第十六話 『闖入者と乱入者』
男だ。
いつからそこに居たのか。
知性を象徴する藍色のマントに身を包み、長い杖を携えている。生白い顔が、黒髪の間からやけにはっきりと目に映った。
男が口を開いた。
「ヴィナバードに新たに力を貸した半森妖精というのは、お前か」
同時に背後で、ずるっという音が聞こえる。見ればセラーナが力を失い、その首ががくりと垂れるところだった。
「セラーナに何をした」
「なに……闇の精霊が少々悪戯をしただけだ」
「『少々』だと……⁉」
ロベルクが眉尻を吊り上げる。精霊が反応し、広間の空気がさらに凍てついた。
だが男はそれに動じず、薄ら笑いを浮かべながら自らの杖を弄んでいた。
「そう。『少々』だ。命を蹂躙するのに、お前が持つような力は要らない」
はったりではない。現にロベルクは、心を操られたセラーナに殺されかけた。
精霊は使いようによって絶大な力を発揮するということを、まざまざと見せつけられた形だ。
「さて、こちらの問いには答えていないな。お前がレスティカーザ軍を壊滅させた精霊使いか?」
「……だとしたら何だ」
ロベルクの肉体と精神が身構える。シャルレグが相手を睨みつけた。
「陛下は、命令を遂行できない者や妨げる者がお嫌いでね。そういう者は……殺すさ」
魔術師の頭上に、複数の小さな闇の塊が生まれる。
「心を引き裂け!」
闇が掌を広げ、ロベルクに襲いかかった。咄嗟に氷の礫で闇を撃ち落とす。それをかいくぐった闇の弾丸を手刀で払いのけた瞬間、ロベルクを激烈な頭痛が襲った。
「っ!」
精神に作用する光と闇の精霊には、直接触れてはならない。
ロベルクの精霊に対する支配力が失われ、シャルレグの巨体が一回り小さくなった。
「陛下だと? まさか、レスティカーザの不死の魔物は……」
「ほほう、賢いな」
魔術師が、先程操られていたセラーナと同じ邪悪な笑みを浮かべる。
「いわゆる『見せしめ』という奴だ。あれは
魔術師は、子供が玩具を見せびらかすような表情をしながら、自分の作成した魔物について講釈を垂れた。
「……だが、お前は自分の心配をした方がよい」
ヒュール、と魔術師が呼ぶと、マントの陰から革の衣に身を包んだ草原妖精が姿を現した。腰の鞘から二振りの短剣を抜くと、低く構える。先刻のセラーナの構えと同じだった。
「頂きっ!」
ヒュールは一陣の風になって間合いを詰めてくる。だが今度は、ロベルクにも一瞬の余裕があった。
「氷の刃を……僕の手に!」
手の先に生まれた透明な刃が、草原妖精の短剣を受け止めた。
相手はなおも執拗にロベルクの間合いに飛び込み、あらゆる角度から素早い打ち込みと突きを繰り出してくる。
恐怖感より先にロベルクの体が動いた。『月の剣』の守りの形を正確になぞり、ヒュールの攻撃を受け流す。そして徐々に攻撃を織り交ぜていく。
手数は五分五分になっていた。
ヒュールが両手で同時に繰り出した攻撃をいなすと、相手の死角から斬り上げる。刃がヒュールの脇腹から肩口にかけてを深々と抉り、透明な氷が朱に染まった。
「がっ」
草原妖精は二、三歩程後ろによろめくと、ばたりと仰向けに倒れた。
「ほう、なかなかの使い手だ」
魔術師は、目前で血溜まりを作っている草原妖精に悲観するでもなく一瞥をくれた。
「次はお前だ。打ち砕いてやる」
ロベルクは魔術師に切っ先を向けた。
「私を? いやいや、とんだお笑い種だ」
魔術師は笑みすら滲ませている。
「間抜けな半森妖精が。足元を見てみろ」
短剣を握ったまま転がるヒュール。未だ小さく痙攣しながら、血を流し続けている。
突然、それは大きく跳ねた。
血の流出が止まる。
傷口が、不気味に咀嚼を始めた。そこに流れた血が戻っていく。まるで腹に開いた巨大な口が血を飲み込んでいるような、吐き気を催す光景だった。
