夏の明星

いかろす

夏の明星

 初めて世界地図を見たとき、ヴェッ、みたいな声が出た。

 私の家には車がなくて、移動にはいつも徒歩か自転車。母が遠出を好むタイプじゃなかったので、電車移動もあまりない。だから、私の世界はとても狭かった。電車通勤のサラリーマンと比べても、ずっと。

 そんな子供が世界地図を見せられて、これが世界だよと言われる。意味が分からなかった。

 めっぽう広いと思っていた私の世界──日本の真ん中あたりの山間部は、めちゃくちゃちっぽけな点でしかない。超縮小した紙の上で点なら、私の存在はどこまで矮小なんだ。たぶん、子供心にそんなことを想って、辛くなった。


 世界に比べてとんでもなくちっぽけな私だが、一つだけ、私を支えてくれる「誇れること」を持っていた。今思えば、それもまた一つのちっぽけなのだけれど。

 テーブルの上を、白球が跳ねる。高速を有しながらネットを飛び越えてくるそれを、私はラケットで打ち返す──そう、卓球である。

 最も速い球速を叩き出すというあのスポーツに、私は勤しんでいた。きっかけは、百均で売ってるような卓球おもちゃで遊んでみたら楽しかったこと。そして、家の近くに卓球教室があったこと。小学三年生くらいの時期だった。

 飛んでくる球を打ち返す。一見単純明快なルールの中に、無限大の戦略と知略が渦巻く卓球の世界。幸いにして、私の体と脳はすぐに卓球に順応した。やりたいやりたい、卓球がやりたい。楽しいという感情に任せて汗を流す毎日。卓球教室では、年上のお兄さんお姉さんにも時々勝つほどに上達が早かった。

 小学四年生になったとき、小学校の卓球クラブに勧誘された。でも、私は卓球教室で十分だったため、断ってパソコンクラブとかに入った。そうしていく内にも、私と卓球の関係はどんどん密接になっていく。一度大きな大会に出た時は、準決勝で惜しくも敗北。その時の対戦相手は、後に同年代の部で全国五本の指に入る強者だった。

 それ以来、大会に出ることはやめた。その代わり、もっと強くなろうと思うようになった。強くなることが、とても楽しかった。卓球教室で、いつのまにか私は、頂点に立っていた。

 あるとき、ふと思った。もしかしたら、卓球でなら、ちっぽけな私を抜け出せるんじゃないか。

 その頃のニュース番組では、若い日本人卓球選手が世界で活躍。日本中を賑わせていた。

 私も強い選手になれば、世界地図のちっぽけな点を越えられる。世界に羽ばたく、大きな鳥にだってなれるんだ。ラケットを振るう腕に力がこもる。私は教室最強であり続けた。

 まさしくあのときの私にとって卓球は生きる意味だったし、それ以外のこと──勉強や友人関係──も、卓球の熱にあてられてか、エンジョイできていた。

 だが、小学六年生になったとき、ヤツは現れた。

 もう名前も覚えてない、否、意識的に記憶から消し去ってしまった。

 突如卓球教室に現れた、小学四年生のチビっちゃい女の子。彼女は最初こそ私の餌食だったものの、相対する内にめきめきと上達していく成長期の権化みたいな子だった。私もこの子に合わせて上手くなればいい──そんな考えが通用しない勢いで彼女は成長を遂げていく。真綿で絞められるようとは、あの日々のことを言うに違いない。

 そして、ある夏の日。霹靂のごとき敗北が私を襲った。あの日はいつもより調子が悪かったような気もするが、今となっては関係のないこと。私はあのとき、敗北した。

 なぜか彼女は私と戦いたがったが、それは死体蹴りというほかない行為であった。まだ小学四年生の彼女に、その自覚はなかったのだろう。そうとわかっていても、蹴られ続けることに耐えられるほど、死体も無感情ではなかった。

 私の世界はちっぽけだった。誇れると思った卓球も、私という王様が統治するちっぽけな領土でしか誇れない、ただのお飾り。結局、勝てなければ楽しくなんてなかった。どこに出しても恥ずかしくて、意味のない時間たち。

 結局すべてはちっぽけなまま。その年の夏休みに卓球をやめて、意味の見いだせない人生へと身を投じた。

 私は、意味を探している。


 ◇


 スマホでグーグルを開いて「退学届 書くこと」で検索。百五十万件くらいヒットした。てきとうなサイトをざっと流し見して、意味のないことと悟って閉じた。

 卓球人生とお別れしてはや数年。いつのまにやら、私はごく普通の地味な高校一年生になっていた。私が卓球をしていたことを知る人間は、既に私の世界からシャットアウト。のほほんとした退廃ばかりが取り巻いている。

 ごく普通の制服に身を包み、ごく普通の2LDKマンションを出て、ごく普通の通学路をとことこ歩き、電車で一駅のごく普通高校に通う日々。高校の名前は東〇×高校というごく普通の偏差値なボロ高校。卓球部は弱小だ。

 教室の窓際一番後ろ──ここだけ若干ごく普通ではない──の席に座る私の周りには、四人の友人がたむろしてわいわいがやがや。周囲のクラスメイトもわいわいがやがや。私は一人、スマホと格闘というわけにもいかず。

「ねえ幸子、あのバンドの新曲聞いた?」

 そう、私の名前は幸子。山坂幸子という。似合わない名前だなあとは、つくづく思っている。

「あ、んー……まだ聞いてないや」

「じゃあ聞いてみ! めっちゃいいから」

 そう言って、友人A──本名映子ちゃん──はイヤホンを差し出してくる。断るわけにもいかず、Aの耳垢がついてそうなイヤホンを受け取って耳に突っ込んだ。流行りっぽいサウンドが教室の雑音とミックスされて鼓膜を刺激する。せめてノイズキャンセラーつきのイヤホンくらい買えばいいのに。

「どう?」

「うーん。めっちゃ流行りそうな感じ。みんな好きそう」

 言うと、なにそれ幸子っぽい、とか反応が帰って来る。趣味がないので、学年はじまりの自己紹介では「趣味は音楽を聴くことです」とか言ってしまった。その都合上、音楽好きっぽさを演出しなきゃな、みたいな謎の自意識があったりする。

 こうして、高校生ライフは無駄な時間というカテゴリへとスムーズに収まっていく。かといって、私には無駄な時間カテゴリ以外の持ち合わせがないのでどうしようもない。

「そういえばさあ、クズカゼさんの話聞いた?」

 友人Bの言い分に、その他たちが頷く。しかし私は知らないので、頭上に?マークを浮かべるほかない。というか、クズカゼさんって誰だ。

涼風すずかぜ涼風すずか。いたじゃん、クラスメイトの」

「ああ、そういえば。休みがちだったよね」

「あの子、学校やめたんだって」

 思わず口から「えっ」と漏れる。脳裏をよぎったのは、退学届の書き方まとめサイト。まさか私のすぐそばに、ガチ退学をやってのける猛者がいるとは。涼風さんのことは幾度か見かけたことがあるが、重い事情があるようにも見えない活発そうな子だった、気がする。

「なんでやめたか知ってる?」

「いーや。でも町中遊び惚けてるってウワサ聞いたことあるし。不良なんじゃないの?」

「不良! 古すぎでしょ。てか今ドキ高校出てないってヤバない?」

 実際かなりヤバいことだとは思う。しかし、どこまで行ってもそれは他者の視点だ。クズカゼ……じゃなくて涼風さんが退学をどう思っているかなんて、誰にもわからない。

 私はといえば、テストを白紙で出してみたいと思うが後が面倒そうだし意味ないので無理。学校なんて無意味だからやめちゃいたいけどやっぱり後が面倒そうだから無理。

 それに比べて涼風さんは、ビシっと高校をやめてしまったらしい。やめられるってことは、それだけの理由があることに他ならない。少なくとも、ここで燻ぶってる私なんかよりは、色々考えて生きているんだろう。なにか意味のある時間を、人生を、過ごしているに違いない。

 その後のホームルームで、担任から涼風さんの退学が通達された。退学の理由は、残念ながら教えてくれなかった。

 涼風さん、どんな人だったっけ。


 ◇


 ずるずると過ごしていたら六月。気温はゆるやかに上昇を始め、空気がジワっと重くなり出す。そしてなにより、梅雨が来た。ぶ厚い雲が大挙して押し寄せたかと思えば、たちまち降り注ぐ雨たち。こんな島国よりも雨を求めている国はあるだろ、とか思っていると、雨の後の湿度が襲いかかって来る。

 とある土曜日のこと、私の部屋のクーラーが壊れた。

 金曜に雨が降り、深夜にピタッと止んだ。その結果、とんでもない湿度に見舞われたカンカン照りの陽気が私の部屋へ集中砲火を浴びせかける。なにをするにしても、部屋に留まるという選択肢は消えゆく運命。熱さに耐えかねた私は、クーラーの効いたリビングでアイスでも食べようと画策し、立ち上がった。

