間章 彼は如何にして季環師となったのか

第二十七譚 季環師は斯くして《季節》を愛した

 夢をみていた。

 

 幾度となく繰りかえしてきた、幼い頃の悪夢だ。

 はじまりはいつだって、曖昧な闇のなかだった。

 

 どこからともなく、恐慌きょうこうが響いてくる。声は無数に重なり、遠くから響いているのもあって、ひとつひとつの意味を拾うことはできない。ただ焦燥しょうそうばかりがあおられた。誰かが泣き叫んでいる。誰かが怒っている。誰かが悪辣あくらつに笑っている。誰かが。


「セツ」――誰かが、柔らかく呼びかけてきた。


 霧が掛かっていた意識が、急激に醒める。引き換えに、これは夢だという理解が霧散する。

 母さま。声は空気を震わせることなく、闇に吸い込まれた。塞がれた棺の蓋の外側に母親がいる。セツは指を動かす。硬い石の質感がある。どれだけ指を動かしても、抜けだすことはできなかった。


「あなたは生き残るのですよ」


 母親の声が最後に響き、遂には石棺いしひつの外にまで恐慌きょうこうが到達する。

 嵐のようだ。剣や銃、大砲が吼え、悲鳴と怒声が渦巻く。

 震えながら、セツはどれくらい待ち続けていただろうか。やがてそれらが静まり、セツは棺の蓋を押す。棺の蓋がずれ、視界から闇が取り払われた。

 彼がいたのは、母親の私室のはずだった。だが壁が崩れて、瓦礫がれきが積みあがっている。何者かが踏み荒らしたのか、寝台ベッドにも机にも争いの跡が残されていた。凄惨な光景に眩みつつも、血の海に漂う鎧を踏んで、セツは棺から脱出する。

 身体が輪郭を結んだ。だが背が低い。痩せているのはいまと変わらないが、腕も足もやわく頼りなかった。

 

 十歳の頃の身体がそこにあった。

 だが夢に浸っているセツは違和感を覚えない。

 

 頬がひりっとして、触れると血が流れていた。あちらこちらに傷がある。戦いから逃げてきた時に傷ついたのだと思い至る。幸い、怪我というほどのものはない。

 敵が残っていてはいけない。崩れた壁の端に身を隠して、セツは廊下をのぞき込む。

 視界の至るところにはむくろが積みあがっていた。砲弾を受けたのか、原形を留めていないものもあった。セツは口許くちもとを覆い、胃が逆流するのをなんとかこらえた。このなかには母親もいるのだろうか。考えたくなくて、セツはよろよろと廊下を進んだ。

 領主の暮らす、小規模な城だ。階段をおりれば謁見えっけんの間だが、こちらも砲撃を受けて無残に壁が崩れ、侯爵の紋章が書かれた緞帳どんちょうは燃えている。

 ふらつきながらも城の窓際にむかう。


 城は豊かな森にかこまれていた。

 セツは森が好きだった。湖が好きだった。

 戦続きでも、彼を取り巻く環境がどれほど荒んでいても、森を散策し湖を眺めている時には落ち着いた。彼は森や湖を息衝かせる《季節》を愛していたのだ。

 なのに、彼が愛していた風景は、そこにはなかった。

 セツは現実とは思えない風景にがく然と、崩れ落ちた。

 森が朽ちていた。

 樹木は緑の枝葉を落として、黒ずんだ幹の群ばかりが連なっていた。焼け跡と見紛うが、燃えつきたわけではない。急激に朽ちているのだ。朽ちた幹は旋風にあらがえず、先端からぼきぼきと折れる。枝がないので、森のなかにある湖まで一望できたが、湖もまた様変わりしていた。湖は乾き、湖底が剥きだしになっている。湖には水中植物がしげっているはずだが、いまは腐った藻のようなものがうちあがっているだけだ。

