第十五話 『夜の誘い』
会議終了後、直ちに出陣する聖騎士の人選が行われた。出陣の条件としてレイスリッドが「レスティカーザに親類・友人などがいないこと」を提示したためである。結果、ヒメル大隊百二十五名の中で出陣の許可が下りたのは、隊長のヒメルと使者とを含めて八十三名であった。
同時進行で遠征の準備が行われた。レナが配下の聖兵に的確な指示を出し、八十三名分の旅支度をあっと言う間に仕上げた。
出陣の日は、残暑が身を潜め、晩秋のように纏わりつくような細い雨が降った。これから忌まわしい不死の魔物と対峙するという不快感が具現化したような天気だった。
ロベルクは今回の遠征の人員には初めから含まれていなかった。レスティカーザ出身だからである。納得のいかないロベルクは、自ら旅装を整えて、今しがた一歩目を踏み出したばかりの大隊の前に躍り出た。
行軍が止まる。
「僕も連れていってくれ」
「だめだ」
ヒメルは簡潔に拒否した。
「レスティカーザには、世話になった人もたくさん居るんだ。その人たちの為に、僕にも何かさせてくれ」
なおも食い下がるロベルク。ヒメルは下馬し、ロベルクに視線を合わせる。
「お前は……」
息巻くロベルクに、ヒメルは穏やかに語り掛けた。
「お前がその世話になった人々の顔を思い出し、彼らが襲いかかって来た時、躊躇なく斬れるか? 斬り刻めるか?」
ロベルクは絶句した。
人の心を失って襲いかかってくる不死の魔物に対して情を持つことは、死を意味する。
貴重な戦力となったロベルクをヴィナバードに残すことは作戦遂行上の判断ではあるが、ヒメルなりの戦友に対する気遣いでもあった。
「俺たちは、それをやりに行く」
言葉もなく立ち尽くすロベルクの横を、聖騎士団は通り過ぎていった。
ロベルクは私室に戻り、窓に当たる雨をぼんやりと眺めていた。
セラーナが茶を持って訪ねて来た。彼女はロベルクが遠征に加われずに歯痒い思いをしている事を察していたのだ。
「……ヒメル隊長は、言葉遣いは粗野だけど、神殿や守るべきもののことを、とてもよく考えているわ。あなたのことも、きっと……」
「分かってる」
ロベルクは力無く答えた。
「もしレスティカーザで、世話になった人たちが殺され、その上、不死の魔物になってやってきたら、僕はきっと戦うのを躊躇うだろう。彼らに殺され、魔物の一人になってしまうかも知れない。強力な精霊、剣術……それも弱い心を持ち合わせては無力だ……」
「弱いんじゃないわ」
セラーナはロベルクの言葉を遮った。
「それは優しい心、よ」
透き通った、芯のある声だった。セラーナの声には、人を落ち着かせ、同調させる力があるように感じた。
「争いを始めるのが心なら、争いを止めるのも心。心は、振り下ろそうとする剣を止める程、強い力を持っているということよ。その力は戦を止めることもできると思うの」
「心の、力?」
セラーナは頷いた。
「力は、何も刺々しいものばかりではないということよ……」
二人はそのまま、黙って茶を飲んだ。
静かな時が流れる。
が、二人は同時に異様な感覚を覚え、窓の外を見た。
「精霊の乱れ? 誰かが魔法を使った?」
「結構強い力を使ったようね。あたし、戻りがてら見ていくわ」
セラーナは、長居したとか言いながら、椀を持って立ち上がった。
「ご馳走様」
ロベルクは扉を開けて支え、セラーナを送り出した。
その夜、ロベルクが食後の鍛錬を終えて自室で休んでいると、扉がノックされた。扉を開くと、そこには幼さが残る伝教者の少女が所在なさげに立っていた。部屋から漏れる季節外れの冷気に、彼女は一瞬だけピクリと眉を動かすが、特段の動揺もせず少なくとも表面上は冷静さを貫いていた。
