間章 彼は如何にして季環師となったのか
第二十七譚 季環師は斯くして《季節》を愛した
夢をみていた。
幾度となく繰りかえしてきた、幼い頃の悪夢だ。
はじまりはいつだって、曖昧な闇のなかだった。
どこからともなく、
「セツ」――誰かが、柔らかく呼びかけてきた。
霧が掛かっていた意識が、急激に醒める。引き換えに、これは夢だという理解が霧散する。
母さま。声は空気を震わせることなく、闇に吸い込まれた。塞がれた棺の蓋の外側に母親がいる。セツは指を動かす。硬い石の質感がある。どれだけ指を動かしても、抜けだすことはできなかった。
「あなたは生き残るのですよ」
母親の声が最後に響き、遂には
嵐のようだ。剣や銃、大砲が吼え、悲鳴と怒声が渦巻く。
震えながら、セツはどれくらい待ち続けていただろうか。やがてそれらが静まり、セツは棺の蓋を押す。棺の蓋がずれ、視界から闇が取り払われた。
彼がいたのは、母親の私室のはずだった。だが壁が崩れて、
身体が輪郭を結んだ。だが背が低い。痩せているのはいまと変わらないが、腕も足も
十歳の頃の身体がそこにあった。
だが夢に浸っているセツは違和感を覚えない。
頬がひりっとして、触れると血が流れていた。あちらこちらに傷がある。戦いから逃げてきた時に傷ついたのだと思い至る。幸い、怪我というほどのものはない。
敵が残っていてはいけない。崩れた壁の端に身を隠して、セツは廊下をのぞき込む。
視界の至るところには
領主の暮らす、小規模な城だ。階段をおりれば
ふらつきながらも城の窓際にむかう。
城は豊かな森にかこまれていた。
セツは森が好きだった。湖が好きだった。
戦続きでも、彼を取り巻く環境がどれほど荒んでいても、森を散策し湖を眺めている時には落ち着いた。彼は森や湖を息衝かせる《季節》を愛していたのだ。
なのに、彼が愛していた風景は、そこにはなかった。
セツは現実とは思えない風景にがく然と、崩れ落ちた。
森が朽ちていた。
樹木は緑の枝葉を落として、黒ずんだ幹の群ばかりが連なっていた。焼け跡と見紛うが、燃えつきたわけではない。急激に朽ちているのだ。朽ちた幹は旋風にあらがえず、先端からぼきぼきと折れる。枝がないので、森のなかにある湖まで一望できたが、湖もまた様変わりしていた。湖は乾き、湖底が剥きだしになっている。湖には水中植物が
美しく、穏やかだった風景は変わり果てて、見る影もない。
いまはなんの季節だったのだろうかと、彼はぼんやりと考える。
けれど、どれだけ考えても思いだせなかった。
大地では動物が逃げまどっている。鳥が群れを組んで、森から舞いあがり、落ちた。
黒とも紫ともつかない、空気の層。瘴気だ。大地から瘴気があがり、大気を濁らせている。雲とも霞とも異なる
なんで、こんなことになってしまったのか。
この地域にはふたつの領地があり、ふたりの領主がいた。
北東はシャ・アストラル侯爵の
戦火は、徐々に大地を蝕み、季節を衰えさせていった。
やがて戦争に巻き込まれて、《冬》が死に絶えた。
だがこの地域では、冬は恵みのない季節だと嫌われており、さほど重大な損失だとは受け取られなかった。
この事態に警報を鳴らしたのが、セツの母親にして北東領主の侯爵夫人たるミオ・シャ・アストラルだった。
彼女は優れた季節読みの才能を携えていた。
ミオは夫たるシャ・アストラル侯爵に戦をやめるべきだと進言したが、「戦をとめたければ《光季》と契約を結べ、さもなければ終戦には至れぬ」というのが侯爵の意表だった。
優れた季節読みは、季節と契約を結ぶことができる。季節が契約を拒否するのであれば、ちからで縛りつけることもまた。だがミオ侯爵夫人は
戦争は終わらない。続けて、《夏》が戦火に巻き込まれ、息絶えた。
その頃から異変が起こり始めた。
春と秋だけを繰りかえす大地から、実りが激減したのだ。
シャ侯爵は相手に、季節が甦るまで休戦にしないかと持ちかけ、クァ侯爵はそれを受けた。
斯くして、休戦協定が結ばれた。
だが直後に、クァ・アストラル侯爵の軍が進撃してきた。
協定が破られたのだ。敵軍は、シャ・アストラル侯爵の領地にある町を破壊して、城に至った。シャ侯爵は急いで軍をあげたが、城を護ることはかなわなかった。侯爵は激戦の末に敵軍に殺され、遂に城とシャ侯爵の領地は侵略された。