 美しく、穏やかだった風景は変わり果てて、見る影もない。

 いまはなんの季節だったのだろうかと、彼はぼんやりと考える。

 けれど、どれだけ考えても思いだせなかった。


 大地では動物が逃げまどっている。鳥が群れを組んで、森から舞いあがり、落ちた。

 黒とも紫ともつかない、空気の層。瘴気だ。大地から瘴気があがり、大気を濁らせている。雲とも霞とも異なるもやにさえぎられ、昼だというのに、空は薄暗かった。

 なんで、こんなことになってしまったのか。



 この地域にはふたつの領地があり、ふたりの領主がいた。

 北東はシャ・アストラル侯爵の管轄かんかつ。南西はクァ・アストラル侯爵の管轄だった。どちらも侯爵の地位を中央都ちゅうおうとから授けられていたことに加えて、領地が近接していたのもあり、ふたつの領地間には争いが絶えなかった。最大の火種となったのが、大陸のその地域だけに訪れる《光季こうき》という希少なる季節の所有権だった。《光季》は美しい季節だったが、侯爵らの関心は、《光季》を従わせれば、最強の兵器になるということに終始していた。

 戦火は、徐々に大地を蝕み、季節を衰えさせていった。


 やがて戦争に巻き込まれて、《冬》が死に絶えた。

 だがこの地域では、冬は恵みのない季節だと嫌われており、さほど重大な損失だとは受け取られなかった。

 この事態に警報を鳴らしたのが、セツの母親にして北東領主の侯爵夫人たるミオ・シャ・アストラルだった。

 彼女は優れた季節読みの才能を携えていた。

 ミオは夫たるシャ・アストラル侯爵に戦をやめるべきだと進言したが、「戦をとめたければ《光季》と契約を結べ、さもなければ終戦には至れぬ」というのが侯爵の意表だった。

 優れた季節読みは、季節と契約を結ぶことができる。季節が契約を拒否するのであれば、ちからで縛りつけることもまた。だがミオ侯爵夫人はかたくなにそれを拒んだ。夫に従わない妻を、シャ・アストラル侯爵は軟禁した。処刑せずにいたのは情を持っていたからなのか、利用価値があると踏んだからなのか。


 戦争は終わらない。続けて、《夏》が戦火に巻き込まれ、息絶えた。


 その頃から異変が起こり始めた。

 春と秋だけを繰りかえす大地から、実りが激減したのだ。


 シャ侯爵は相手に、季節が甦るまで休戦にしないかと持ちかけ、クァ侯爵はそれを受けた。

 斯くして、休戦協定が結ばれた。

 だが直後に、クァ・アストラル侯爵の軍が進撃してきた。

 協定が破られたのだ。敵軍は、シャ・アストラル侯爵の領地にある町を破壊して、城に至った。シャ侯爵は急いで軍をあげたが、城を護ることはかなわなかった。侯爵は激戦の末に敵軍に殺され、遂に城とシャ侯爵の領地は侵略された。

 生き残ったのはシャ・アストラル侯爵の息子セツ・シャ・アストラルだけだった。


 だがこの有様では、勝敗など関係がなかったのだと、セツはやけに冷静な思考で考えた。それが、十歳当時の思考だったとは思えない。夢だからこその思索だ。


 季節の循環は大地の理である。理が損なわれた地域は、自然の均衡を取れず、崩壊する。

 季節の循環が大地のいのちを護り、育んでいるのだ。


 セツは城から離れて、森を走っていた。

 足が動かず、何度も転んだ。森は黒ずみ、枯れ落ちた葉が地を覆っていた。葉は踏みつけるとぼろぼろに崩れ、黒い粉のようなものが巻きあがる。あれが瘴気しょうきになっているのだろうか。野生の馬の群ともすれ違ったが、森の異変にどうすることもできず、逃げまどっていた。小動物は木の根もとに身を縮めて、震えている。