「礼拝堂でセラーナ補祭がお待ちです」
セラーナの名を聞いた途端、ロベルクの耳は己の心音が高まるを捉えた。
着の身着のままでヴィナバードにやって来たロベルクを、事あるごとに支えてくれたセラーナ。凱旋の宴では生還を祝ってくれた。不死の魔物を討伐する部隊に参加できずに気落ちしていた時は、慰めの言葉を掛けてくれた。顧みれば、ヴィナバードに来てからというもの、ロベルクの壊れた心はいつもセラーナに支えられていたことに気付く。いつもセラーナが隣にいて、ロベルクの心に平安をもたらしてくれた。
そして今、セラーナからの呼び出しが来ている。しかも、夕食も終わって人の往来が落ち着いたこの時刻に。
何か、折り入って相談したいことや、依頼があるのではないだろうか。今まで支えてもらってばかりだったセラーナに、恩を返すことができるのではないか――期待が高揚感となって、ロベルクの心臓は自然と拍動の速度を上げるのだった。
「では、失礼いたします」
手短に用件だけを述べた幼い伝教者は、表情を変えずに立ち去る。
「ありが……とう」
礼を言いかけたロベルクを一顧だにせず、小さな伝教者は足早に消えていった。
(仕方ないか。戦果を上げたと言っても、僕はまだまだ新入りだからな)
ロベルクは苦笑を漏らすと、礼拝堂に向かって歩き出す。先程、伝教者が立ち去った方へ、後をついていくように進み、丁字路で彼女とは逆の方へ曲がると礼拝堂だ。
伝教者が曲がり角へと消えると、入れ違いに男の姿が現れた。
ツェルスニーである。
かの男からは今まで、過剰な妖精難民の流入に歯止めを掛けようとする発言や、中でも派手な異常気象を伴ってやってきたロベルクの排除を公言するのを聞いてきた。ロベルクの浮かれた心が、冷静さを取り戻す。
ロベルクが内心で眉根を寄せたのに対し、ツェルスニーは紳士と言うより高慢な貴族のように見下した表情を作り、廊下中に聞こえるような舌打ちを響かせた。
「こんな夜にどこへ行くつもりだ」
「礼拝堂へ」
「ラウシヴの信徒でもない貴様が、礼拝堂に何の用だ?」
「セラーナ補祭に呼ばれました」
セラーナの名を聞き、ツェルスニーの表情筋がさらに歪んだ。もはや貴族と言うより野盗の親玉のような形相でロベルクに詰め寄り、顔を肉薄させる。ロベルクが僅かも後ずさらなかったことが、ツェルスニーをさらに苛立たせた。彼は怒りと毒の籠もった囁き声を、酒の臭いに乗せてロベルクに叩き付けた。
「いいか、難民。戦で手柄を立てて調子に乗っているようだが、セラーナ補祭は貴様の世話を上役に指示され、義務で行っているのだ。特別な感情があるのでは、などと馬鹿な勘違いをしてみろ。修行の妨害と見なして叩き出してやるからな!」
ツェルスニーは一方的に捲し立てると、来た道を戻っていった。
残されたロベルクは翠眼の奥に不快感を留め、ツェルスニーが視界から消えるまで見送った。やがて蟠りを落とすように軽く頭を振る。
(……いや、ツェルスニー様の言う通りだな。好意に過剰な反応をしてしまっては失礼だ。胸糞が悪いが、お陰で落ち着きを取り戻せた)
ロベルクは気を取り直して礼拝堂へと向かった。
礼拝堂の入口には、ロベルクの身長の倍はあろうかという木製の扉が聳え立っている。創世神話におけるラウシヴ誕生の場面が浮き彫りにされており、それだけで一個の芸術品としての価値がありそうな扉だった。
ロベルクが重厚な両開きの扉に手を掛けると、よく油を差してある扉はさほど力を込めずとも音もなく開いた。礼拝堂に入り、扉から手を離すと、ゆっくりと閉じていく。技術なのか魔法なのか判然としないが、機能的にも一級品の扉だと言えた。