生き残ったのはシャ・アストラル侯爵の
だがこの有様では、勝敗など関係がなかったのだと、セツはやけに冷静な思考で考えた。それが、十歳当時の思考だったとは思えない。夢だからこその思索だ。
季節の循環は大地の理である。理が損なわれた地域は、自然の均衡を取れず、崩壊する。
季節の循環が大地のいのちを護り、育んでいるのだ。
セツは城から離れて、森を走っていた。
足が動かず、何度も転んだ。森は黒ずみ、枯れ落ちた葉が地を覆っていた。葉は踏みつけるとぼろぼろに崩れ、黒い粉のようなものが巻きあがる。あれが
町に生き残りがいるのではないかと、
されど焼け落ちた
軒を連ねていた建物は壁も屋根も崩れ、骨組みだけを曝していた。食べ物が振る舞われていた食堂も、様々なものがならべられて賑やかだった市場も、穏やかな暮らしの名残さえない。黒く焦げた人の形の塊だけが、あちらこちらに転がっていた。
あまりの凄惨さに胃がひっくりかえり、セツは泣きながら吐き続けた。なにも食べ物は胃に残っておらず、胆液だけが焼けた石畳に落ちる。
セツにはなにひとつ、残っていなかった。護ってくれるものも護るべきものもない。
軍馬の
喋りながら、敵軍が近づいてきた。
「この地域は終わりだ。《光季》だけでも捜しだして、捕え、中央部の殿下に捧げるのだ。貴様が《光季》の巣の在処を素直に言えば、他の季節を殺して《光季》をあぶりだすという作戦は、もはや必要なかったのだがな。貴様のせいで《春》も《秋》も無駄に命を落とした」
季節を殺すという不穏な響きに、セツはとっさに身を隠す。
瓦礫のすきまから窺えば、軍馬に乗っているのは、クァ・アストラル侯爵だった。縛られ、連れられているのは、ミオ・シャ・アストラル――セツの母親だ。母親は長かった髪を裁たれ、頬を腫らして、奴隷のような扱いを受けていた。
セツは声をあげたかった。駆け寄りたかった。
けれどぐっとたえて、息を殺す。
彼が飛びだしていっても事態は悪くなるだけだ。母親を助けるどころか、敵に捕らえられ、人質になるだろう。政略の波に揉まれてきた侯爵の息子だ。その程度はわきまえていた。
馬に乗った兵士が、侯爵のもとにやってきた。
「報告致します。《光季》を捕捉。上空が瘴気に覆われているので、奴も高度をあげられない模様。
「殺すなよ。《光季》を捕え、契約させなければならないのだから」
ちらりとクァ・アストラル侯爵は、ミオに視線を投げた。
敵軍は《光季》を捕えるつもりなのか。
みずからの故郷が朽ちて、凄惨なる有様になっていてもなお、後悔すらせずに罪を重ねようとする侯爵の思考は、セツには理解できなかった。それどころか、彼らはわざと他の季節を戦に巻き込み、虐殺して《光季》を誘いだしていたのだ。なんて残虐なのか。
そうまでして《光季》を所有したいのか。
だがそれは、クァ侯爵にかぎったことではない。
セツの父親とて大差なかった。
セツの父親たるシャ侯爵が母親と結婚したのも、母親を軟禁し続けていたのも、セツを産ませたのも、《光季》を掌握するという野望の為だ。シャ侯爵は《光季》を従え、中央都を
季節は、誰の所有でもない。まして、政略の駒などではないはずなのに。
怒りがこみあげ、セツは震えがとまらなくなる。瓦礫に震える肩が触れてしまった。
がしゃんと瓦礫がすべり落ちた。侯爵が
「よく聴きなさい!」
凄まじい響きをともなっていた。
みながあ然とする。やせ細った身体のどこから、そこまでの声が発せられるのか。
「わたくしは《
縄に
「あなたがたは、あなたがたが殺してしまったこの地域とともに朽ち果てるがよい!」
ミオ・シャ・アストラルは、腕輪からとがらせた銀貨を取りだす。くるりとまわして縄を斬り、ミオは最後に敵の侯爵を睨んで、
「さようなら、後は頼みましたよ」
彼女は銀貨の先端を押しつけて、自身の喉を裂く。
兵が制止しようとつかみ掛かるが、遅かった。果実を割ったように血潮が零れる。痩せた身体はちからを失い、騎士の腕に崩れ落ちた。
セツは嘆きを飲み込んだ。涙ひとつでも流せば、母親の死は無駄になる。
たえられる、と思った。これまでたえてきたように。