血を全て吸い終わると、跡一つ残さず傷口が閉じ合わさった。
そして、ヒュールは何事もなかったかのように立ち上がった。衣服の裂け目だけが、不自然に取り残されていた。
「化け物が……」
明らかに不自然な肉体の再生に、ロベルクは戦慄した。
きええ、と金切り声を上げながら、ヒュールは更に苛烈な突きを繰り出してくる。傷と共に疲労も消え去ったかのような機敏な動きだ。
ロベルクには三人目の相手と戦っているかのような錯覚を覚えた。
「吹雪の……衝撃!」
ロベルクの身体から、白く煙った冷気の衝撃波が走る。ヒュールが吹き飛び、とりあえずの間合いが確保された。ヒュールの凍傷が再生するまでの間、弾む息をある程度整える。
(このままでは、いずれやられる……)
ロベルクは転げ回るヒュールに氷の銛を撃ち込み、更に傷口を冷凍する。だがそれも再生を遅らせるだけの効果しかないようだった。
広間を出る扉は走って十歩程度の距離だ。一か八か、ヒュールと魔術師の攻撃をかいくぐって助けを呼ぶには、やや遠い。
(いっそ部位ごとに引きちぎって、それぞれを氷に閉じ込めるか)
「休む暇など与えん」
魔術師から闇の礫が飛ぶ。ロベルクは思考を中断して魔法の迎撃に専念することになった。一つ一つの闇を正確に撃ち落とし、直に触れないように警戒する。
そんな中、床ではヒュールが再生をしながら、苦痛にもがいていた。氷の銛は溶け落ち、革の衣に穿たれた穴だけが、攻撃があったことを物語っていた。
(せめて、相手が片方なら……)
再生を終えようとするヒュールに刃を構え直す。
その時、広間の扉が乱暴に開け放たれた。
騒ぎを聞いて、駆けつけてくれた者がいたようだ。
(助かったか……?)
しかし、大きく開かれた扉の外に立っていたのは、先刻ロベルクを痛烈に扱き下ろしたツェルスニー長司祭だった。後ろには数人の聖職者が付き従っている。
ツェルスニーは、手刀の先に氷の刃を生やしたロベルクと磔にされたセラーナを見るなり、片目を見開き、犬歯を剥き出しにして嗤笑した。
「ぎゃーっはっはっはぁ! ついに正体を現したな、薄汚いドブネズミが! 貴様を親身になって看護したセラーナ補祭と神聖な礼拝堂で密会、あまつさえ拘束までするとは、妖精って奴は一体どんな趣向をしているんだろうなぁ!」
「こ……こんな時に何を言ってるんですか、ツェルスニー様⁉」
ロベルクは魔術師とヒュールから視線を外さぬまま、ツェルスニーに言い返す。
「侵入者です! ラウシヴ像の下に魔術師、その前の通路に草原妖精がいます」
「馬鹿が! 俺に決定的瞬間を押さえられて幻覚でも見たか! 俺のセラーナに手ぇ出しやがって、この蛆虫が……」
ツェルスニーの面差しには、既に今まで見せていた貴族然とした印象は残っていなかった。彼はまるで口から排泄物を飛び散らせるかのように汚い言葉を並べ立ててロベルクを罵っていたが、やがて周囲の取り巻きが、本当に侵入者が居るということをぼそぼそ呟いていることに気付いた。中の一人がラウシヴ像の方を指さしている。
「何だっ⁉ 折角こいつが不埒なことをしている現場を押さえたというのに……」
ツェルスニーは取り巻きに怒気をぶつけながらも視線をそちらに移す。次の瞬間、彼の顔からさっと血の気が引いた。握り込んだ拳が半開きになり、わなわなと震える。一瞬で潤滑を失った声帯から嗄れた声が絞り出された。
「あ……あ……あなたが何故ここにっ⁉」
ロベルクは、猛り狂っていた男が一瞬で恐慌状態になったのに驚き、思わずツェルスニーと彼の視線の先に居る魔術師とを見比べる。
(『あなた』? 初対面の侵入者に、どういうことだ?)