セラーナは礼拝堂の奥、ラウシヴ像が立つ斜め下で、壁に寄りかかるようにして微笑んでいた。肌も露わな夏物の夜着に、薄手のガウンを羽織っている。
「……何? セラーナ」
日中の、瑞々しさの中に気品が薫る表情とは違った、まるで危険な遊びに誘うような微笑みに僅かな奇妙さを感じたロベルクは、彼女に数歩近づいた扉を開いたその場所でセラーナに呼びかけた。
「あの、先程のレスティカーザの事についてなんだけど……」
用件を確かめると、ロベルクはセラーナの方へ歩を進めた。
同時にセラーナもロベルクの方へ近づく。
「……レスティカーザに詳しいロベルクを連れて行ってくれないなんて、とても酷い話よね……」
彼女は話しながら、手の届く距離まで歩み寄ってきた。音もなく、ガウンが床に落ちる。滑らかな肩が露出した布地の少ない夜着は、日頃の重厚な司祭衣を纏った姿と対比されて、艶めかしさすら感じられた。
だが、ツェルスニーのお陰で冷静さを取り戻していたロベルクには、同時に違う感覚ももたらされた。
(昼間と、言っている事が違う)
「あたし、あなたが不憫で……」
セラーナがゆっくりとロベルクに近づく。もはや彼女の顔は、息も届く距離にあった。整った白い顔に、艶めかしい表情を浮かべている。桃色の唇が近づき――
「あたし……」
セラーナの滑らかな指が、ロベルクの胸板を衣服越しに触れた。
指先の柔らかな感触。
それと同時に、昼に覚えた違和感がロベルクに流れ込む。
(これは……精霊の、乱れ?)
ロベルクがセラーナを突き飛ばすのと、銀色の刃先が首筋を掠めたのは、ほぼ同時だった。
「セラーナ! 何を……?」
突き飛ばされたセラーナは体勢を立て直し、床を蹴ると同時に低い姿勢から短刀を抉り込んできた。
(セラーナの動きではない!)
手練れの短刀捌き。痴情のもつれのように心臓を目掛けた素人の一突きではなく、太股や手首を執拗に狙う、相手の戦闘力を奪う為の攻撃だ。
ロベルクは訓練の成果もあって、何とかそれをかわしていく。思考より速く足が動き、短刀の軌跡に対して並行の位置にその身が踊り、攻撃を紙一重で見切っていく。
しかし、セラーナの身体能力から繰り出される流星のような突きは、所詮鍛錬中の身であるロベルクに平然と追い縋り、じりじりと部屋の角へと追い詰めていった。
「セラーナ、どういう事だっ!」
「あたし、あなたが可哀相なので……いっそ殺してしまおうと!」
セラーナが必殺の突きを放つ。ロベルクはそれを無様に転がりながら凌いだ。頭上では石壁が刃を弾き、火花を散らした。
ロベルクは同時に、息も絶え絶えに叫ぶ。
「シャルレグ!」
氷の王が召喚され、部屋が一瞬で凍てついた。
「壁に縫い付けろっ!」
間髪を入れずに命令を下す。
数本の氷の銛が現れ、振り向きざまに次の一撃を繰り出そうとしていたセラーナの衣服だけを正確に射抜く。そして夜着が包んでいた身体ごと強引にロベルクの間合いから引き離すと、壁に突き立った。
ロベルクは命の危機が遠のいたことを目視すると、暴れる心臓を庇いつつ、のろのろと立ち上がった。
(何が、起こった……?)
セラーナを見ると、まるで先程まで読書でもしていたかのように息も乱しておらず、壁に磔にされていた。その口角が吊り上がり、彼女のものとは思えぬ冷酷な笑みを浮かべる。
「おや、し損じたか?」
セラーナの声に重なって、部屋の反対側から別な声が響いた。
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