 町に生き残りがいるのではないかと、一縷いちるの望みをかけて森を抜け、セツは町に至る。

 されど焼け落ちた瓦礫がれきをみて、彼は悲惨な現実を思い知らされた。

 軒を連ねていた建物は壁も屋根も崩れ、骨組みだけを曝していた。食べ物が振る舞われていた食堂も、様々なものがならべられて賑やかだった市場も、穏やかな暮らしの名残さえない。黒く焦げた人の形の塊だけが、あちらこちらに転がっていた。

 あまりの凄惨さに胃がひっくりかえり、セツは泣きながら吐き続けた。なにも食べ物は胃に残っておらず、胆液だけが焼けた石畳に落ちる。

 セツにはなにひとつ、残っていなかった。護ってくれるものも護るべきものもない。

 軍馬のいななきが耳をかすめた。きっと敵軍だ。どうせならば殺してくれないかと思い、セツは逃げずに瓦礫の隅にうずくまる。

 喋りながら、敵軍が近づいてきた。


「この地域は終わりだ。《光季》だけでも捜しだして、捕え、中央部の殿下に捧げるのだ。貴様が《光季》の巣の在処を素直に言えば、他の季節を殺して《光季》をあぶりだすという作戦は、もはや必要なかったのだがな。貴様のせいで《春》も《秋》も無駄に命を落とした」


 季節を殺すという不穏な響きに、セツはとっさに身を隠す。


 瓦礫のすきまから窺えば、軍馬に乗っているのは、クァ・アストラル侯爵だった。縛られ、連れられているのは、ミオ・シャ・アストラル――セツの母親だ。母親は長かった髪を裁たれ、頬を腫らして、奴隷のような扱いを受けていた。

 セツは声をあげたかった。駆け寄りたかった。

 けれどぐっとたえて、息を殺す。


 彼が飛びだしていっても事態は悪くなるだけだ。母親を助けるどころか、敵に捕らえられ、人質になるだろう。政略の波に揉まれてきた侯爵の息子だ。その程度はわきまえていた。

 馬に乗った兵士が、侯爵のもとにやってきた。


「報告致します。《光季》を捕捉。上空が瘴気に覆われているので、奴も高度をあげられない模様。弓隊ゆみたいが追跡を続けています。おそらくは、すぐに落とせるはずです」

「殺すなよ。《光季》を捕え、契約させなければならないのだから」


 ちらりとクァ・アストラル侯爵は、ミオに視線を投げた。


 敵軍は《光季》を捕えるつもりなのか。

 みずからの故郷が朽ちて、凄惨なる有様になっていてもなお、後悔すらせずに罪を重ねようとする侯爵の思考は、セツには理解できなかった。それどころか、彼らはわざと他の季節を戦に巻き込み、虐殺して《光季》を誘いだしていたのだ。なんて残虐なのか。

 そうまでして《光季》を所有したいのか。

 だがそれは、クァ侯爵にかぎったことではない。

 セツの父親とて大差なかった。

 セツの父親たるシャ侯爵が母親と結婚したのも、母親を軟禁し続けていたのも、セツを産ませたのも、《光季》を掌握するという野望の為だ。シャ侯爵は《光季》を従え、中央都を簒奪さんだつしようと画策していた。

 季節は、誰の所有でもない。まして、政略の駒などではないはずなのに。

 怒りがこみあげ、セツは震えがとまらなくなる。瓦礫に震える肩が触れてしまった。

 がしゃんと瓦礫がすべり落ちた。侯爵がいぶかしげに振りかえる。だが、侯爵や兵の注意をひきつけるように、ミオが大きな声をあげた。


「よく聴きなさい!」


 凄まじい響きをともなっていた。

 みながあ然とする。やせ細った身体のどこから、そこまでの声が発せられるのか。


「わたくしは《光季こうき》のきみを契約にて縛るつもりはございません! あなたがたの強欲なる腕は、決してあのお方の、麗しき髪には触れることはかなわないでしょう。あなたがたの愚昧ぐまいなるつるぎは、あのお方の意を砕くには及ばぬでしょう。あのお方の寝息さえ、あなたがたは見えぬのだから。あのお方の鼓動さえ、あなたがたは聴こえぬのだから!」