 だが冷凍庫を開けてみると、冷凍食品たちがズラリと並んでいるばかり。私の大好きなチョコ味のカップアイスが買い置きしてあったはずなのに。

「お母さん、アイスは」

「ごめーん、食べちゃった」

 なんと薄情な。ということで、アイス気分から抜け出せない私は、仕方なく炎天下へお買い物に出ることになる。

 家から歩いて五分ほどの所に、ごく普通のコンビニがある。そこなら大抵のアイスは揃っているだろう。なしくずし的に目的地が決まって歩き始めた。

 暑い暑いと頭の中で呟きながら進んでいると、コンビニ前に無事到着。その時、キキッ、という音がすぐ後ろで鳴った。

「もしかして、山坂さん?」

 聞いたことのない声が私を呼んだ気がした。流石に人違いだとは思えず、おそるおそる振り向いてみる。

「やっぱり、山坂さん!」

 ずいぶんと可愛らしい女の子が自転車に乗っている。華やかな笑顔が目を引く、活発そうな女の子。夏っぽい女の子、という表現が似合いそう。

 こんな人知り合いにいない──と思ったのだけれど、記憶には、かすかにあった。

「涼風、さん?」

 涼風涼風。私の杞憂などつゆ知らず、サラリと学校を辞めてしまったあの人だ。入学式で撮った集合写真が、わずかながら記憶に残っていた。

「ねえ山坂さん、よかったら一緒にアイス食べない?」

「……え?」

 それが、私とスズカの出会いだった。

 だってこの子の笑顔は、風に揺れる髪は、一挙手一投足は、とってもキラキラしていたから。それが理由になるかどうかは、未来の私が知っている。


 涼風さんはパピコを食べたがった。カップアイスを一人で食べるのが好きなのだが、涼風さんの求めに応じないのは忍びない。パピコを割り勘するという小学生みたいなことをして、コンビニを出た。

「はい、半分こ」

 屈託ない笑顔の涼風さんが、パピコの片割れを手渡してくる。ありがとう、と言って受け取った。私がお金を出したので、言う必要はないのだけど。

 アイスの冷たさを手に感じた瞬間、私の頭もスッと冷静になった。私は今、なにをしているんだ? なんで学校やめた元クラスメイトとパピコを食っているんだ?

「溶けちゃうよ?」

 もう半分くらいパピコを食べ終えている涼風さんが言う。私も溶け始めて開けづらくなった蓋を開けて、上の部分に残ったアイスを吸った。

 それにしてもこの涼風さん、パピコをずいぶんと美味しそうに食べている。上手く言語化できないが、とにかく美味しそうなのだ。

 もしかしたら、私のこれもすごい美味しいのだろうか。しかし、今食べた上の部分のアイスはごく普通のパピコだった。実際下を食べてみても、それはごくごく普通のパピコであった。

「パピコ、好きなの?」

 もう食べ終わっている涼風さんに聞いてみる。

「うん、好きだよ」

 容器をゴミ箱に捨てた涼風さんは、パピコを吸う私を興味深げに見ている。見られていると、なんだか食べづらい。

「……なに、かな」

「パピコはさ、二人で食べるのが一番美味しいと思うんだよねあたし! 山坂さ……あ、下の名前なに?」

 パピコが二つあることを、そんな風に解釈する人がいるなんて。正直、ここ最近で一番ビックリなことかもしれない。

「幸子。みんなはサチって呼んでる」

「ふうん。サチコはどう思う?」

 それとなくサチと呼ぶよう示唆したつもりだったのだが。私はこの幸子という地味だか派手だか判然としない名前が、あまり好きじゃないのだ。

「え、なにが?」

「パピコ」

「あー。えっと……別に、普通? だと思う」

「そっかあ、残念」

 がっくりと肩を落とす涼風さん。いったい何者なんだこの子は。クズカゼさんというあだ名を耳にした時も謎だったのに、対面した今の方が謎は深まっている。

 不意に、この子に聞いてみたくなった。どうして学校をやめたのか、と。だって、こうして話してみると、この子が学校をやめてしまう子には見えないのだ。ちょっと不思議ちゃんなところはあるかもだが、なんとなく学校生活とか満喫しそうなタイプに見えるのに。

 そうこうしているうち、私がパピコを完食。変わりばえしない味のパピコだが、夏に食べればそりゃ美味しい。満足した。

 私の完食を確認した涼風さんは、なにやら納得げに頷いてから自転車の方へ。どうやら彼女は、本当にパピコを食べるだけ食べて行ってしまうらしい。

「どこ行くの?」

 自転車にまたがった彼女に問う。これくらいは聞いてもいいだろう。学校に関する話題は出さないようにすればいい。

「……どこだろう」

 それが彼女の返答だと気づくのに、少しの時間を要した。だって、涼風さんも本当に疑問に思ってるみたいな口調で、首を傾げて、眉をひそめて言うのだ。

「え、どこか目的地とかは」

「ないよ」

「サイクリングってこと?」

「うーん、そうなるのかな。今は自転車で走るのが楽しいから乗ってる」

 サイクリングというと、今日はここまで走ろう、みたいなことを決めて走るものではないのか。いや、ただてきとうに走るというのもサイクリングか。

「ねえ、もう行っていいかなあ」

 涼風さんの言葉はうんざり気味みたいだけれど、彼女の口ぶりに怒りはない。むしろ、走りたくてうずうずしているみたいで、とってもエネルギッシュなのだ。

「あ、引き止めちゃってごめん。じゃあ私は──」

 これ以上この子に関わっても謎が深まるばかりだ。せっかくの休日を炎天下で過ごし続ける意味もない。家に置いとくアイスを買ってもう帰ろう。そう思ったのだが。突如、花開くように涼風さんの表情に笑顔が咲いた。

「ねえサチコ。ここ、乗らない?」

 彼女の指は、ママチャリの後ろの荷物を載せられそうなところを指していた。これは、つまり、誘われているのか。なぜ、私が。

「えと、なんで?」

「なんでって、二人乗り。してみたくない?」

 そのときの私は、あっ、て声に出していたと思う。目の前に、彼女の周りに、見えたのだ。夏の日差しよりも主張の激しい、キラキラが。原因不明で、原産地も不明で、なぜか私を惹きつけてしまう、不思議な輝き。

「してみたい、かも」

 オートで可動した口が、同意していた。いや、これでいいのか。なんとなく言ってないか私。

「決まり! 乗って!」

 二人乗りって法律でダメじゃないのか。なんで二人乗りなんてするんだ。暑い中外に居すわり続ける意味なくないか。そもそもなんで、涼風さんの後ろに乗ることになっているんだ。

 でも、乗ってみたいって、心のどこかで思ってる。

 どうして? と心に問いかけても返答はない。涼風さんに聞いても、満足いく返答は貰えそうにない。なにを考えたところで、もう遅い。だって私はもう、自転車の後ろにまたがってしまったから。

「出発!」

 ペダルが回る。二人ぶんの重さで車体がよろめいて、ふんっと声を漏らした涼風さんがハンドルを回して立ち直る。不安定さが心配で、彼女の腰に手を回した。ひんっ、と声がした気がして。もしかして涼風さん、腰を触られるのに弱いのかも。

「行くよ!」

「……うん」


 人通りもまばらな、川沿いの道をひた走る。すぐそばの大通りは意外と車通りが少なくて、ペダルを回す音ばかりが耳に届く。今この道に、私たちだけ。

 空から日差しが襲い来る。湿度が猛威を振るっている。こんな日にサイクリングなんて馬鹿げてる。お尻に当たる金属は座った時熱かったし、初夏の気候は依然暑いまま。なのに。

 この気持ち良さは、なに。

「スピード上げるよ、しっかり掴まって!」

「わわっ、これでいい?」

「わひゃん! そこだめ!」

「わ、かわい……。ここらへん?」

「オッケー!」

 よろよろの自転車は心もとないはずなのだけれど、何故だかすごく心強い。矛盾しているはずなのに。矛盾は受け入れがたいもののはずなのに。駆け抜ける快感に雑念はするすると振り払われていく。

 川沿いの道が途切れてしまったので、自転車は大通りの方へと曲がった。色とりどりの車が駆け抜けていく横を、二人乗りでハイスピード。誰か知り合いに見つかったりしないか。そもそも人に見つかったらおしまいではなかろうか。

「風気持ちー!」

 涼風さんがさわやかに天へと言い放つ。その声が私に向けられていないとはわかっているものの、全身で風の行方を探したくなる。

「風? あ、手に感じるかも……」

 大通りを曲がって、高架上へ。四方にある建物がなくなったせいか、私にも吹きつけだす風たち。さっきまで通って来た川も、走り抜けた大通りもこの目に見える。涼風さんのペダリングは緩まない。

 なにか言いたい。でも、こういうときなんて言う?

