第三十話 『侯爵令嬢』
夜になった。
時折筋状の雲が流れる夜空には飛沫のように星が
貴族の町屋敷が並んだ高級住宅街でも、正面玄関の面していない通りは人工の灯りが無く、消えかける月の光と共に暗黒に染まりつつある。
そんな中を、闇とほぼ同化した四つの影が足音を忍ばせて動いていた。ロベルクたちである。一行が纏う緑の旅装は、その色も相まって闇夜に沈み、その姿を周囲に溶け込ませるのに一役買っていた。
四人はモエの住まう館の向かいに辿り着くと、そこで一旦呼吸を整える。
「今宵、半刻だけ両方の月が新月を迎える」
恥ずかしそうに館の陰に隠れながら光を失っていく金の月を見ながら、ロベルクが呟いた。
さほど待たずに金の月は姿を消し、闇が訪れる。
周囲の光は、各屋敷の門衛が用意した炬火だけになった。
四人は頷くと、モエの屋敷へと駆け寄る。
「火よ、己の世界へ帰れ」
「闇よ、心に眠りを与えよ」
ロベルクとレイスリッドが同時に精霊を使役する。
二人の門衛は、己の炬火が急に消えて互いの顔を見たところで、強烈な睡魔に襲われてその場に座り込んだ。
暗黒の中、予定通りその場で四人は――主にリニャールの為に――はぐれぬよう手をつなぐ。レイスリッドは夜の行軍も慣れており、セラーナは『淑女の嗜み』とやらである程度の暗さなら活動できるそうだが、ここからは念のため夜目の利く半森妖精のロベルクが、三人の手を引いて明かりのある屋内まで導く。
屋敷の中は炬火で明るく照らされていた。
四人は、つないだ手を離した。
「風よ、音を遮断せよ」
風精霊の使役を得意とするレイスリッドが、音を周囲に漏らさないように魔法を掛ける。
鎧の鳴りや衣擦れすら、周囲には漏れることはない。
四人は何事もなく二階へと進んだ。
(あそこだ)
階段を上がりかけたロベルクが歩みを止めた。
ひときわ豪奢な両開きの扉の前に、細剣を腰に下げた女官が立っていた。
(始めるぞ)
ロベルクが闇の精霊を使役して、女官を眠らせる。同時にリニャールとレイスリッドが駆け寄り、彼女らを抱きとめて倒れる音を立てるのを防ぐ。
女官たちを片隅に寝かすと、四人は慎重に扉を開いた。
鏡台の前に座っていた、少女と呼んでも差し支えない女性が振り返る。
その柔らかな赤毛が翻るのと、握られた杖が光を放つのは、ほぼ同時だった。呪文の韻律が、透明感のある声に乗って紡ぎ出される。
「エルセローム・トゥース!」
「エルセローム・ドリーシュ!」
すかさずレイスリッドが輝く魔力により固化された
「何者⁉」
自分の魔法を防いだレイスリッドに杖を向けつつ、彼女は間合いを取る。
美しい。
艶やかな赤毛は真っ直ぐに伸び、そして知性を湛える紫水晶色の瞳。
夜着に厚手のガウンを羽織り、暖炉の火に照らされている姿は、凛とした火の女神のようだ。この美姫が、「ママドゥイユの六芒星」の一角を成す将とは、ある意味恐ろしい事実である。
「……僕は、ヴィナバード・ラウシヴ聖騎士団客員精霊使いのロベルクと申す者です。ママドゥイユ侯爵様の依頼により、国王の意思の如何によらず、お迎えに上がりました」
ロベルクは、多少緊張しながらも、自分の所属と目的を明かした。
「お父様が……」
モエは面食らったような表情を見せた。
「にわかには信じられない話ですね。どうやってそれを証明しますか。例えば、ヴィナバードの英雄ロベルクは、半森妖精だとか。妖精が徹底的に排除されるリグレジークに入り込めるものかしら」
「一人では無理でしょうね」
ロベルクは頭の布を丁寧に巻き取って外した。徐々に白金色の髪がこぼれ落ちる。そして最後に、厳重に隠していた尖った耳が現れた。
「しかし、仲間が様々な力で守ってくれますもので。姫の魔法を防いだ魔術師は、レイスリッド・プラーナスです」
モエは、ほう、と息を漏らした。
「なるほど。わざわざ半森妖精や、互恵関係のある都市の重鎮を寄越すところが、お父様らしいですね」
モエは早速、四人の目の前でガウンを脱ぎ捨て、身体の線も露わな夜着姿になった。一行が視線を反らそうか迷っている内に、目の前で躊躇なくローブに着替え、毛皮のマントを羽織った。
「急ぐのでしょう」
モエは驚きを隠せない四人を引き連れて、部屋の扉を開け放った。
廊下には、どこから嗅ぎ付けてきたのか、衛兵が詰めかけていた。一部の者は眠った女官の介抱をしている。
「モエ様、これはどういうことですか。宮廷魔術師殿のご助言を頂いてこの館に向かってみれば、本当に妖精が現れるとは」
衛兵はモエが夜着ではない服に身を包んでいることを若干訝しみながら、ロベルクたちに剣や槍を向ける。
「宮廷魔術師……確か名前は、ナイルリーフとか言ったか」
ロベルクが何の敬称も付けずに独りごちたのを聞きつけ、衛兵が色めき立つ。
今にも跳び掛かってきそうな衛兵たちを、モエが片手で制する。動きを止めた衛兵に、彼女は表情筋に感情を乗せぬまま語りかけた。
「皆の者、今までよく私に尽くしてくれました。今を以て、私の護衛の任を解きます。ご苦労でした。城に戻りなさい」
そして無茶苦茶な命令を出す。
「そうは参りません!」
そもそもモエは人質としてリグレジークに滞在しているのに、リグレジーク所属の衛兵がそのような命令を聞くはずがない。
「モエ様、妖精は匿った者も死罪になることは、ご存知でしょう。今宵の件は目をつぶります故、その狼藉者をお引き渡し、どうかお休みください」
「困りました……」
モエはため息を吐いた。
衛兵たちは長期間見張りをしているうちに、モエに情が移ったと見える。何とか彼女を説得しようと言葉を探しているようだった。
モエはおもむろに振り向いた。
「さて、英雄の皆さんは、どのようにして私を連れ出すおつもりかしら?」
ロベルクは一瞬言葉を失った。穏やかに窮状を眺めているこの姫は、生死を分けるこの瞬間に自分たちの力を試そうとしている。なかなかしたたかなお姫様だ。だが、ここまで慎重でないと、人質としての地位や家の地位を守り、それでいてさらに高めることはできない。
「では……」
ロベルクは腰から霊剣を引き抜くと、床に突き立てた。この世の物でない鋭利さを誇る霊剣は、石の床に難なく切っ先を埋めた。その危険な現象に衛兵たちが一歩、後ずさる。ロベルクは余裕たっぷりな動作で頭に布を巻き始めた。
「リグレジーク兵は妖精の天敵。しかし姫をお助けしようとしました。故に……」
「殺さないのか? 甘いな」
レイスリッドの問いにロベルクは頷いた。
戦う相手とすら認識しないロベルクとレイスリッドの軽んじように、衛兵たちは怒りの熱を高める。
「何を世迷い言を! この人数を相手に何ができる?」
衛兵たちがロベルクを捉えようと前へ進み出ようとする。しかし――
「あ……足が!」
彼らの足は、靴ごと凍り付き、床に縫い付けられてしまっていた。そして、兵たちは悲鳴を上げ始める。手が力を失い、持っていた武器を取り落としてしまったのだ。
「腕を、破壊しない程度に冷却しました。手当をすればまた動くようになります」
「どうやら本物のようですね。試したりしてごめんなさい」
モエはロベルクの力を認め、初めて笑顔を見せた。
ロベルクはモエの差し出した手を優しく握ると、廊下へと促した。
「滑ります。お気をつけください」
「頼りにしていますわ。英雄殿」
微笑むモエ。それを見たセラーナはぷいとそっぽを向いた。レイスリッドが気付いて、ちょっかいを出す。
「どうした、セラーナ?」
「別に……何でもない」
口を尖らせて答えるセラーナ。
「ふぅーん。ま、ロベルクは色男だからな。せいぜい近くに居るこった。さあ、館を出るまでは真っ暗だから手を離すなよ」
五人になった一行はまた手を繋ぎ、次の人質が待つラウシヴ神殿に向かって裏通りを走り出した。
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