母親は遠い人だった。私室に軟禁されていた母親には、息子とは言えども逢うことがかなわず、物心ついた頃からほとんど言葉をかわすこともなかった。それに彼女は、いつだってなにかを護らんと、胸を張って戦い続けていたから。それは、幼い彼にはたどり着けない戦場で、想像もつかないほどに重い決意だった。
息子たる彼は季節を愛していた。されど母親ほどには、季節を読めなかった。
だから父親からは見放され、母親についていくこともできなかった。
嘆きのかわりに、胸のなかで、なにかが燃えるのを感じた。
涙をこらえようと天をふり仰ぐ。
瘴気の天蓋に、綺麗な流星が走ったのをセツは見た。流星は森に落ちていく。
何故に腕輪を取りあげなかったのかと激怒する侯爵のもとに、軍馬が走ってきた。
「《光季》を落としました! 至急、森に!」
侯爵が急ぎ、走り去っていく。セツは捕まらないように身を縮めて、軍馬を追いかけた。
黒き森は段々と瘴気が垂れこめてきているせいか、視界が悪く、呼吸がぜいぜいと荒れるほどに大気が澱んでいた。袖で口を覆い、彼は懸命に歩を進める。
視界がいかに霞んでいても、森の地形は頭に思い描ける。流れ星が落ちてきたのはあの辺りだと、彼は予想がついていた。
森がそこだけぽっかりと抜けていて、枝葉にさえぎられることなく陽が差す、季節の箱庭だった。春には柔い若草が露に濡れてきらきらと輝き、夏には茨が咲き群れて、秋には紅葉があざやかに燃える。冬には純白の雪が敷きつめられ、季節の動物と遇うこともあった。
セツはこの場所を愛していた。勉強や剣の鍛錬を抜けだしてはよく森まで出掛けていた。
幼い頃から策謀と戦火を眺め続け、いずれはその地獄に組みこまれると決まっていた彼は、美しい季節の風景だけをこころの
母親のことは慕っていた。子供なりに慕ってはいたのだ。
けれど彼女は遠かった。
だから彼女が最後に言ったことは、彼がはじめて、母親から受けた言葉だった。「頼みましたよ」と言った、あれは他でもなく、息子にむけた言葉だ。託されたと、セツは思った。果たして、なにを託されたのかはわからなかったけれど。彼女が護ろうとしていたものを。
野原にたどり着く。
予想とは違い、草地にはまだ茨が咲き群れていた。
星に護られるようにして、裸の娘がすわっていた。
豊かな胸に絹を巻きつけたような腰。背には黄金の髪を纏い、きめ細やかな素肌は帯電しているのか、微かに輝いていた。水晶でかたちづくられた女神像のように神秘を帯びた美貌が、さらりと流れた髪のすきまから窺えた。
セツは一瞬、その美しさに眩暈がした。
これほど美しい者が人間であろうはずがない。
彼は直感する。彼女が《
裸の背には矢が刺さっていた。水銀のような雫が肌を濡らしている。あれが彼女の血潮か。
星茨の蔓には棘がある。だがセツは構わずに進んだ。花を散らさず、棘にひっかかることなく進むのは慣れている。草を掻きわける音に美しい娘が貌をあげる。その双眸は黄金だった。
「そう、あなたは」
なにを言わずとも《光季》は理解する。
「あの季節読みの息子なのね」
息も絶え絶えになりながら、《光季》は微笑んだ。
されど微笑は、ふっと絶える。
「どうか、ひとつ、頼まれて」
後ろから、蹄鉄の
《
「娘を護って」
彼女は、そう言った。
《光季》は絶大なちからを誇る季節の女帝だ。
彼女ほどの季節を縛るのはたやすくはない。それができるのは、よほどに優秀なものにかぎられる。だが《光季》の娘はそのかぎりではない。地域を受け継いでいない季節の幼体は未熟だ。ミオ侯爵婦人ほどに優れてはいないが、敵軍にも季節読みの才能を有する者はいる。そうした者の魔手にも、産まれたばかりの季節は簡単に落ちる。
だが人間に裏切られ続けた季節がなぜ、いまさら大事な娘の保護を人間に、それも無力な子供などに頼むのか。他に頼む者がいない。それは事実だった。けれど、それならば《光季》が軍と戦い、娘を逃がすほうがまだ望みがあるはずだ。
重責を意識してしまったら、後は無理だった。
「僕にできる、でしょうか」
セツが震える声をあげる。
「いえ、僕は、僕には……できません、母様と違って、僕は」
セツはすっかりと、
ちからがたりない。才能も、権力も、知恵も、度胸もなにもかもがない。
「できるか、できないかじゃないわ」