「運転かわる? 気持ちーよ!」

 空かさずやってくる彼女の言葉は、今度こそ私に向けられたものだった。でも、まだ、答えに迷う私がいる。ええい、この際だ。思うがままを答えるっきゃない。

「……ううん、ここがいい!」

 なにもわからない。全部その場しのぎ。いや、その場しのぎという言葉はふさわしくない。なら、なんて言葉がふさわしいのだろう。

 法律違反のサイクリング。それ以外に、形容しようがなくて。その感覚に、身を任せてみるしかなくて──


「キミたち、二人乗りはダメってわかってる?」

 結果、警察に怒られた。

 自転車の二人乗りは、悪ければ二万円の罰金。しかし、私たちは幸運にも注意されるだけで済んだ。反省してるっぽくシュンとしていると、お巡りさんはすぐに去ってしまった。横にいる涼風さんが小さくガッツポーズ。

「サチコ、二万円持ってる?」

「五百円しか持ってない」

「あたし二百円」

 外を遊び歩く高校生なら、お札の二枚や三枚入ってそうなもの。でも、私たちはそんな常識とは無縁で。涼風さんの視線と私の視線が重なる。彼女の白い歯が見え隠れする。

「ぷっ、くく……」

「ふふっ、ははっ」

 なんだかわけがわからないけれど、無性に、笑えてきてしまうのだ。

 心の底から笑ったことなんて何度もある。それこそ最近、友達と遊びに行ったときとか。卓球をしていた頃は、もっと生活が笑いやその他の感情でいっぱいだった。

 でも、この笑いは、なにか違う。心の底のさらに奥の方から、なにか別のものがこみあげてくるのだ。決して吐瀉物とかではない。そう、例えるなら──涼風さんがまとっていた、キラキラ。

「歩いて行こう!」

 ひとしきり笑った後、涼風さんは自転車を押していきなり歩き出す。まだ笑い疲れみたいな状態の私は「ま、待って涼風さん」としどろもどろになりつつ追いかける。目的地もわからない。どこ行くの、と問いかけようとした。

「スズカって呼んで」

 なんだか、誘い込まれたみたいな錯覚。そうしなければならないみたいな──違う、そうしたいんだ。なんで? 自問しても、明確な自答はできそうにない。

「……スズカ」

「サチコのことも、サチって呼んだ方がいい?」

 私は頷いた。住宅街へ続くただの坂道。スズカの手が差し伸べられる。キラキラまぶしい、彼女の手が。

「サチ、行こう?」

「……うん」

 どこに行くの、なんて聞けそうになかった。聞けるはずがなかった。だって、どこへでもいいから、彼女とどこかへ行ってみたい。そんなことを想って歩き出す私が、ここに居るから。

 傾斜のある住宅街は、歩いているだけでスタミナを奪われる。自転車を押してせかせか進んでいくスズカを追って、とりあえず歩き続けた。頬を汗が流れ落ちる。時刻は暑さのピークが抜け始めるころだが、重苦しい湿気は未だに拭いきれない。

 楽しげな彼女の背を見るに、どこか楽しいところへ行こうとしているのはわかる。けれど、

 なんの変哲もない住宅街が、彼女の満足へと導いてくれるようには到底思えない。次第に、私の中へ疑問の芽が顔を出し始めた。なんで歩いているんだ。なんでスズカといるんだ。こんなことに、意味あるのか?

「こっち! もうすぐ!」

 快活な彼女の声が、暗い方向に引っ張られた意志を呼び戻す。やっぱりどこも変わらない住宅街。彼女の指す方へ、進む──一迅の風が、頬を打つ。

 思わず、わっ、と声が漏れた。

 初夏の太陽を称えた広い空と、それに照らされる私の町。足元には、崖を切り崩して作ったような階段が下の住宅街へと続いている。すべて地続きとわかっているけれど、見える景色の多くが、ちっぽけに見えた。

 坂を上って来た末に辿り着いたそこは、町を一望することができる隠れ絶景スポットだったのだ。一応地元と言える範囲なのだが、こんな場所はまったく知らなかった。

「いいでしょ、ここ」

「うん、すごくいい……」

 自然と私はスマホを取り出して、写真を撮っていた。パシャリと音に合わせて、箱の中に絶景が収まる。しっかりピントを合わせて撮ったはずの写真は、なぜだか少し色あせて見える。

「ねえ、どうしてここに来たの?」

「どうして……? サチと一緒にどこか行きたかったから」

 スズカは自転車を止めて私に歩み寄り「自撮り!」と言って横に並び立ってきた。突然のことで戸惑うし、自撮りとかしたことがなかったのでさらに戸惑う。カメラのモードを切り替えて、スマホを掲げて。町をバックに、二人が映るようにくっついて。パシャリ。

 さっきの風景写真よりも、明らかに写真は下手だった。でも、この写真の方が、綺麗だ。スズカは変わらずはにかんでスマホを覗き込んでくる。彼女の顎から、汗がひとしずく零れ落ちる。この子には、夏が似合うんだ。また、疑問が顔を出す。

「なんで、私を連れていこうと思ったの?」

 スズカは眉をハの字にして小さくうなった。そして表情はそのままに、答えを打ち出した。

「一緒にパピコ食べたから、かなぁ」

 今考えて捻出しました、みたいな言いぐさだった。私には彼女の行動とかそれに付随する意味とか、なにもかもがわからなかった。強いて言えば、楽しそう。

「それが、二人乗りする理由になるの?」

「うーん。サチは楽しくなかった?」

「いや、楽しかったけど……」

「ほら、理由あるじゃん」

 虚を突かれたとは、こんな感じだろうか。彼女の言葉一つ一つが、私の胸に刺さっていく。

「サチは考えるの好き?」

「え、別に好きじゃないけど」

「なるほど。うーん……じゃあ、気になるんだ、なんでもかんでも。思想家ってやつ?」

 彼女がなにを言っているのか、考えているのか。目の前にいるだけでは理解できない。でも、気になる。だって彼女は。

「全部のことに、意味とか理由って必要なのかな? あたし、それをサチに聞きたい」

 彼女は、キラキラしてるんだ。私が持っていない──いや、昔に置いてきてしまった、キラキラを。簡単だけど簡単に表せないそのキラキラに、身を任せてるだけなんだ。

 私の持ってないそれが、彼女のどこから湧き出ているものなのか。知りたいと思った。だって、まだ、彼女の質問には答えられそうにないから。彼女の問いに答えるには、私の心は、固まりきれない液体のまま。

「ねえ、スズカ。もし嫌だったら嫌って言ってほしい。でも、一つだけ聞きたいんだ。いい?」

 彼女は答えてくれる。そんな気がした。自信たっぷりにスズカは首肯する。

「高校やめたのに、理由はあるの?」

「む、それはちゃんとあるよ。時間がね、もったいないと思ったんだ。義務教育ってやつは出なきゃだからしたけどさ、高校つまんないんだもん。だから、やめた」

 矛盾してる! って言いそうになったのを飲みこむ。理由なんてなくてもいいって言ってくれたのに──厳密には言ってないけど──高校やめたことには、かっちりした理由がある。

 彼女のキラキラが通るなら、私の学校やめたい理屈も通るのかなって思ったのに。でも、やっぱり、彼女は違うんだ。

「せっかく生きてるのに、したいことしないなんてもったいない。意味ないなって暗くなる必要なんかないじゃん」

「じゃあ、どうして私と遊んでるの?」

 声に出してから、自分の過ちに気付く。こんなこと、普通友達に言っちゃいけないことだ。スズカの表情にわずかな困惑の色が浮かぶ。嫌がったらどうしよう。彼女のこんな顔、見たくない。

 一瞬の沈黙が、何倍にも感じられた。彼女の口から飛び出す言葉が恐ろしい。

「あー、やっぱりサチは、ゴテゴテした理由が欲しいんだね。よし、あたしがちゃんと答えてあげるよ」

 そうい言う彼女は、したり顔だった。

 私の言い分なんて、彼女は気にしていない様子。それどころか、彼女の答えに、なにかを期待している私がいる。一体、なにを期待している?

「あたしの時間だし。あたしがしたいようにするの。サチは、あたしと居たくない? 楽しくなかった?」

「……楽しかった、けど」

「それでいいじゃん! 理由なんて楽しいからとかでいいんだよ! はーよかった。サチが楽しくなかったらどうしよ~って」

「……それでも、いいの?」

「誰がなにしたっていいじゃん! あたしの勝手。サチの勝手。楽しもう?」

 そう言って、スズカは自転車に乗りこみ、後ろの台を指さした。乗れと言っているのは明白。

 二人で坂を駆け降りたら、たぶん楽しくて、気持ちいいんだろうな。胸が弾むのが、なんの違和感もなく、ダイレクトに感じられた。

 とろけてしまいそうな熱さは、外気だけでなく私の胸の奥からも生まれ始めている。不意に、ふわりと吹いた風が、私の頭を冷やす。

 これなんだ。彼女がまとっているもの。私がいつかに置いてきてしまったもの。

「……後ろ、乗ってもいい?」

「もっちろん!」

 なんか楽しいでもいいんだ。理由がなくても、形にならなくても、それでいいんだ。キラキラに身を任せたっていいんだ。私は今、スズカの後ろに乗ってもいいんだ。

 乗り込む前に、今見た景色をもう一度目に焼き付ける。不思議だ。見える景色が、さっきより輝いて見えた。


 その夜。私は、自分のベッドで携帯のロック画面とにらめっこしていた。スズカと一緒に撮った自撮り写真が、壁紙として端末に収まっている画面と。

 今日の出来事が泡沫の夢でないと証明してくれるのが、この写真だ。あれからひとしきり二人乗りを楽しんで、私たちは別れた。アイスを買って帰るのは忘れた。

 不思議なことに、あのときのキラキラが、この写真には納まっている。見えるのだ。太陽の輝きとか、飛び散る汗の輝きとかではない。あのとき感じた衝動みたいな、言葉では言い表しづらいようななにかが、ここに詰まっているのだ。

 どんなことにも意味なんてなくて、日々はおおむね退屈。時々ノリに乗ることくらいはあるけれど、それだって退屈な日々をどうにかこなすだけの一手段としか思ってなかった。意味のないことに、意味なんてない。結局すべては無意味──みたいな無限ループ。

 でも、それは違ったんだ。

 このキラキラに、身を任せてもいいんだ。

 誰がなにしたっていい。スズカの勝手。私の勝手。

 その言葉を抱いて、眠りにつく。


 ◇


 したいことをしていいし、意味がなくたっていい。よくよく考えれば耳心地の良い言葉だし、そういうのはたいてい実行が難しいものだ。スズカはこなしてしまったけれど。

 だから、不可能ではないのだ。ただ、懸念すべき超巨大な材料が、私にはある。

「……私がしたいことって、なに?」

 七月に突入し、暦は夏へと移り変わっていた。クーラーをバッチリ効かせた室内で汚泥のごとくベッドに横たわりつつ、私は思考と戦っていた。

 やりたいことというのは、衝動とかそういった類のものだ。おそらく、考えて出てくるものとは少し違う。もし考えて出てきたとして、それは私が求めてるやつとちょっと違うものだ。

 卓球。その二文字が、パッと脳内に浮かび上がった。即座に違うと判断できた。

 サイクリング。しかし、スズカとやったアレは二人乗りで、やりすぎれば逮捕だ。

 考えてみても見つかりそうにないし、このままクーラーの中でとろけているのも人間としてダメな気がする。一人サイクリングでもしてみることにしよう。こうして、なにかに対し意欲的に動けるだけで一つ進化したと言えるのでは。

 軽快な音楽に合わせてペダルを回したいところだが、イヤホン装着サイクリングは二人乗り同様警察に怒られる違法行為だ。耳は開放的なまま、私は外に出た。ムワッ、という効果音が聞こえてきそうな熱気が襲い来る。クーラーの中に居たため、余計な熱を感じてしまっているっぽい。

 しばらく乗っていなかった自転車をひっぱり出し、ハンドルやサドルについた砂ぼこりを払ってから乗り込む。さて、どこへ行こうか。マンションは道路沿いで、行ける方向は左右のみ。こういうとき、人は左に行きたくなるというのをなにかで読んだ気がする。

「先輩、やっと見つけました」

 とりあえず左に行くか──と思った矢先、右方から声がした。この周辺に居るのは私だけで、たまに車が通る程度。声をかけられたのは、私以外には考えられず。

「……えーと、どちらさま?」

 ずいぶん可愛らしい女の子だった。身長は私よりやや低い程度で、髪はポニーテール。タンクトップゆえに露出している腕は引き締まっていて、スポーティな印象を受ける。

 彼女は、私の目をじっくりと見つめながら、言った。

「こう呼んだ方がいいですか? サチお姉ちゃん」

 瞬間、脳髄に電流が走った、みたいな衝撃が起こった気がして。永らく封されていた記憶が、蘇ろうとしている。卓球教室をやめる前、コーチに会いに行った夏の日。暑さと気分でけだるさに襲われながらの道中。コーチに別れを告げた後の去り際、彼女は言った──サチお姉ちゃん。

 あの日と同じ筋道を辿って、額をすべり落ちる冷や汗。

「……ナナセちゃん、なの?」

「そう言ってるじゃないですか。先輩、変わりましたね」

「な、ナナセちゃんこそ。大きくなったね」

「当たり前です。これでも成長期ですから」

 小笠原七瀬。私の記憶が正しければ、彼女は今中学二年生。記憶が映像となって脳裏をよぎると共に、ハンドルを手汗が濡らしていく。

「見つけた、って、私のこと探してたの?」

「そうですね。もし会えたら、くらいに思ってました。地元同じなのにぜんぜん会えなかったのに、先輩の家ここだったんですね」

 個人的に、ナナセちゃんはでかい家に住んでそうなイメージがある。マンションを見上げる彼女の目には、わずかなきらめきがたゆたうよう。スポーティな子ゆえ、太陽の光まで、彼女を美しく仕上げようとしている。

 なぜこの子は、私を探していたんだろう。

「先輩。今日、今から時間ありますか」

「うん、大丈夫だけど」

 と、気安く返事をしてしまったが。彼女が時間を求めてくる、それすなわち、これからの時間彼女と同じ時を過ごさねばならないことにほかならないのでは。

 ナナセちゃんは私の方へ視線を戻し、固い表情を崩さないまま、厳かに告げた。

「わたしと卓球、しませんか」

 小笠原七瀬と初めて会ったのは、小学六年時の卓球教室。あの時の彼女は彗星のごとくに現れた小学四年生で──私を真綿で絞めた女の子。

 つまるところ、卓球をやめた理由そのもの。


 自転車で十分、歩いて二十分ほどのところに、卓球教室がある。本当は自転車で行きたかったのだけど、ナナセちゃんが歩きだったのでそれに合わせて自転車は仕舞った。道中、会話はなかった。

 やや年季の入った建物で、私が生まれたころには外壁が汚れていた。私が通い始めたころには、補修工事が成されたっけ。電車から見かけることはあったけれど、こうして近くで見るのは久しぶりだった。

「どうしてやる気になってくれたんですか? 先輩、明らかに嫌そうな顔してたのに」

 変わらぬ固い顔から冷たい言葉が降りかかる。私の心境は見事に顔に出ていたらしい。なにか理由を取り繕ってもいいが、どうせ真実は顔が語る。ならば口で言っても変わるまい。

「……暇つぶし、かなあ」

 でも、それだけではない。もしかしたら、私は卓球をしたいかもしれない。これが私のやりたいことである可能性は捨てきれない。なら、試しにやってみよう。そう思ったのも一つある。

「……そうですか」

 そっぽを向いて、ナナセちゃんは卓球教室へと入っていった。私も続いて中に入る。

 まず目に飛び込んでくるのは、横並びに配された卓球台二つ。中の棚やフェンス、ポスターなんかは目新しいものが散見され、外装ほど中身は古ぼけていないのがわかる。全体的に窮屈な内装は、昔となんら変わっていないようだ。なぜだか、少し安心する。

 誰も人がいないのは、レッスン時間外だからだろうか。首を振る扇風機の音が、時々虫の羽音みたいで少しだけ耳障りだ。

「懐かしい。ナナセちゃん、今もここ通ってるの?」

「はい、学校の部活はあまりにもお遊戯なので。それに、ここのコーチはかなり凄い方で……って、先輩も知っているはずじゃ?」

「そうだね。でも昔は──」

 ナナセちゃんから、突如ラケットが突き出される。使え、ということか。

「フレアグリップのシェイクハンドで、弾速重視。ですよね」

 それは、私がかつて使っていたものに限りなく近いタイプのラケットだった。握ってみると、慣れ親しんだ過去の感覚と共に多くの情報が入り込んでくるような、そんな気がして。もう数年握っておらず、技術が追い付くかどうかが不安だが。

 ナナセちゃんは、ペンホルダー型を持っていた。記憶が正しければ、かつてはシェイクハンドを使っていた気がするが。というか、もう試合するのか。まだ着いたばかりだというのに。

 でも、彼女の気持ちも、わからなくもなかった。たぶん、卓球がしたくてたまらないのだ。

 勝負はてっとり早く三ゲーム先取。私がかつての感覚を取り戻すのに時間がかかりそうだが、かといって長くやってもスタミナがもたないことを懸念してのこの長さ。最初のサーブ権は私。

「五年ぶりです」

「……始めよっか」

 ギラリと光る彼女の目は、鋭利な意志を携えてまばたく。獲物を前にした狩人の目。彼女の本気度合いが透けて見えてしまい、固唾を飲んだ。それでも、やるだけやろう。

 ボールを上げ、切りつけるようにラケットを振り抜く。ラバーを走ったボールが回転と共に机上へ──跳躍。成功だ。ボールは低い軌道を描いてネットを越え、卓球特有の速さを有して相手の返球を拒む。五年のブランクを打ち破るフォアサーブ。

 ナナセちゃんの目がやや見開くと共に、すばやく後方に下がる。そして、私のサーブは鮮やかに返された。球は左方、やや打ちづらい方向へ。流石だ、ずっとやっているだけある。バックハンドで打ち返す。

