第四章 小さな火種
第十七話 『涙と約束』
闇の精霊によって心を操られたセラーナは、その後は何事もなく、また彼女自身にも外傷はなく、ただ昏々と眠り続けた。その間に、複数の司祭以上の者によって霊的検査が行われ、身体・精神とも精霊力の乱れはないという結果を得た。
ロベルクは自らセラーナの看護を申し出た。ロベルクを敵視するツェルスニーは強硬に反対したが、ラインクが煩わしげにそれを退け、仕事はロベルクに任されることになった。
もう日付が変わろうかという深夜。
ロベルクがセラーナの部屋に食事を乗せた盆を持って入ると、彼女は寝台に腰を掛け、視点も定まらず虚空を眺めていた。
「セラーナ……」
ロベルクが声を掛けるが、セラーナは身じろぎもしなかった。
ロベルクが食事を机に置くと、セラーナはようやく口を開いた。
「あたし……」
セラーナはやっとそれだけを言うと、夜闇のような瞳から涙が溢れた。溢れた涙は磁器のように滑らかな頬を濡らしていく。
「セラーナ……?」
「あたし……あの後、中庭に様子を見に行ったの。そしたら急に頭が痛くなって、身体の自由が利かなくなって……」
セラーナはロベルクから顔を逸らした。
「あたし、全部見えてた。聞こえてた。でもあたしが動いたんじゃない! あたしが喋ったんじゃない!」
「分かってる」
ロベルクは彼女の罪悪感を察し、なるべく冷静に答えた。
「……恐らく、あの宮廷魔術師が掛けた精霊魔法だ」
ロベルクはセラーナを安心させようと、彼女の隣に腰をかけようとした。
「近寄らないで!」
セラーナが鋭く声を放った。
ロベルクの動きが止まる。
「あたし、怖いの……またロベルクのこと傷つけちゃうんじゃないかって」
「セラーナ!」
ロベルクはセラーナの両肩を掴んだ。
目を見開くセラーナ。
「しっかりしろ! あれは闇の精霊の仕業だ! そんなもの、いくら襲ってこようと僕が助けてやる! ずっと、守ってあげるから!」
セラーナはロベルクの胸に乱暴に顔を埋めた。
「ごめん。ごめんなさい……」
そして、そのまま声を上げて泣き続けた。
ロベルクは、セラーナが泣くに任せて、彼女の細い身体を強く抱きしめた。胸腔を通して、セラーナの慟哭が響いてくる。ロベルクはそのまま何も言わず、セラーナを強く包み込んだ。
セラーナは泣きじゃくりながら、ごめんなさい、と繰り返した。
ロベルクは、セラーナが落ち着くまで、そのまま彼女を抱きしめ続けた。
やがて――
セラーナが顔を上げた。
泣きはらした目は、ゆらゆらと揺れながらロベルクを見つめている。
「ずっと……守ってくれる……?」
「ずっと。約束する」
「ロベルク……」
セラーナはその森妖精のように整った顔容に安堵の表情を浮かべ、今度はゆっくりとロベルクの胸にその身を預けた。
ロベルクはセラーナを胸に抱きながら、ふと『生きる理由』という言葉が脳裏に浮かんできた。
セラーナを守る。
もっとセラーナの近くに居たい。
もっとセラーナのことが知りたい。
彼女の存在は、ロベルクの心に生まれ、徐々に大きくなりつつある『生きる理由』となっていった。ただの『生きる理由』ではない。ロベルク自身もセラーナに安らぎを与えることができる、お互いが生かされる関係――
ロベルクは、胸裡が暖かなもので満たされていくのを感じた。
穏やかな時間は、荒々しい足音によって破られた。
ノックもなく、扉が乱暴に開かれる。
現れたのはツェルスニーだ。彼は三人の手下を引き連れて室内に踏み込み、そのままロベルクまで数歩の位置まで詰め寄る。
「貴様は何の権利があってセラーナ補祭の看護をしているんだ⁉」
「ラインク団長から許可を得ました。ツェルスニー様も聞いていたはずです」
「そういう時は辞退しろ。神品も無い者が出しゃばるな!」
言うなりツェルスニーは長剣を鞘走らせた。そのままロベルクに向かって力任せに振り下ろす。
ロベルクは、とにかくツェルスニーがセラーナから離れるように身体をずらし、安全を確保した。
(何を無茶なことを言っているんだ、この人は? それとも、上位の者の決定に従わないのも『自由』だとでも言うのか⁉)
「ツェルスニー様、病人が居ます。やめてください!」
多少なりとも剣術の訓練をしたロベルクにとっては、素人の太刀筋をかわすことは容易い。誤ってセラーナに斬撃が及ばないよう、巧みに位置を選びながら凶刃を避け続ける。
それがツェルスニーの怒りの火に油を注ぐ形になり、彼はますます滅茶苦茶に剣を振り回した。
「看護など、俺がたっぷりしてくれる。この女狐の性根を叩き直す為に、肌に直接『祈り』を擦り込んでやる必要もあるからな!」
「何だと⁉ それが聖職者の……っ!」
ロベルクは、言葉を最後まで紡ぐ前に、後頭部に衝撃を受けた。鈍痛にしゃがみ込んだところに、背後で待ち構えていたであろう手下が飛びかかり、両腕を掴まれる。
「ロベルク! ロベルク……」
セラーナの声が遠ざかっていく。
否応なしに引き摺られたロベルクは大神殿の敷地を出され、奇しくも一月前に行き倒れた門前にうち捨てられた。
「難民のくせに出しゃばりやがって」
「自由にも限度ってもんがあるんだよ」
手下の聖職者はそれぞれ鬱憤を晴らすように吐き捨てると、建物の方へ戻っていった。
ロベルクは痛みの引いてきた頭を起こした。
(セラーナを、巻き込んでしまったのか? あんなに親切にしてくれた、あんなに頼ってくれたセラーナを……)
濡れた石畳についた両手を凝視する。その掌に、つい先程セラーナから受け取った温もりは、既に残っていなかった。
(『守る』って言った側から、これか)
泥のついたロベルクの頬が、自嘲の形に歪む。
(多分、ここまで来る間に振り払うこともできた。その後で部屋に戻って、ツェルスニーを氷の刃で斬り捨てることもできた。僕の気持ちが……ラウシヴ神殿の一員として所属していたい、神殿の人達と諍いを起こしたくない……そんな未練にまみれた僕の気持ちが、行動することを拒んだんだ!)
悔恨に任せて石畳を殴る。
「っ!」
ロベルクの拳に血が滲む。石畳は鈍い音を立てただけで、まるで我関せずと言うかの如くじっと押し黙り続けていた。
(そもそも、僕がこんなにラウシヴ神殿に関わらなければ……僕がここに来なければ、セラーナはこれ程酷い目に遭わなくて済んだんじゃないのか⁉)
と、ロベルクの部屋があった方から硝子の割れる音が響く。
夜目の利くロベルクには、窓から何かが飛び出してくるのが見えた。それは一直線にこちらに向かい、がらんと目の前に落ちる。
霊剣フィスィアーダだけが、うち捨てられたロベルクに付いてきたのだった。
「居なくなった方が、守れるっていうのか……」
ロベルクは霊剣を腰に差すと、漏れる灯りも疎らになったヴィナバードの街へと消えていった。
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