 縄にかれようとも、彼女は侯爵夫人の誇りを損なわずに宣言する。


「あなたがたは、あなたがたが殺してしまったこの地域とともに朽ち果てるがよい!」


 ミオ・シャ・アストラルは、腕輪からとがらせた銀貨を取りだす。くるりとまわして縄を斬り、ミオは最後に敵の侯爵を睨んで、嫣然えんぜんと笑った。


「さようなら、後は頼みましたよ」


 彼女は銀貨の先端を押しつけて、自身の喉を裂く。

 兵が制止しようとつかみ掛かるが、遅かった。果実を割ったように血潮が零れる。痩せた身体はちからを失い、騎士の腕に崩れ落ちた。


 セツは嘆きを飲み込んだ。涙ひとつでも流せば、母親の死は無駄になる。

 たえられる、と思った。これまでたえてきたように。


 母親は遠い人だった。私室に軟禁されていた母親には、息子とは言えども逢うことがかなわず、物心ついた頃からほとんど言葉をかわすこともなかった。それに彼女は、いつだってなにかを護らんと、胸を張って戦い続けていたから。それは、幼い彼にはたどり着けない戦場で、想像もつかないほどに重い決意だった。


 息子たる彼は季節を愛していた。されど母親ほどには、季節を読めなかった。

 だから父親からは見放され、母親についていくこともできなかった。

 嘆きのかわりに、胸のなかで、なにかが燃えるのを感じた。


 涙をこらえようと天をふり仰ぐ。

 瘴気の天蓋に、綺麗な流星が走ったのをセツは見た。流星は森に落ちていく。

 何故に腕輪を取りあげなかったのかと激怒する侯爵のもとに、軍馬が走ってきた。


「《光季》を落としました! 至急、森に!」


 侯爵が急ぎ、走り去っていく。セツは捕まらないように身を縮めて、軍馬を追いかけた。


 黒き森は段々と瘴気が垂れこめてきているせいか、視界が悪く、呼吸がぜいぜいと荒れるほどに大気が澱んでいた。袖で口を覆い、彼は懸命に歩を進める。

 視界がいかに霞んでいても、森の地形は頭に思い描ける。流れ星が落ちてきたのはあの辺りだと、彼は予想がついていた。

 星茨スヴァラが群生する、森のなかの美しい野原だ。

 森がそこだけぽっかりと抜けていて、枝葉にさえぎられることなく陽が差す、季節の箱庭だった。春には柔い若草が露に濡れてきらきらと輝き、夏には茨が咲き群れて、秋には紅葉があざやかに燃える。冬には純白の雪が敷きつめられ、季節の動物と遇うこともあった。

 セツはこの場所を愛していた。勉強や剣の鍛錬を抜けだしてはよく森まで出掛けていた。

 幼い頃から策謀と戦火を眺め続け、いずれはその地獄に組みこまれると決まっていた彼は、美しい季節の風景だけをこころのり所としていたのだ。


 母親のことは慕っていた。子供なりに慕ってはいたのだ。

 けれど彼女は遠かった。


 だから彼女が最後に言ったことは、彼がはじめて、母親から受けた言葉だった。「頼みましたよ」と言った、あれは他でもなく、息子にむけた言葉だ。託されたと、セツは思った。果たして、なにを託されたのかはわからなかったけれど。彼女が護ろうとしていたものを。