 瞬間、空気中を駆け抜ける電流。否、これはプレッシャーだ。私が返したボールに対し、ナナセちゃんは既に構えている。右、いや左。

 弾丸のごとき一条が、私のすぐそばを駆け抜けた。追って、床を跳ねるボールが跳ねる軽快な音が連続する。

「一点、 いただきました」

 正直、もう負けを認めたいレベルだった。サーブが上手くいったからといって勝てる相手でないとわかっていたのに。調子に乗ってしまったのだ。

「先輩、楽しみましょうよ。顔、怖いです」

 そう言うナナセちゃんは、狩人の顔をしておらず。楽し気に、笑っていた。なんと言うべきか、ボールも拾わずに考えあぐねていた。その時。

「たのもー!」

 耳心地のよい声音が、卓球教室に飛びこんできた。

 夏が似合う少女。会うのは六月以来で、前と少しも変わらない雰囲気をまとって、彼女はやって来た。

「スズカ……」

「サチが入ってくの見たの。外から見てたんだけど、暑くてさ……中も変わんないけど」

 なんという偶然か。久しぶりの再会が、卓球教室になるとは。会いたいとは思っていたが、少し予想外が過ぎた。それに、卓球をしている姿は、あまり見せたくない。

「先輩、この方は」

「あたしは涼風涼風。サチの友達!」

 友達。その一言が、地味に心に刺さる。そうか、私は既に、スズカの友達なのだ。

「わたしは小笠原七瀬。先輩の、先輩の……」

 言いあぐねたナナセちゃんが、ふとこちらの方を向く。純粋さをたたえた、彼女本来の目が私を見据えている。その瞳に、私はどう映っているのだろう。

「ねえ先輩。先輩にとって、わたしはなんなんでしょうか」

 面白い答えを期待してますよ、と目が訴えかけてくる。きょとんとしたスズカも、私の方を見つめている。なんだ、なんだこの状況は。洒落た言葉で場を湧かすような能力は、生まれてこのかた鍛えてこなかったぞ。

 でも、不意に浮かんだ言葉が一つ。それに──スズカに、いいところ見せるチャンスかも。

「ら……ライバル、とか」

 言ってから、ちょっぴり頬が熱い。スズカは未だきょとんとし続けたまま。ナナセちゃんに至っては、頬を震わせて我慢していたようだが、たちまち笑い始めた。

「あははっ! いいですねぇライバル。そっか、わたしライバルなんだ」

「あ、煽ってるとかじゃないよ? えーとなんというか言葉のアヤというか」

「いいんです先輩。わたし、嬉しいですよ。先輩のライバル」

 たしかにナナセちゃんは笑っており、なんだか満足気。これは結果オーライということではなかろうか。私のユーモアも捨てたものではないらしい。まあ、半分本気で言ったのだけれど。

「サチ、卓球やるんだ! 見てもいい?」

 そう言いながら、スズカはボールを拾ってくれた。手渡されるときに近くで見ると、前より肌が焼けた気がする。それでもみずみずしさを有する彼女は、やっぱり夏っぽい。

「うん。見てて」

 卓球でいいところ見せられるとは思わないけれど、ボロ負けする姿を見せるのは忍びない。

「先輩、やる気出ました?」

「……ちょっとだけ、ね」

「よかった」

 ナナセちゃんは小さく舌なめずりをして、目をギラつかせた。ヤバイ、狩られる。



 カッコつけたいなと頑張った程度でいい感じになれるのは、漫画やアニメの中ですら稀有なこと。それすなわち、現実になったらもっとキツイことなのは明白。

「はぁ、はぁっ……ナナセちゃん、つっよ」

 少しづつ卓球の血が戻りつつある中、左右にぴょんぴょん動き回ってボールに食らいつく。彼女のボールさばきは私をとにかく動かしまくるため、息が切れて仕方がない。その上、クーラーがついていないため中は蒸し暑く、じんわりと汗ばんできた。飲み物欲しい。

 彼女の動きのクセなんかは少しづつ見えて来たけれど、それが結果に起因するかといえば、答えは否。スズカによってぺらりとめくられた得点版には「9-0」と記されている。ちなみにこれは二ゲーム目で、一ゲーム目は私が「11-0」で負けた。

「まあ、現役のわたしとしちゃ、負けらんないですよ」

 そう言うナナセちゃん、はにかむ笑顔がキラリとまばゆい。絶賛疲労困憊の私と比べても、余裕しゃくしゃくだ。

「ナナセ、卓球上手いんだねえ」

 ここまで私たちの試合を見つめて来たスズカが、ぽろりと漏らした。そりゃ、ほぼ一部始終を観測して出る純粋な感想といえば、それ以外ないだろう。

 言われたナナセちゃんは、スズカの方を一瞥し、再度私に視線を戻す。そして、中学生とは思えない妖艶な笑みを浮かべてみせた。試合の熱で上気したであろう顔の赤らみが、より色気を醸し出す。強くてかわいいなんてズルい。

「サチも頑張れ!」

「ウグッ」

 付け足された言葉が胸の奥、わりと深いところにぶっ刺さる。彼女にいいとこ見せるぞと奮起した私が、こうして慰めのごとく応援されている。スズカからの激励とはいえ、バカ正直に喜べる私ではなかった。

「スズカ。私、頑張るから」

「……? うん」

「だからさ、見てて」

 もう見てるけど、と言いたげな表情で首を傾げるスズカ。堂々と私にご注目宣言をしてしまったので、もう逃げられない。ここでなにか決めないと。

「先輩。肩に力、入りすぎです」

 サーブ権はナナセちゃんにある。彼女の言葉に惑わされるな。とにかく、やれる限りやるしかない。

 ナナセちゃんの構え。一瞬の静謐が、じわりと熱気を強く感じさせる。そして、上がるボール、平行に差し込まれるラケット──無回転のボールが撃ち出される。まさかのナックルサーブ。

 相手のコートで跳ねたボールは、すぐさまこちらへ向かい来る。ナックルとわかれば打つのは比較的容易い。とにかく堅実に、相手が派手な手に出られないよう、低めに返してラリーに移行。空中を駆けるボール。跳ねた瞬間の挙動をしかと見つめ、対応を重ねる。

 長丁場になれば私が不利。ラリーが始まったところで、素早く仕掛ける。ここまで見て来た限りナナセちゃんは、私から見て右方奥への対応が弱い。対策はしているようだが、弱点として機能し続けている。実力者たる彼女には考えられないミスだが、私相手ゆえ油断したのだろう。そうとしか考えられない。

 続くラリー、徐々にスピードが速まる。その時、なんとか考えて対応できそうな返球──右方奥に入るよう祈って、強めのバックハンド。

 見事狙ったコースをボールが駆けると同時、ナナセちゃんは後方へ跳ぶ。しかし、私の球の方が速い。一瞬のもたつきが、高速の最中に見え隠れする。それは結果となって、私の方へ。  

 彼女の返球、やや高めのボールがふわりと浮かび上がる。十二分に速さはあるものの、ナナセちゃんの平常時と比べれば一目瞭然。

 一か八か──振り抜く。もう感覚も忘れてしまった渾身のスマッシュ。ボールとラケットが触れた瞬間、身体を刹那に駆け抜ける電流を感じた。この快感は、知っている。味わった後には、超速で駆けたボールが相手コートめがけて一直線に降りゆく光景。誰も追いつけない速さで、ボールはテーブル上から消えゆく運命。

 獲った。一点。

「……っしゃ!」

 思わずガッツポーズ。額からこぼれた汗が床にしたたり落ちた。もう昔に置いて来た歓喜が、今ここに帰って来た。そうだ、私はこの喜びを求めて卓球をしていたんだ。

「サチすっごーい!」

 突如、スズカが私めがけて突貫。そのままガバリと抱き着いて来た。得点版は変わっていない。というか顔が近い。ナナセちゃんは、ボールを拾いに行っていて顔が見えない。卓球の熱かスズカの熱か、どんどん顔が熱くなってきた。

「す、スズカ。ちょ、恥ずかしいし。私汗くさいよ!」

「くさくない! むしろいい匂いだし! ナナセあんなに卓球上手いのに、スズカすごいよ」

「いや、たった一点だし、マグレ? みたいな」

「先輩、素直に喜んだらどうですか? さっきまでガッツポーズキメてたじゃないですか」

 ボールを手にしたナナセちゃんは、既にコート前へ。私たちを──否、私を見据えて、こちらの準備を待っていた。その目には、炎が宿ったかのごとき情が満ち満ちている。

「これでも、結構強いんですよ? そんなわたしから一点取ったんです、喜んでください、おおいに」

「……そういうこと言われちゃうと、あんまし喜べないな」

 なんだか燃えて来た。心の中に、欲が生まれ始めている。彼女と、もう少し戦いたい。点を取ってみたい。ついでに、スズカにかっこいいとこ見せたい。

 そういえば、ナナセちゃんはなぜ卓球に誘ったのだろう。なしくずし的にここへ来たため、聞きそびれていた。今ここで、問うておくべきか。

「ナナセちゃん、なんで」

「始めましょう」

 ラケットを構えたナナセちゃんの瞳に灯る意志。彼女から放たれる闘気が、試合の再会を知らせるゴングとなる。マズい、私も構えないと。質問は、試合が一区切りついてからだ。サーブの直前、スズカの方を見やる。彼女の瞳は、期待の色をたたえてこちらを見つめていた。

 ──よし、やってやる!

