?」

「いいね。ちょっといいやつをおくれよ」


 ジェンタイが酒を注文し始めるのを聞き、酒に弱いロベルクが口を挟む。


「ついでに、水を一杯もらえるかな?」


 その言葉に、給仕は一瞬戸惑いの表情を見せたが、気持ちを改めるように口を開いた。


「実は今、水の値段が高騰してまして……水は一杯六ラウです」

「六⁉」


 ロベルクはその高値に小さく叫んだ。


「ろ……六。一昨昨日の葡萄酒が三だったのに」


 セラーナも頷く。


「水に難儀する街だとは聞いていたわ。でもさすがにこれは……」

「高い!」


 別なテーブルに陣取った冒険者風の一団が、セラーナの言い淀んだ言葉を勝手に継

いだ。


「高い高い高いぞ! 六って何だよ⁉ ぼったくるならせめて酒にしろよ!」


 酔った冒険者達は、そのテーブルで注文を取っていた給仕に詰め寄って怒りをぶつけている。

 気弱そうな給仕は泣きそうな顔をして、先輩と思われるこちらの給仕に眼で助けを求めていた。

 先輩給仕は溜息を一つ吐くと、ごめんなさいと言い残して酔っぱらいの待つテーブルに向かった。


「何だよ、姉ちゃん。後輩のしつけがなってないぞ! 水に六ラウもふっかけるとか……」

「やっかましい!」


 給仕が豹変したように一喝する。

 静まり返る店内。


「な……何だよ……」


 気圧される冒険者に、先輩給仕が詰め寄った。殺気ではないが、有無を言わせぬ威圧感を発している。


「今、水の相場は七ラウ五十チェンだよ! こっちが安く提供してるのに、わかりもしないでギャーギャー騒ぐんじゃない。他のお客様に迷惑だっ!」


 給仕が怒声を浴びせると、周囲の客が示し合わせたように視線で追い打ちを掛ける。

 居たたまれなくなった冒険者の一行は、せめてもの抵抗でわざと大きな音を立てて椅子から立ち上がった。


「ち……畜生!」


 騒がしい一団が逃げ去ると、食堂は元の喧噪を取り戻した。

 顔を見合わせる三人。


「……歴戦の給仕さんだった、ということだね」

「この質の宿でも水の価格で騒ぎになるなんて、殺伐としている時に来ちゃったわね」


 小さな驚きと共に給仕を見送ったロベルクとセラーナにジェンタイがしたり顔で説き始めた。


「この格式の宿でさえ騒ぎになっているんだ。安宿にしなくてよかっただろう?」


 宿泊費を出してもらっていることを抜きにしても、ロベルクとセラーナはその意見に賛同せざるを得なかった。

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