第三十一話 『敵地の府主教』

 炬火を持って走る五人の姿が青白く浮かび上がり始める。銀の月が昇り始めたのだ。


 ロベルクたちがラウシヴ神殿の前の広場にたどり着いた時には、銀の月は完全に顔を出し、銀色に染まったお互いの姿が確認できる程度の明るさが確認できていた。


 入口に近づく。

 門は閉ざされている。


「あたしに見せて」


 セラーナが門へと進み出る。

 鍵穴の中を覗き込んだり、門扉の裏側を触れたりして、鍵を調べ始めた。


「大した鍵じゃないわ」


 セラーナはロベルクに炬火を持たせると、司祭衣の裾から革の工具袋を取り出して数本の工具を選び、鍵穴の中をくすぐった。するとカチャリという軽やかな音がして鍵が開いた。

 セラーナはそのまま扉を開けず、蝶番に油を差して音が立たないように細工までしてから、慎重に門扉を動かした。


「まるで盗賊のようだな」


 レイスリッドがからかった。


「淑女の嗜みよ」


 セラーナは優雅に微笑むと工具を懐にしまった。





 神殿の中は、社会での役割上、だいたい同じ設備が用意されていることが多い。とくに同じ神を祀っている場合、建物や間取りもほとんど同じである場合が多い。


 一行は、神殿の責任者が居る建物へと向かった。


 ロベルクが扉を開ける。

 寝台で書物を読んでいた、頭の禿げ上がった老人が顔を上げた。


「リグレジーク府主教、ミッチ座下?」

「君たちは? ……見かけぬ者だが……」

「ヴィナバードのラウシヴ大神殿所属、セラーナ補祭です」


 ミッチは、寝台の横に立てかけてあった杖にすがり、立ち上がった。動くと痛みが走るようだ。怪我を手当てした跡も、衣装の中から見え隠れしている。


「お体の調子がお悪いのですか?」


 セラーナが駆け寄り、老人が立ち上がるのに手を貸す。


「少し前に、宮廷魔術師のナイルリーフが直々に兵隊を連れて押しかけてな……」


 ミッチは数日前に起こった出来事について語った。

 神殿に宮廷魔術師ナイルリーフと兵がやってきて、司祭たちが止めるのも聞かずにミッチを拘束し、私室に立て籠もったあげく意識を失うほどの暴行を加えたのだ。その期間は二日とも三日とも言われている。本人も記憶がなく、また周囲の聖職者も恐怖の為か記憶も定かでないということだ。


「おいたわしい……」


 セラーナはリグレジークに潜入した理由を告げた。

 間もなくリグレジークはラウシヴの国教としての庇護を失い、戦が始まるという話まで、事細かく説明した。


「何と。それでわざわざ私を助けに……」


 ミッチは自分を寝台に座らせるよう促した。


「猊下は世界のラウシヴ信徒を纏めるお立場。私ごときがどうなろうともお心を乱してはならぬとお教えしたのに……」

「しかし、この度の救出行は猊下直々のご下命です」


 ふむ、とミッチは息を吐いた。


「師の命のために行動を起こしてくれる弟子ができたということは、嬉しいことじゃ」


 準備がある、と言って、ミッチはセラーナたちに退室を促した。扉の外で、走り通しだった一行は思い出したように一息ついた。


 しかし、ロベルクは得体の知れない不安感に苛まれていた。


(この、感覚? ……いや、精霊の乱れだ)