 その後、私はものすごい勢いで失点して負けた。



「ナナセは卓球どのくらいやってるの?」

「そうですね……もう五年以上です。スズカさん、もしよろしければやってみますか」

「いいの? よーし、やっちゃる!」

 負けた。それだけならまだいい。スズカまで取られてしまった。私はといえば、壁によりかかってへたりこむだけの石像と化している。悲しい。

 二人は楽し気にラリーを交わし始める。ナナセちゃんが軽く手加減をしているのは明白だ。対するスズカは、めちゃくちゃ楽しそう。ラケットを振るう所作は乱雑だが、球は返せている。ナナセちゃんが返しやすい方向へ打っているのもあるだろう。うーん、本当に楽しそう。

「あはは! ナナセ、あたし出来てる?」

「ええ、いい感じです。どこかで経験が?」

「中学の授業!」

 そりゃ誰でもやっとるわいな。そんな折、ナナセちゃんの視線がふとこちらに向く。ラリーを続けながら、視線はしかと私に一直線。

「先輩、混ざりたそうにしてますね」

「え、そんな顔してた?」

 ナナセちゃんの打ったボールがコートで跳ね、スズカはそれを返せなかった。私の方へ弧を描いて飛んできたその球。ナナセちゃんの方めがけて高く打ち上げると、彼女はそれをキャッチ。

「先輩、わたしとダブルス、組んでくれませんか」

 返って来たのは、緩いボールでも速いボールでもなく、わけのわからない文言だった。

「そのために、先輩を探してたんです」

 ナナセちゃんはスマホを手に取り、なにかを操作。こちらへ歩み寄って来て、画面を見せて来た。表示されていたのは、卓球の戦績表。優勝者の欄に、小笠原七瀬とあった。試合中の写真も載っている。

「先輩、わたしのことなんにも知らないですよね、たぶん。これでも結構強いんです。結果も残してるんです」

 彼女の実力は十二分にわかっている。試合をし、この身体で体感したのだから当然だ。なぜ私の勧誘につながるのか。スズカも、突然の状況に?マークを浮かべて呆然としている。五年も卓球から離れていた私を、なぜ?

「わたし、どうしても──」

「ごめん」

 考えるより先に、口から出ていた。

 この子は、私を卓球から追いやった張本人だ。彼女にその自覚はないかもしれないが、私からすれば歴史上の人物みたいなもの。例えるなら、C級戦犯くらいの存在なのだ。その子の隣に並んでダブルス。天地がひっくりかえっても成し得ない事象ではなかろうか。

 ラケットを置いて、立ち上がった。そして、ひったくるみたいにスズカの手を取っていた。

「スズカ、行こう」

 この場に居るのが耐えられなくなって。スズカの「わわ、ちょっ」みたいな声を聞きながら、私は卓球教室を出るべく歩き出す。

「先輩! わたし、先輩が──」

 扉を開けると、襲い来る炎天下の外気。汗ばんだ体に染み入るような熱が気持ち悪い。音が立たないように優しく扉は閉めて、二人その場を離れた。彼女の声は、最後まで聞こえなかった。追って来ることも、なかった。

「ごめん、スズカ」

 強引に連れだって来てしまった。彼女は、まだ卓球をしていたかったかもしれない。スズカのキラキラを邪魔してしまったかと思うと、自分勝手さに泣けてきた。

「サチ、卓球好きなんだね」

「えっ」

「やってる時、すっごい楽しそうだった! まあ、なんか色々あるみたいだけど?」

 流石のスズカも、眉をハの字にしている。しかし彼女の言葉は、どこまでも純粋で、適格。

 私にとって、今日の卓球は楽しいことだったんだ。でも、ダブルスなんて言われたってわからない。今から教室に戻るのもなんとなく面映ゆくて。

「スズカ……私どうすればよかったの~!」

「ええ、わかんないよ……サチのしたいようにしなよ~」

 なんだか不明瞭なままナナセちゃんもスズカも困らせてばかりだ。じわりと涙が込み上げてきて、流すのは嫌だったから袖でぬぐい取った。



 部屋の押し入れに潜り込むみたいにして中身を探ると、単行本サイズのポーチが姿を現す。かつては澄んだ青色だったけれど、月日の経過で色あせてしまったよう。ジッパーも、心なしか開けづらくなっている気がした。

 わずかな苦闘の末に開いたポーチの中には、卓球ラケットが収まっている。五年前いつも握っていた、私の半身みたいに──それは少し言いすぎか。とはいえ、大切にしていた物に変わりはない。

 まさか、こんなタイミングで私の人生に卓球が舞い戻って来るなんて。それも、ナナセちゃんを連れだって来てしまった。避けられたかもしれない。でも、向き合ってしまった。私のしたいこと、もしかして、これなのか? あれから、卓球教室には戻れなかった。

 そのとき、携帯が震えた。なにかと思って見てみると、今日ラインを交換したスズカから写真が送られてきていた。開いてみると、卓球をしている私だった。

「……キラキラしとる」

 まばゆい笑顔で、ラケットを振り抜いていた。

 これが、私。たしかに、卓球してるときは表情のことなんて考えていなかったが。こんなにも、人はキラキラになれるのだろうか。それとも、写真というものにはなにかこう、キラキラを増幅させる力でもあるのかも。追って、スズカのメッセージが添えられた。

『今度卓球しようね』

 スズカとするなら大歓迎──と言いたいが、それでは、私がナナセちゃんのことを嫌いみたいだ。好きか嫌いかで言えばたしかに嫌い寄りのはずなのだが……とりあえずスズカには『やりたい!』と返しておいた。

 そもそも、彼女と私がダブルスを組むという提案が謎すぎるのだ。突拍子がなさすぎる展開で、私自身どう判断してよいものか。それに、彼女は実力者だ。ナナセちゃんの戦績を調べれば一目瞭然。先刻見せてもらったもの以外にも、彼女はいくつかタイトルを取っている。

 ふと、戦績と合わせて掲載されていた彼女の写真が気になった。真剣に卓球に取り組んでいるだけ。そのはずなのだが、拭いきれない違和感がどこかにある。

「……あっ、ラケット」

 公式試合の写真で彼女が使うラケットは、シェイクハンドだった。写真は半年以内のもの。ナナセちゃんは昔もシェイクハンドを使っていた。この短期間で変わるなんて、流石に考え難い。彼女の平常運転がシェイクハンドだったなら、私程度が気付ける露骨な弱点にも頷ける。

 ナナセちゃんは、わざと慣れないやり方で、私に挑んできた。では、なんのために?

「わ、わからん……わかんないよ、ナナセちゃん……」

 考えたところで、結論を出せるのはナナセちゃんだけ。次会う時があったら、その時聞くしかないだろう。まあ、会えるかはわからないけれど。とりあえず、この話題は頭からシャットアウトだ。戦績のページもブラウザごと閉じた。

 ホーム画面では、変わらず私とスズカの自撮りがまばゆい光を放っている。スズカが私を映した写真にも、楽し気な輝きがまたたいていた。卓球をしているとき、私は確かに夢中になっていて──確かに、楽しかった。

 試しにスマホのカメラを起動し、窓の外、てきとうな景色をパシャリ。夕暮れどきの町中が四角く切り取られた画像が、ギャラリーに保存される。確認してみると、無機質な景色がそこにあるだけだった。明度を変えたりしても、それは変わらない。

 不思議だった。スズカや私が写真でまとうそれらは、オリジナルのヘタクソな写真からでも飛び出しそうなくらい主張してくる。ブラウザを起動して、ナナセちゃんの写真をもう一度見る。楽しそうに卓球をする彼女は、よく見ると、まばゆい輝きを放っているように見えた。

 もしかして、このキラキラは、写真に映せばいつでも見られるものなのか?

 少なくとも私は、これを眺めているのが嫌いではない──というか、むしろ好ましく思えた。だからこそ、スズカとの写真をホーム画面に設定しているわけで。

 試しに、自撮りをしてみる。しかし、いたって普通のマイフェイスは輝きなど皆無。どうやら、自分を使って試すのは無理っぽい。

 ラインを使って、スズカに『いつ会える?』と聞いてみた。すると『自転車旅行行くから当分会えなさそう』と来て、丸い顔が手を合わせてゴメン! と言ってるスタンプが続く。やっぱり、学校に通ってる身では、スズカの勢いに追いつくのは難しそうだ。

 そして『どうして?』と、最後に送られてきた。

 どうして。それは、スズカの写真を撮りたいから。あなたのキラキラを、写真に収めてみたいから。なんて、ちょっと気持ち悪い気がするので言い訳を考えねば。

「……あっ、私の、したいこと……」

 降って湧いたみたいな思考が、弾けるみたいな驚きを心中に生み出していく。ずっと探していたこと、もしかして、これなのか?

 でも、町の写真を撮っても、感じ入ることは特になかった。じゃあ、写真は違うのか?