「僕が、母様の息子だから、ですか」
「いいえ」
《光季》の黄金の眸が、彼を振りかえる。
傲慢な眸だ。だが慈愛に満ちている。
「あなたが《季節》を愛するからよ」
季節の女帝は、大輪が綻ぶように笑った。
それを最後に、《光季》は彼方を睨んで、もはや振りかえらなかった。
セツは拳を握り締めて、走りだす。走りながら、そうか、愛かと想った。ゆるりと理解する。季節を愛するのならば、彼にもできる。いや、違うか。彼にだけ、できるのだ。誰もが季節を虐げ、略奪するこの戦場では、他に季節を愛することができる者などいるものか。
軍馬の嘶きがせまってきた。《光季》が戦ってくれているはずだと、重い靄を振りきるように走り続ける。巣がどこにあるのか、彼は母親から教えられたことはなかったが、いまは手に取るように読めた。《光季》が導いてくれているのだ。
軍の怒号が爆ぜた。急がなければ。
大樹のもとまでたどり着いた。
森一帯が朽ちているのに、その大樹だけは葉を落とさず、黒く朽ちることもない。季節が棲んでいるところは生の息吹に満ちている。他の季節の死にも影響を受けない。これでは敵軍にもすぐに見つかってしまう。猶予はなかった。
セツをいざなうように根が持ちあがる。彼は根の道に潜り込んだ。
大樹のなかは想像を絶するほどに広く、壁が
あまりにも美しい光景に彼は現実のものとは思えず、ぼうとなる。
進めば、ふり仰ぐほどの植物が一輪、セツを待ち受けていた。
葉はちいさく、茎の先端にはまるみを帯びた莟が実っている。幾重にも重なった紫のはなびらには、妖精のような影が浮かびあがっていた。莟はこの少女の揺り籠なのだ。
セツが側に寄る。それを待っていたように、はなびらの縁が微かに震えた。莟が緩やかにほどける。すきまからは滝のように光が流れ、彼の頬に複雑な紋様をちらつかせた。
彼は幻想のような光景に見蕩れ、呼吸も忘れていた。
莟は、悠然と咲き誇る。
産まれたのは、少女を象る《季節》だった。
真珠のような肌に銀糸の髪を巻きつけ、彼女は眠っていた。
なぐさみに膝を抱き締めている。脚は植物の蔓ほどに細く、されど痩せぎすではなかった。くるぶしのなめらかな輪郭から視線を落とすと、貝殻のような爪がならんでいた。翼が生えていないことがおかしいほどの、僅かにとがった肩。薄く
どんな表現も足らないほどに、彼女は。
微かに睫毛が震えた。彩を鏤めた鏡のような双眸が、緩やかに醒める。
その眸に傷だらけの少年の姿が映しだされた時に、セツは後ろめたいと思った。傷にはまだ血が滲んでいた。恥だと思うのも違って、ただ汚れていることが辛かった。
彼女は綺麗だった。
涙が滲みそうになる。
城が壊れても母親が死んでも、たえ抜いたというのに。
なんでいま、泣きたくなるのか。
軍馬が大地を踏みならして、侵攻してきた。
軍には大砲がある。たちまち大樹の幹が破壊され、巣に侵入されるだろう。戦っていた《光季》は殺されたのか、捕らわれたのか。あの純潔なる季節の女帝ならば、みずから死に絶えることを選ぶに決まっている。侯爵夫人のように。
彼は、産まれたての季節を抱き締めた。産まれたばかりの季節は暴れもせず、ぼんやりと抱き締められるままに委ねる。さらりと水銀の髪が、地に垂れた。
「護る、から」
この季節を護らなければならない。
母親に託されたからではなかった。《光季》に頼まれたからでもなかった。わけなんて、すでにあってないに等しい。
美しかったからだ。
それが、あまりにも美しかったから、彼は。
「ぜったいに護る、護るから」
意味がわかっているのか、わからないのか。
産まれたばかりの季節はふわりと、微笑んだ。
凄まじい衝撃があった。
大樹を壊されたのかと思ったが、違う。
地震だ。森が壊れる。大地が壊れる。この地域を加護するすべての季節が死に絶えて、遂に理が崩壊する。ぼろぼろと幹が崩れ、森の樹木がことごとく倒れて、軍もふたりも残らず、森の残骸に埋もれていく。
なにかが落ちてきて、わき腹を貫いた。激痛と衝撃に意識を失っても、セツは護るべきものだけは抱き締めて、離さなかった。
斯くして、彼は。
すべてを季節に捧げたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます