第二部

第八章  綻びの水煙

第四十五話 『二人旅』

 そこは険しい山々と樹海の広がる、人を寄せつけぬ場所だった。もし空中から俯瞰することができたとしたら、地を埋め尽くす森林からそそり立つ峻嶺は、さながら緑の海に浮かぶ絶海の孤島のようにも見えたことだろう。


 そんな隔絶された地に、街道を築いた者がいた。山岳と密林がせめぎ合う場所に、大地の精霊と植物の精霊との緩衝地帯を見出し、己の一生と引き替えに人が歩くことのできる道を作ったと言われている。


 南方へ大きく遠回りすることを強いられてきた旅人の旅程は、『北回り』と呼ばれるその街道のおかげで飛躍的に短縮された。だが、北を険しい山々に、南を樹海に迫られた狭間に弱々しく張りついた街道は難所として恐れられ、旅人や行商人達は命と時間を天秤にかけることを迫られた。そして隙あらば浸食を試みる森林と、ごく希にではあったが土砂崩れが、先の街を目指す者達を足止めし、昔のように回り道を強いた。


 巨人が積んだかのように荒々しい巌の間に縫いつけられた街道は、人生において近道をするとはどういうことかを旅人に問うかのような道だったという。


「……というのも昔話になって久しいわ」


 崖と森林との間に見え隠れする交易路から、透明感のある少女の声が漏れ聞こえる。


「僕が読んだ地理の書物は相当古いものだから、隔世の感があるな」


 答える男性の声もまた、成熟しているとは言い切れない。精々、少年と青年の間と言ったところか。その声は涼しげだ。


 セラーナとロベルクである。


 セラーナの故郷であるウインガルドを奪還すべく、ヴィナバード共和国を旅立って約半月。二人はリグレフ王国の南に位置するファス・トリバーの領土を西進していた。


 今やこの『北回り』と呼ばれる街道に、命懸けで作られたという印象は感じられない。起伏こそ大きいものの、路面は整地され、小型の馬車であれば往来することもできる。月に一度は、ファス・トリバー騎士が土木工事の職人と共に巡回し、盗賊や魔物の討伐、街道の補修などを行っている。とは言え、今でもひとたび街道から外れれば、未だにそこは強大な魔物や獰猛な野生動物の巣窟だ。道を逸れるという愚挙に出た者は、過去の教訓めいた警告が事実であることを思い知らされ、己の軽はずみな行いを悔いながら死んでいくこととなる。


 二人は揃いの緑色のマントを羽織り、厳しい夏を予感させる午後の日差しを避けながら交易路を進んでいた。他の旅人よりも若干軽装であるように見えるのは、野宿や水分の補給に精霊魔法を使っている為である。


「『東の妖精の森』にあった本は、ここに街道ができる前のものだった」

「その本、相当古いわよ。図書館に寄贈したら、きっと記録に名前を残せるわ」

「セラーナこそ、博識だね。書物ってかなり値が張るじゃないか」

「城の図書館にかなりの蔵書があったし、ヴィナバードのラウシヴ大神殿にも相当な数の本があったから。読み散らかしたの」

「レスティカーザには小さな貸本屋くらいしかなかったからな……」


 会話が途切れ、歩きながら互いにしばし昔時を追想する。


 と、セラーナがロベルクの進行方向にぴょんと飛び出し、向き直った。後頭部の高いところで結った黒髪が一緒に跳ねる。少し前屈みになると、星空を溶かし込んだような漆黒の瞳でロベルクを上目遣いに覗き込んだ。


「あたしね、書物で知識を得るのも大事だと思うけど、実際に経験することってもっと大事だと思うの」

「え? ああ」


 面食らって生返事をするロベルク。


 意表を突くことに成功したセラーナは満足げな微笑みを浮かべると、言葉を続けた。


「だから、こうやって旅をして、書物の記述を本物の景色としてあなたと一緒に見ることができて、とても嬉しい」

「え? ええっと……僕も嬉しいよ」


 ロベルクは顔面が熱くなるのを感じた。


 そのままどちらからともなく無言になり、暫し足を進め続ける。


「ふう……」


 不意に、セラーナが溜息を吐いた。


「疲れたかい? 少し休もうか?」


 ロベルクが翠緑色の瞳に気遣わしげな色を浮かべた。


 二人が今歩いているのは、『馬殺しの坂』と呼ばれている、西進する者にとってはひたすら上り坂が続く難所である。昔はその名の通り、多くの馬がこの坂の途中で力尽きて死に、そうでなくともこまめな休憩を強いられた。当然、徒歩の旅人にとっても、蓄積する疲労との長い戦いをしながら移動せねばならない場所である。が、セラーナの足取りは先程から変わらずきびきびとしていて、疲労の色は見えない。


「セラーナ?」

「汗かいた」


 セラーナの口から不満げな声が漏れた。


 思わず歩みを止めるロベルク。


「まあ、リグレフよりだいぶ南に移動したし、歩き通しだしね」


 止まったついでに空を見上げるロベルク。ヴィナバードから十日ほど南下しただけだが、体感できるほどに空気が暖まっていた。単に季節が夏に向かっているからというわけではなさそうだ。


「……喉が渇いたのなら、一昨日の『馬殺し亭』で買った柑橘を凍らせたのがあるけど」

「湯浴みがしたい」


 頬を膨らませながらぼそっと呟くセラーナ。


 大陸を横断する旅をこなし、従軍まで経験したセラーナの我が儘に、面食らうロベルク。


「でも、一昨日『馬殺し亭』で湯浴みはしたし、昨日だってお湯で身体を清めたじゃ……」

「だって!」


 ロベルクの言葉を遮るセラーナ。


「湯浴みをしたのは一昨日だし、昨日せっかく湯浴みをしたのにこの気候と『馬殺しの坂』のせいで汗だくだし、せっかくロベルクと二人っきりで旅してるのに汗とか気になって……」


 一気に捲し立てるセラーナだったが、ロベルクが困ったような微笑みを浮かべているのに気づき、語尾が小さく消えていった。女心を全く理解していないロベルクの態度に、小さく溜息を吐く。


「……ごめんなさい。少し休憩しましょう」

「そうしよう」


 ロベルクは短く返事をすると、軽く集中して周囲の精霊を探った。水の精霊を感知すると、僅かに眉根を寄せる。


「……森の中にしては水の精霊力が弱いな。それに、僅かに怒りを孕んでいるような……気のせい、か?」


 うっすら感じた疑問を懐にしまうと、ロベルクは近所で感じた水の精霊を引き寄せ、魔力を介して情報を得た。そして、木々が覆い重なった先を指差す。


「ここからそう遠くないところに、綺麗な水場があるらしい。そこで休もう」

「そうね。明日には次の街……カンムーっていったっけ? に着く距離だから、今夜は宿があるかも」

「ふふっ」


 ロベルクとセラーナは顔を見合わせ、笑みを交わした。お互いが隠していた疲れも吹き飛ばして、まだ見ぬカンムーに向かって一歩踏み出す。


 その時、つい今しがた指差した先から悲鳴が上がった。それは空気を斬り裂いて二人の警戒心に突き刺さった。

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