 野原にたどり着く。

 予想とは違い、草地にはまだ茨が咲き群れていた。

 星茨スヴァラ。星のかたちをかたどったはなびらは黒い靄に侵されることなく、いまだに咲き誇っていた。純白の星がゆらゆらと、揺れる。


 星に護られるようにして、裸の娘がすわっていた。

 豊かな胸に絹を巻きつけたような腰。背には黄金の髪を纏い、きめ細やかな素肌は帯電しているのか、微かに輝いていた。水晶でかたちづくられた女神像のように神秘を帯びた美貌が、さらりと流れた髪のすきまから窺えた。


 セツは一瞬、その美しさに眩暈がした。

 これほど美しい者が人間であろうはずがない。


 彼は直感する。彼女が《光季こうき》だ。


 裸の背には矢が刺さっていた。水銀のような雫が肌を濡らしている。あれが彼女の血潮か。

 星茨の蔓には棘がある。だがセツは構わずに進んだ。花を散らさず、棘にひっかかることなく進むのは慣れている。草を掻きわける音に美しい娘が貌をあげる。その双眸は黄金だった。


「そう、あなたは」


 なにを言わずとも《光季》は理解する。


「あの季節読みの息子なのね」


 息も絶え絶えになりながら、《光季》は微笑んだ。

 されど微笑は、ふっと絶える。


「どうか、ひとつ、頼まれて」


 後ろから、蹄鉄のあしおとが響いてきた。

光季こうき》が毅然と立ちあがる。銀の雫が散る。悲惨さをまったく滲ませない凄絶せいぜつを従えて、彼女は腕を振りあげた。長すぎる髪が弓を象る。指先から稲妻が生まれ、矢を象った。弓を構える姿勢は優雅だ。それでいて、勇ましかった。


「娘を護って」


 彼女は、そう言った。


《光季》は絶大なちからを誇る季節の女帝だ。

 彼女ほどの季節を縛るのはたやすくはない。それができるのは、よほどに優秀なものにかぎられる。だが《光季》の娘はそのかぎりではない。地域を受け継いでいない季節の幼体は未熟だ。ミオ侯爵婦人ほどに優れてはいないが、敵軍にも季節読みの才能を有する者はいる。そうした者の魔手にも、産まれたばかりの季節は簡単に落ちる。

 だが人間に裏切られ続けた季節がなぜ、いまさら大事な娘の保護を人間に、それも無力な子供などに頼むのか。他に頼む者がいない。それは事実だった。けれど、それならば《光季》が軍と戦い、娘を逃がすほうがまだ望みがあるはずだ。

 重責を意識してしまったら、後は無理だった。


「僕にできる、でしょうか」


 セツが震える声をあげる。


「いえ、僕は、僕には……できません、母様と違って、僕は」


 セツはすっかりと、すくんでしまっていた。託されたものが重すぎる。

 ちからがたりない。才能も、権力も、知恵も、度胸もなにもかもがない。


「できるか、できないかじゃないわ」

「僕が、母様の息子だから、ですか」

「いいえ」


《光季》の黄金の眸が、彼を振りかえる。

 傲慢な眸だ。だが慈愛に満ちている。


「あなたが《季節》を愛するからよ」


 季節の女帝は、大輪が綻ぶように笑った。

 それを最後に、《光季》は彼方を睨んで、もはや振りかえらなかった。


 セツは拳を握り締めて、走りだす。走りながら、そうか、愛かと想った。ゆるりと理解する。季節を愛するのならば、彼にもできる。いや、違うか。彼にだけ、できるのだ。誰もが季節を虐げ、略奪するこの戦場では、他に季節を愛することができる者などいるものか。

 軍馬の嘶きがせまってきた。《光季》が戦ってくれているはずだと、重い靄を振りきるように走り続ける。巣がどこにあるのか、彼は母親から教えられたことはなかったが、いまは手に取るように読めた。《光季》が導いてくれているのだ。

 軍の怒号が爆ぜた。急がなければ。


 大樹のもとまでたどり着いた。

 森一帯が朽ちているのに、その大樹だけは葉を落とさず、黒く朽ちることもない。季節が棲んでいるところは生の息吹に満ちている。他の季節の死にも影響を受けない。これでは敵軍にもすぐに見つかってしまう。猶予はなかった。