 レイスリッドですら僅かな不自然さしか感じない、この精霊の乱れ。

 巧妙に偽装されてるが、明らかに人為的に精霊力が乱された跡が感じられた。


 ミッチが私室から出てきた。毛皮のマントに身を包み、杖をつきながら背負い袋を引きずっている。


「暴行に遭った日から、処分を覚悟で逃げだそうと思って準備しておったんじゃ」


 ミッチはセラーナの差し出した手をやんわりと断ると、男性であるリニャールに背負い袋を持たせた。


 ロベルクたちは神殿の門を目指す。

 徐々に、闇の精霊力が鎌首をもたげるような感覚。

 徐々に、死の精霊力が扉を開く感覚。

 ロベルクは門を出た。

 レイスリッドが、リニャールが、モエが、セラーナが、門を出た。


 突然、ロベルクの脳に、声が響いた。


 ――混沌の封印を解いてはならない……


 霊剣の声だ。ロベルクは精霊の乱れの原因について、即座に理解した。


「ミッチ殿を神殿から出すな!」

「えっ!」


 ロベルクが叫ぶのと、ミッチが神殿の門から一歩踏み出したのは、ほぼ同時だった。


 強力な闇の精霊力が、ミッチを包み込む。それが引き金となって、死の精霊が、物質を形作る。


「まさかこんな!」


 己に起きた変化を素早く察知したミッチは、最期の力で隣にいたセラーナを突き飛ばした。


「ミッチ座下!」


 セラーナは倒れ込んだミッチに駆け寄ろうとしたが、ロベルクに腕を掴まれ、引き戻された。


「近寄っては駄目だ!」

「そ……そうだ。私に、近寄っては、いけない……」


 ミッチが苦悶の表情を浮かべて声を絞り出した。


「私の、体に、何か居る……」


 皆の目が見開かれた。


 ミッチの体が、二回りほど盛り上がる。

 肩胛骨あたりから、巨大な蟷螂の前足が生える。

 臀部からは蠍の毒針が鎌首をもたげる。

 口と耳からは、蛙を思わせる長い舌が伸びた。

 胸が裂け、肋骨の代わりに蜘蛛の足が飛び出した。そして本来の四肢は外骨格のような艶を放ち、それぞれの指先からは海賊の曲刀のような金属質の爪が伸びる。


「ミーアに……心を、乱しては、ならぬと……」


 それがミッチの最期の言葉となった。

 あとは、長い舌が邪魔しているのか、唸り声としか聞き取れなかった。

 ミッチだった『それ』は、蟷螂の足を振り上げ、最も近い位置にいたロベルクを斬り払ってくる。


「混沌に侵されている……もう助からない。倒すんだ! それがミッチ殿に対する供養になる」


 ロベルクは霊剣を鞘から抜いた。

 強力な氷の精霊力に反応して、混沌の魔物はロベルクの方を振り向いた。威圧するように二つの鎌を振り上げる。


「氷の刃よ、切り裂け!」


 虚空に透明な刃が現れ、魔物に向かって一直線に飛び、突き立てられる。

 ある刃は外骨格によってはじき飛ばされ、ある刃は体の柔らかい部分に食い込んだ。

 魔物の両耳と口から、この世の物とは思えないような悲鳴が上がる。傷口から橙色の血が流れた。


「硬いっ!」


 そう簡単に倒れてくれそうにない。ロベルクは仕切り直すために間合いを広げた。


 魔物は、蠍の針を振り下ろす。

 身をかわしたロベルクの足下の石畳に、穴が穿たれた。舌は人の背ほども伸び、迂闊に近寄れば、丸呑みされそうな勢いである。


 魔法による攻撃が効きづらいことを確認したレイスリッドが杖を取り出し、呪文を唱える。


「エジライレート・グレンバール!」


 杖を剣の柄のように持つと、のたうつ舌をかいくぐって魔物の懐に飛び込み、腕を振り抜いた。

 蟷螂の鎌と、蠍の尾が斬り飛ばされる。


「まさか、手刀で?」


 モエが驚きの声を上げた。しかし、駆け抜けたレイスリッドが動きを止めたとき、一同は何が起こったか理解した。

 杖先から、波打つ刀身が現れていたのだ。




界子かいしを固体化し、武器を形作る。この杖の特殊な能力だ。だが、果たして手足を斬り落としたくらいで黙ってくれるだろうか」


 レイスリッドが危惧していたことが起こった。

 吐瀉するような音と共に、尾の切り口から二本の蠍の針が現れた。

 肩からも、二本の鎌が生える。鎌は三本になっていた。


「やはり、か。嫌な予感を律儀に実現してくれたもんだ」


 ロベルクは魔物との間合いを測りながら、毒突く。先程与えた傷も、綺麗に塞がっていた。


 言葉を理解できたのかは定かではないが、魔物は鎌と尾を滅茶苦茶に振り回し、石畳を割り、彫像を砕いた。


「何か、神の奇跡はないか?」


 ロベルクは攻撃を一つ一つ丁寧に回避しつつ、振り向かずにリニャールに尋ねた。


「任せてください」


 リニャールは印を切って、ラウシヴに祈りを捧げ始めた。

 基本的に神の奇跡は、不安定な事象を安定させる効果をもたらすものが多い。

 リニャールの祈りも、いわゆる『安息の祈り』と言われるものであり、混沌の魔物や不死の魔物などの、自然ならざる存在の動きを阻害する力をもっている。


 魔物が苦悶の表情を浮かべる。動きも若干鈍くなっているようだ。


 ロベルクが舌の一本を斬り落とす。確かに再生の速度が落ちていた。それまでの逞しい舌ではなく、小さく弱々しい舌が生え始めた。


「効いている!」


 火精霊を呼び、傷口を焼く。するともはや再び舌が伸びることはなかった。


「……よし。この調子で」


 リニャールは、脂汗を浮かべながら祈りを捧げ続けていた。聖兵は神品が低く、長い祈りを捧げ続けて神の奇跡を引き出し続ける修行はさほど行っていない。リニャールの疲労は限界に近づいていた。


「もうちょっと。頑張って!」


 セラーナは長剣の二人だけに戦闘を任せる場合ではないと判断し、司祭衣の裾から小剣を取り出した。翼の彫金が施された優美な小剣を閃かせると、軽業師のように魔物の背に飛び乗る。そしてそのまま外骨格の隙間に刃を突き入れた。

 振り払おうとする尻尾を宙返りしつつ身体を捻ってかわし、セラーナは魔物と安全な距離をとって着地した。

 間髪を入れずにロベルクが傷を焼き、再生を阻止する。


「もう一度よ!」


 知人だった者を、ひたすら傷つけては焼くという辛い作業が続いた。

 魔物は、いよいよ動きを緩慢にして、立っているのがやっとの状態になってきた。その後は、ロベルクとレイスリッド、セラーナが四肢を斬り落としてモエが傷口を焼いていき、ようやくミッチの魂は冥界へ召された。


 セラーナとリニャールがミッチの死が安らかなることを祈っているとき、遠くに炬火が見えた。


「こっちで化け物のような声がした!」

「兵を招集させろ!」


 無粋な騒ぎが近づいてきたのは明らかだった。

 五人は無言で頷き合う。


 セラーナは司祭衣の裾から油の入った小瓶を取り出し、魔物の死骸に放り投げた。油は自然に発火し、死骸を燃やし始める。


 ミッチの面影がなくなったのを見計らい、一行はその場を後にした。

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