『それでいいじゃん! 理由なんて楽しいからとかでいいんだよ!』

 スズカの言葉を思い出す。理由なんて楽しいからとかでいいし、別になくたっていいんだ。私は、したいと思ったからやってみる。それでいいんだ。

 スズカへの返事は『したいこと、見つかった』と返した。ちょっと独りよがりな言い方になっちゃっただろうか。しかし、返事は『旅行やめる』『あたしにできることある?』だった。なんということだ。スズカは聖女なのでは。しかし、ここで写真撮らせてと言っていいものか。

 考えた末、結論はわりとすぐ出た。

『私を自転車の後ろに乗せてほしい。スズカと一緒に、色んなところに行きたい』

 彼女と一緒に居ると、世界が開けてくる気がするのだ。夏が似合う、可憐さがまぶしい彼女。

 正直言うと、私はすっかり彼女に夢中で。彼女がまとうキラキラの残滓を追っかけて回りたい、ついでに写真に収めて回りたいとさえ、想っているのだった。


 ◇


 夏休み前、最後の登校日が来た。

 やるせない気分を携え、教科書も入ってないカバンを肩にかけ、いってきます。この日、私は一つの「夏休みデビュー」というやつを敢行すべく、あるものをカバンに入れて登校しているのだが──

「先輩、おはようございます。お久しぶりです」

 家を出ると、ナナセちゃんが待機していた。朝とはいえ、蒸し暑いことに変わりはないこの陽気の中。木陰にぽつんと立って、ずっと私を待っていたらしいのだ。あまりに突然すぎて、私たちは目を合わせて十秒くらい硬直していた。

「えーと……何用かな」

 前の卓球の時以来、彼女とは一度も顔を合わせていない。会ってみようかなと勇気を振り絞って動いたことはあったのだが、卓球教室等々でも会うことは叶わなかったのだ。

「返事を、貰いに」

 彼女が貰いたい返事といえば、一つしかないだろう。しかし、彼女の問いに対しては、一つこちらからも問いを立てないと気が済まない。卓球を続けていた過去の私のためにも、今の私のためにも。

「なんで、私なの?」

 ナナセちゃんは、卓球界に現れた風雲児的な存在だ。シングルスで高い成績を誇って来た彼女が、志半ばで卓球から逃げた女に手を差し伸べる。美談とすれば聞こえはいいけれど、どんな美談にも理屈は存在する。せねばならない。

「それを言ったら、わたしのお願い、飲んでくれますか」

「……ごめん、約束は出来ない。だって、私に、ナナセちゃんのパートナーになる資格なんてないと思ってるから」

「……そんなこと言わないでくださいよ。先輩は、わたしから一点もぎ取ったじゃないですか」

「慣れないペンホルダーを使ったあなたから、ね」

 事実を告げた、途端。ナナセちゃんは目を丸くし、所在なさげに俯いてしまう。後ろめたい気持ちがある、と見ていいのだろうか。少なくとも、なにか思うところはある様子。

「……ナナセちゃんのほんとの気持ちを聞きたいだけなんだ。そうじゃないと、私だって、なにも言えない」

「先輩とわたしが初めて卓球したの、いつだか知ってますか?」

「え? 小学六年生のとき」

「いいえ、違います。先輩が三年生のとき、わたしが一年生のとき。卓球教室で」

 掘り出される衝撃の過去──というリアクションを取ることは、残念ながらできない。なぜなら、一年生のナナセちゃんのことなど、微塵も記憶にないからだ。この年になると小三の記憶も曖昧だけれど、これだけは言える。こんな印象強い子は、卓球教室にはいなかった。

「知らないって顔してますね。そのときは体験レッスンで行ったんです。一通りやって、筋があるって言われました。そして……小さい子にもまったく容赦ない先輩に、ボコボコにされました」

 過去の私を通して、今の自分に後悔の矢が突き刺さる。楽しかったのはわかるが、手加減をしてあげてほしい。

「それで、卓球教室には通わなかったの? それとも、レッスン日が違ったとか」

「わたしの家、昔はお金なくて。四年生まで通わせてもらえませんでした」

 聞いてはいけないこと──地雷を踏んだのではなかろうか。たじろぐ私をよそに、ナナセちゃんは訥々と語り続ける。

「おもちゃのラケット買って練習して。あの山坂っていうお姉ちゃんに追いつきたいって。だって卓球してる先輩、わたしをボコボコに叩きのめしながら、すごい輝いてたから。ひどいお姉ちゃんだなって思うより、楽しそうだな、素敵だなって想いの方が強かったから」

 すごい輝いてた。それはもしや、キラキラのことか。過去の私が、それをまとっていた。それがナナセちゃんに伝播して、彼女は卓球の世界の門を叩いたというのか。

「ねえ先輩、どうして逃げちゃったんですか? わたし、先輩と卓球するために始めたのに。やっと追いついたって思ったら、いなくなっちゃって」

 語る彼女の瞳に、感情を乗せた液体が溢れて来て、零れ落ちた。一歩一歩、ナナセちゃんはこちらへ。日向に出て来た途端、涙の粒は太陽光に当てられてまたたく。綺麗だ。彼女をこんな風にしてしまったのは、私だ。

 もし。もし、スズカが私の前から、私を置いていなくなってしまったら。それと同じことを、無意識のうち、ナナセちゃんにしていたのだ。子供心は残酷だ。でも、こんなことになるなんて、誰も思わないじゃないか。

「先輩がいなかったら、今のわたしは居ないんです。卓球もしてません。わがままだってわかってる。でも、先輩と、サチお姉ちゃんと、したい」

 私にとって、彼女は青天の霹靂だったんだ。でも、それだけじゃなかった。勝手なイメージを植え付けて、独りよがりに恐れてただけ。こんなにまっすぐで、こんなにも不器用なこの子を。私がこぼしたキラキラの残滓を、ひたむきに追っかけて来てくれたこの子を。

 震えて涙を流すナナセちゃんを、いつのまにか、抱きしめていた。

 でも、かける言葉が見つからなかった。私なんかに彼女のパートナーが務まるなんて思わない。でも、私の卓球は、小笠原七瀬を作り上げてしまったみたいで。たぶん、その責任を取らなくちゃいけなくて。その時、ふと気づいた。

「……私の卓球にも、意味はあったんだ」

 意味なんてなくていいし、卓球は一時の楽しい過去。そう思っていたけど、そんなことはなかった。私の卓球には、この子を泣かせるほどの意味があったんだ。そう思うと、過去の私が、救われたよう。でもそのままだと、独りよがりの救いだ。

 とりあえず、彼女が泣き止むまではこうしていよう。その間に、返事を考えよう。

 じんわりと濡れていく制服の肩。密着して共有される体温は、日差しに当てられてじわじわと熱を増していく。心地よいあたたかさでは、ない気がして。


「で、返事は」

 すっかり泣き止んだ彼女は、両手を腰に当てて強気な姿勢。無責任なことを言えない状況が形作られていく。だがもとより、てきとうなことを言うつもりはない。

「……ごめん、もう卓球はやめちゃったから。でも、卓球は続けたい。趣味の範囲になっちゃうかもだけど……いいかな」

 返事は、すぐには返ってこなかった。当然だ。自分でも、この返事は酷いことだと思う。

「……でも。ナナセちゃんがもしも──」

 ナナセちゃんが強く望むなら、私はどんな地獄の特訓にでも耐えて、強くなるつもりだった。

 こちらの言葉に被せて、ナナセちゃんは強く、強く主張した。泣きはらした目のまわりが、赤く腫れていた。

「いつか、わたしと対等に渡りあえる選手になってくれるなら!」 

「…………がんばるよ、私」

 浮かんだ表情は、苦笑いなのか、彼女なりの笑顔なのか。

「ズルイです、先輩は」 

「そう、だよね」

 なんて優しい子なんだろう。こんなわがままを認めてくれた。こんな子のことを、嫌いになっていいわけがないじゃないか。ちゃんと伝えなきゃいけない。私、ナナセちゃんのこと──

「じゃあ、またどこかで」

 そう言い残して去る彼女の笑顔は、夏に似合う爽やかさで、輝いていた。



 駅につくと、偶然にもスズカと遭遇した。

「あ、サチ。おはよー。これから学校?」

「うん。スズカは、それは……」

 今日のスズカは黒い大きめのバッグを担いでいて、なにやら大変そうだ。中身はなんなのだろう。並大抵の物でないことはわかるけれど。通勤や通学の人がちらほら見られるこの時間帯、彼女の姿は少し浮いていた。

「これはねえ、分解した自転車。輪行行くんだ。電車移動して、自転車組み直して、サイクリングするってやつ! 地元はだいたい走っちゃったからさ」

 流石はスズカ。こんな朝っぱらから行動力に溢れている。しかし、彼女にとってそれは、当たり前のことに違いない。だってそれは、スズカのやりたいことなのだから。

「サチ、夏休みっていつから?」

「明日からだよ。スズカは年中休み?」

「ふふん、今度からバイト始めるんだ。あたしもニート卒業だよ」

 二人でおしゃべりしつつ駅を歩き、改札を通って階段を上る。私は学校方面なので上り方面だが──

「じゃ、ここでお別れだ。サチ、またね」

 彼女は、下り方面のどこかへ行ってしまうようだ。今日もスズカは、何ごとにも縛られることなく、気の向くままにどこかへ行ってしまう。私では、到底追いつけない時間の流れを生きているのだ。

 重そうな自転車ケースを担いだスズカの背中が、下り方面ホームに続く階段に消えてゆく。このまま彼女を見送った私は、いつものように学校に行って、無為に時間を浪費してから自分の時間に入っていく。

 そんな速さでいて、私はいつ、スズカに追いつけるのか。ナナセちゃんにだって、追いつけそうにない──いや、ずっと前に追い越されていたのに。

 彼女の長い髪が揺れ踊るたびにはらりと舞い落ちる、キラキラの残滓。それを追いかけて写真を撮るなんて、ただのストーカーと変わらない。だからなんだというのか。

 学校ちょっとくらいサボったってなにも変わらない。私なんか世界地図のちっぽけな点だ。点がなにかしたところで、でかい学校が揺らぐわけがない。

 そんなことより変えなきゃいけないのは、ちっぽけな私の方じゃないのか。

 下り方面行きの各駅停車が止まった。私は未だ、階段で立ち尽くしたまま。どうする?