 セツをいざなうように根が持ちあがる。彼は根の道に潜り込んだ。

 大樹のなかは想像を絶するほどに広く、壁が万華鏡まんげきょうのようにきらめいていた。星に例えるには華やかすぎる。紅に群青、緑に紫。細かな光がちりばめられ、渦を巻く。

 あまりにも美しい光景に彼は現実のものとは思えず、ぼうとなる。

 進めば、ふり仰ぐほどの植物が一輪、セツを待ち受けていた。

 葉はちいさく、茎の先端にはまるみを帯びた莟が実っている。幾重にも重なった紫のはなびらには、妖精のような影が浮かびあがっていた。莟はこの少女の揺り籠なのだ。

 セツが側に寄る。それを待っていたように、はなびらの縁が微かに震えた。莟が緩やかにほどける。すきまからは滝のように光が流れ、彼の頬に複雑な紋様をちらつかせた。

 彼は幻想のような光景に見蕩れ、呼吸も忘れていた。


 莟は、悠然と咲き誇る。

 産まれたのは、少女を象る《季節》だった。


 真珠のような肌に銀糸の髪を巻きつけ、彼女は眠っていた。

 なぐさみに膝を抱き締めている。脚は植物の蔓ほどに細く、されど痩せぎすではなかった。くるぶしのなめらかな輪郭から視線を落とすと、貝殻のような爪がならんでいた。翼が生えていないことがおかしいほどの、僅かにとがった肩。薄く果敢はかない胸の、皮膚を透かす黒鍵こっけんじみた肋骨までもが、妖美ようびを極めていた。息をする童話、いや、神話というべきか。

 どんな表現も足らないほどに、彼女は。


 微かに睫毛が震えた。彩を鏤めた鏡のような双眸が、緩やかに醒める。

 その眸に傷だらけの少年の姿が映しだされた時に、セツは後ろめたいと思った。傷にはまだ血が滲んでいた。恥だと思うのも違って、ただ汚れていることが辛かった。


 彼女は綺麗だった。ひざまずきたいほどに。


 涙が滲みそうになる。

 城が壊れても母親が死んでも、たえ抜いたというのに。

 なんでいま、泣きたくなるのか。


 軍馬が大地を踏みならして、侵攻してきた。

 軍には大砲がある。たちまち大樹の幹が破壊され、巣に侵入されるだろう。戦っていた《光季》は殺されたのか、捕らわれたのか。あの純潔なる季節の女帝ならば、みずから死に絶えることを選ぶに決まっている。侯爵夫人のように。

 彼は、産まれたての季節を抱き締めた。産まれたばかりの季節は暴れもせず、ぼんやりと抱き締められるままに委ねる。さらりと水銀の髪が、地に垂れた。


「護る、から」


 この季節を護らなければならない。

 母親に託されたからではなかった。《光季》に頼まれたからでもなかった。わけなんて、すでにあってないに等しい。

 美しかったからだ。

 それが、あまりにも美しかったから、彼は。


「ぜったいに護る、護るから」


 意味がわかっているのか、わからないのか。

 産まれたばかりの季節はふわりと、微笑んだ。


 凄まじい衝撃があった。

 大樹を壊されたのかと思ったが、違う。

 地震だ。森が壊れる。大地が壊れる。この地域を加護するすべての季節が死に絶えて、遂に理が崩壊する。ぼろぼろと幹が崩れ、森の樹木がことごとく倒れて、軍もふたりも残らず、森の残骸に埋もれていく。

 なにかが落ちてきて、わき腹を貫いた。激痛と衝撃に意識を失っても、セツは護るべきものだけは抱き締めて、離さなかった。



 斯くして、彼は。

 すべてを季節に捧げたのだ。

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