ロベルクの疑問をよそに、魔術師は侮蔑の籠もった視線で、動揺するツェルスニーを睨め付けた。
「英雄を消すつもりで来たのに、鬱陶しい鼠輩が……どちらがネズミなのやら」
独りごちると、魔術師はロベルクに視線を戻して再度杖を構える。
相対するロベルクと魔術師は同時に戦闘を妨害されていたが、より上位の精霊を使役するロベルクの方が僅かに速く魔法を放った。
「破壊の冷気!」
シャルレグの口から数条の青い液体が発射される。超低温で空気を液化させながら迸るそれは、若干拡散しつつ魔術師に襲いかかった。しかし僅かの差で肉体を再生した草原妖精が跳び、身体を大の字にして凝縮された氷の精霊力を受け止める。
「ぎょっ! ぎゃっ!」
主を庇った草原妖精は、腕や脇腹を硝子のように打ち砕かれ、おおよそ身体の一部とはとは思えない硬質な音を立てて床に割れ散らばる。
「やれやれ……」
魔術師はヒュールの残骸を見下ろして穏やかに呟くが、らんらんと輝く紅い目は怒りに燃えているのが明らかだった。
同時にロベルクは微かな安堵の溜息を吐く。
少し遅れて、魔術師の怒りとロベルクの安堵の要因が、足音と怒声を伴って近づいてきた。三人の聖騎士隊長が、数名の部下を連れて広間に雪崩れ込む。
「何て寒さだ!」
「ロベルクか?」
「風神ラウシヴの大神殿で、これ程の氷を操るとは!」
聖騎士たちが驚きの声を上げる。
「ラインク団長、侵入者です!」
「ラインク主教、礼拝堂でふしだらな行いをする妖精が!」
ロベルクとツェルスニーが同時に声を上げた。
ラインクが眉根を寄せる。そして険しい視線で刺した対象は、魔術師の方だった。
「我々が相対すべき相手は……奥だ」
指差された方を見て、総員が身構える。
「奴は闇の精霊使いです。心を操られないようにしてください」
ロベルクは呼吸を整えて、警告した。
「わかった」
ラインクは頷いて部下に命令を下した。
「お前たちは『安定の祈り』を。私たち三人で斬り込む」
三人の隊長は一斉に剣を抜きはなった。動じる気配のない魔術師と、砕けた肉体が寄り集まりつつあるヒュールとに、四振りの剣が向けられた。
「おっと……騒ぎが大きくなってしまったようだ」
魔術師は肩を竦めた。
「帰るぞ、ヒュール」
ヒュールは頷くと、魔術師の傍らまで駆け戻る。その身にはやはり、傷一つなかった。
「また会うことになろう」
魔術師が軽く杖を振ったかと思うと、その姿がかき消えた。
幾度か無言の呼吸が行われ、皆の剣が下ろされた。
「助かりました」
ロベルクの全身から力が抜けた。
「いえ」
口を開いたのはマイノールだ。知的で浅黒い容貌が青ざめている。
「もしかすと、これは死への入口かも知れません」
どう言うこと、と言う言葉が、全員から同時に発せられた。マイノールは努めて冷静な声で言葉を紡いだ。
「彼のマント……あれは、リグレフ王国の宮廷魔術師のものです」
そこにいた全員の心を、広間の寒さを越える冷気が襲った。
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