 いつもと違う重さのカバンが、私の背中を押した。

 日本の電車は時間に厳しいので、何分も待ってくれない。階段を一段飛ばしで降りようとして、足がもつれかけたので駆け足に変更。聞きなれた発車メロディが鳴り始める。シャララランという音色が今だけは恨めしい。いつも降りない下り方面の階段は少し長く見える。降りて来た人たちの目が私に向く。扉が近づく。プシッと音がする。電車に踏み込む。後ろで、バタン、とドアが閉まった。

「駆け込み乗車はおやめください」

 そのアナウンスを聞いた瞬間、自分が乗車できたことを初めて実感した。

 周囲の目が一斉に私へ向く。通学時間帯なのに、私と同じ制服の人がまったくいないのは新鮮な光景だった。そして、各駅停車が比較的空いていたことで、目的の人物はすぐに見つけることができた。

「サチ……学校は?」

 ドア横によりかかっていたスズカは、ぽかんとして驚きの様子。この子でも、こんな反応することあるんだ。ちょっと写真撮りたかったかも。

「来たいと思ったから、来ちゃった」

 そう言うと、にっこり笑って、彼女は受け入れてくれる。やっぱりスズカはスズカだ。

 私の目は、彼女の足元に置かれた自転車に向いていた。最初に会ったとき以来、二人乗りはしていない。学校をサボってする二人乗りは、もしかしなくてもかなり気持ちいいのではなかろうか。美味しいものを前にしたわけでもなしに、口の中でよだれがたっぷり。衝動と一緒にゴクリと飲み込む。

「……サチ、乗りたい?」

「あ、バレてた」

 すると、スズカは周りをちらちらと見まわした後、私にグッと顔を寄せて来た。近い──と思うのも束の間。彼女は耳元に顔を寄せる。どうやら、耳打ちらしい。

「ごめんね。今日クロスバイクだから、二人乗りはできないよ」

 クロスバイク。なにかで聞いたことがある名前だ。たぶんママチャリとは違う形をしていて、走ることに特化している感じのヤツ。

 風のように颯爽と過ぎ去っていくスズカの姿は、きっと、夏に吹く冷風みたいに素敵なことだろう。二人乗りができないのは残念だけど、それは私のエゴでしかない。

「……いいよ。私は、私のしたいように、するから」

 カバンを開けて、中にあるケースも開けて、取り出す。やや手に余るサイズの黒い四角形。真ん中から円筒が突き出て、はいチーズ、なんて言葉が似合うそれは。

「あ、カメラ! 買ったんだ」

「意外と安かったよ。なけなしのお小遣いは、なくなっちゃったけど……」

 この日に至るまで、何度かスズカと夏の日々を遊び歩いた。外を行くことが多かったけれど、たまにゲームセンターとかにも行ってみたり。そして、色んなスズカを見て、写真に収めてみた。そして、スズカ以外にも、色んな写真を撮ってみた。風景とか、物とか、自分の部屋とか。

 スマホについてるカメラというのはかなり高性能らしく、私の技術が上がって来ると、いい感じに撮れるようになってくる。ネットで調べて、エモい写真の撮り方とか、インスタ映えみたいなことも調べたりして。それは、意外と──というか、かなり楽しかった。その次の日、家電量販店にスズカとカメラを見に行った。

 でも、撮ってきた写真を振り返ると、その全てにきらめきがあるわけじゃない。でも、キラキラは確実にあった。それっぽい写真たちを並べて共通点を探る。答えは、簡単だった。

 撮る私。撮る対象。どちらもいい感じになったその時、キラキラは生まれるのだ。そこに写真の技術は、まったく関係なかったのだ。

 とはいえ、写真が楽しいことに変わりはないので、カメラは買った。

「記念すべき一枚目は、スズカの写真を撮りたいな」

「電車で撮ったら盗撮って言われるよ?」

「……ふふっ。そうだね。降りてからにしよっか」

 いつもの朝と違う景色が、窓の外に流れている。サボりってもっとモヤモヤするものだと想っていたけれど、そんなことはなかった。

 私たち、たぶん、きらめいてる。自分で言うのも、ちょっと恥ずかしいけれど。


 ◇


 カメラ内の写真データをパソコンで表示すると、ズラリと風景の写真が並ぶ。ゴシック建築の建物や、大きな聖堂。そして、ナナセちゃんが風景と一緒の写真。わたし、スズカ、ナナセちゃんの三人が並んだ写真。

 これは、ドイツのマクデブルクに居るときの写真だ。ナナセちゃんが卓球の世界大会に出るということで、私は日本から、世界旅行中のスズカはモロッコから駆け付けた。その大会でナナセちゃんは優勝し、世界チャンプになってしまった。

 私が写真を始めてから五年ほど。いつのまにか大学生になっていた。

 スズカみたいになににも従事せず、人生を玉乗りみたいに生きるのは無理だと思った。だから高校は出たし、大学はてきとうな所にAOで入学。しかし、自分の興味があること以外はとことんやる気になれない。単位は毎学期落としているし、留年は一度経験した。

 日々を重ねるごとに、大切な写真は増えすぎる。スマホのロック画面やパソコンの壁紙には収まりきらなくなった。私の周囲には自然、フォトスタンドやコルクボードが増えている。

 例えばコルクボードの──韓国で撮った景色や、スズカの写真たち。

 大学生になってすぐのころ。第二外国語で韓国語をやっていた私の元に、スズカから「いま韓国!」と連絡が来た。彼女は現在、広い世界をその目で見るべく世界を周遊しているフリーター、もといバックパッカー。私の大学入学と同じころ、海外によく飛び立つようになった。

 韓国なら近いしちょっと言葉も喋れる。私は勇気を振り絞って韓国に飛び、言語に四苦八苦しながらもスズカと再会。バシバシ写真撮りつつ旅行を楽しんだ。その反動で単位はいくつか落とした。

 横のフォトスタンドには、と視線を動かした矢先。私の携帯が震えはじめた。どうやら、世界チャンプから電話が来たらしい。

「もしもし、ナナセちゃ──」

『先輩、卓球しましょう』

 再会して五年、出会ってから十年。ナナセちゃんは、もう手の届かないような高みに辿り着いてしまった。それでも、私に手を差し伸べ、それどころか強く引っ張り上げようとしてくる。

「もう帰国してるんだよね? 今どこにいるの?」

『いつものところです。早く来てください』

 ナナセちゃんは、卓球で世界チャンプになった。それ以上彼女について語ることはない。逆に、それこそが彼女だ。なにか付け加えるなら、超がつくほどの美少女なので、ニュースなんかにも取り上げられる有名人。大学には、行かないつもりだとか。

『先輩、ちゃんと練習してました?』

「うん、一応、人並み以上にはしてる、つもり……」

 暇を見つけて、私は社会人卓球サークルで卓球を続けている。大学の卓球サークルに入ろうかとも思ったけれど、雰囲気がウェイだったのでパスした。実力は、小学生期ほどではないにしても、ぐんぐん成長しているつもり。

『楽しみです、先輩と──サチ! あたしと一緒にチャンピオン倒そうね!』

「え、スズカ! スズカだよね、本当にスズカ? アメリカ行くんじゃなかったの?」

『ナナセと一緒に帰ってきたの。久々に日本! と思ってさ。ナナセに代わるね~』

 まさか、スズカまでいるとは。こうしちゃいられない。いつもの場所とは、あの卓球教室のことだろう。世界チャンプを輩出したことで有名になったあの卓球教室だが、ナナセちゃんの一声あればすぐ貸し切りになる。

『と、いうわけで。来たくなったでしょう?』

「なにその餌付けみたいな言い方」

『今スズカさんと二人きりで卓球の練習してます。スズカさん本当に筋がいいから、わたしがしっかり教え込んだら先輩抜かされちゃいますよ?』

「わー、わかった、すぐ行くから!」

 クーラーをガンガンに効かせた室内。家を出るべく、電化製品の電源を端から端まで切っていく。外はカンカン照りの夏だ。薄着で、バッグにはラケットポーチと、カメラ。

 車はそもそも免許すら持ってないから自転車だ。逸る気持ちはペダルを回す速度に乗っけるしかない。全速力で行けば十分くらい。でも卓球する余力は残しておかないと。

 スズカと、ナナセちゃんと、私。三人が一堂に会する機会──それすなわち、写真が撮れる機会。この五年間たくさんの写真を撮って来て、どれもこれも楽しかった。けれど、一番撮っていて心が躍るのは、大好きな人の写真を撮ることなのだ。大好きな人たちがキラキラ眩しく人生を輝かせている刹那を、四角く切り取って永久保存したい。それが、私のキラキラなんだ。

 私もスズカもナナセちゃんも、世界地図のちっぽけな点だ。でも二人は、星みたいに輝いている。夜空の星だって、私から見ればちっぽけな点だ。なんら変わりないんだ。

 そして私は──そのキラキラを、一番美しく写真に収めてやるんだ。

                                      〈おわり〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の明星 いかろす @ikarosu000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