第二十六譚 町は《冬》を終わらせない

 紅茶の瓶が指から落ちて、がしゃんと割れた。


「え……旅人、さんが……?」


 お茶の準備をしていたハルビアは、呆然と尋ねかえす。

 日が暮れ、旅人と隊の若者がもうすぐ凍えて、帰ってくるに違いない。凍えた身体を暖めるのには、暖かい飲み物がいいはずだと考え、彼女は用意していたところだった。だが帰ってきたのはエンダひとりだった。なにがあったのかと驚きながらも、震えている彼に取りあえず飲み物を、と茶葉の瓶を取ったところで、ハルビアはにわかには信じたくない報せを受けた。


「旅人さんが死んだとはどういうことですか……!」

「いま言ったとおりだ。旅人は氷狼ヴォルガの群に襲われて死んだ。遺体を取りかえそうとしたが、氷狼は飢えていた。天候も崩れ始めていて、隊が襲われたらひとたまりもなかった。だからしかたなく、帰ってきたんだ」


 一言一言を染みこませるように、エンダは旅人の最期を報せた。

 ハルビアは傷ましいほどに青ざめていた。

 激しい衝撃を受け、それでも懸命に声を荒げないようにこらえているのが、車輪を握り締めた指の震えから読み取れる。指は次第に血が通わなくなり、死者のような紫に変わる。


「貴方がいたのに、なぜ縄張りなんかに」

「縄張りが拡大していた」


 エンダはやけに落ち着いていた。


「助けられなかったんだ」


 違和感がある。無理に感情を凍りつかせているような。


「あなたは」

「俺は、なんともない」


 エンダからは、薬のにおいがしなかった。彼は負傷していない。旅人だけが襲われた。

 考えれば考えるほど、違和感が膨らみ続けた。


「いったい、なにを隠しているんですか?」

「隠してなんかない」


 エンダの濁った瞳を覗きこめば、あきらかな怯えが滲んでいた。

 ハルビアは首を横に振って、声をあげた。


「うそです! だっておかしいじゃないですか! 貴方は怪我をしていない。氷狼の群に襲われたなら、貴方は負傷して帰ってきているはずです。傷ついてほしいわけじゃない。けれど、貴方は優しいひとだから。旅人さんのことを、好くは思っていなくても助けようとするもの。そうしなかったのには、なにか理由が、あるのでしょう?」


 段々と声は勢いを衰えさせて、最後にはか細い囁きにまで落ちた。


「ねえ、どうか、わたしに話してはくれませんか? 貴方はなにを抱え込んでいるの?」


 ハルビアがエンダの手を取ろうとする。

 だが、エンダはびくりと肩を震わせて、彼女の手を振りはらった。あんまり乱暴に払い落とされたので、ハルビアは驚いて、呆然となる。振りはらわれたてのひらに視線を落として、ハルビアは痛みをこらえるようにぎゅっと眉を寄せた。

 それをみて、エンダは正気に返る。


「ごめん! いたかった、よな? 悪い……」


 エンダが慌てた。柔らかな手は赤くなっていた。じきに腫れるだろう。


「あ、あぁ、ごめん、そんなつもりじゃ」

「だいじょうぶ、だいじょうぶだから、ねえ」


 ハルビアは濡れた瞳で、エンダをふり仰ぐ。


「教えて。貴方を、そんなにも苦しめているのはなに?」


 彼を責めるのではなく、気遣う声だったから。

 ぐらついていたエンダの精神が、遂に崩れる。


「あ、俺は、だって」


 エンダは手袋に覆われたてのひらで、自身の顔を押さえて後ろに後ずさった。どんと食卓にぶつかり、蔓を編んだかごに置かれていた焼き菓子がひっくりかえる。隊の若者に喜んでもらいたいと焼かれた菓子は、無残にも靴の横に散らばった。


「だってよごれちまう、から……俺なんかに触れたら、おまえが」


 うろたえながら、エンダは言葉をはきだす。ハルビアには言っている意味は理解できないが、彼が尋常ではなくなにかに怯えているのは確かだ。


「どういうことですか?」

「あ、あ、おまえの為だったんだ……!」


 思わずと言った様子で、エンダはそう言った。

 言葉にしてしまった後に彼は口を押え、失言を悔いるように頭を横に振る。


「わたし、の……なんのことですか? いったい、なんの」


 ハルビアが震えあがった。

 尋ねながら、彼女はその意味を予期している。なぜ、幼馴染がこれほどまでに怯えているのか。なにが彼女の為だったのか。旅人がどうして急に死んだのか。だが受けいれられなかった。受けていれてしまったら、彼女はたえられない。どうか予感が違っていてと願いながら、ハルビアは繰りかえす。


「ねえ! 教えてちょうだい!」

「おまえと! 町を、護る為だと……長さまが!」


 エンダが喉をつぶすほどの声をあげる。それから急に声は萎む。


「……俺は、人を殺したんだ」


 いまさらその事実に気がついたような。


「人を、殺しちまったんだよ、どうしたらいい……俺は」


 彼が旅人を殺したのだと理解して、ああと、嘆きだけがハルビアの喉を濡らす。

 エンダを責めることはできない。こんなに傷ついている彼をなぜ責められるというのか。


 いつだったか、幼い頃にふたりして遊んでいるうちに帰り道がわからなくなって、夜の森で遭難してしまったことがある。身体は凍え、体温は奪われ続け、野生の獣にいつ襲われるかもわからない。おそろしかった。泣き続けるハルビアをおんぶして、エンダは励ましながら歩き続けてくれた。無理をしていたのだろうけれど、頼もしかった。


 そんな彼がいまは、項垂うなだれて、震えている。


 ハルビアはたまらずに車輪をまわして、エンダに抱きついた。

 厚い生地の服に頬を押しあてて、ハルビアは泣き始める。


「ごめんなさい、私の、せいです。私が、春を望んだから、彼らに冬を終わらせてほしいと頼んだから。だからこんなことになってしまって」


 エンダは驚かなかった。


「おまえが、悪いんじゃない」


 エンダはハルビアを抱きとめようとする。

 だが結局はその手を肩に添えることさえできず、強張こわばった指は暖炉の熱気ばかりを掻く。エンダは抱き締めることを諦めて、だらりと腕を垂らす。


「けれど、私のせいで、あなたは」

「おまえはなにも知らなかったんだ。ただ、春をみたかった、だけじゃないか。俺には、理解できないけれど。それは、悪いことじゃない、だろ」


 純真なる憧憬どうけいは無実だ。けれど許されなかった。

 この冬に護られた町では、春を望むことだけはあってはならなかったのだ。

 細やかな望みの代償は重い。


「俺だって、長さまから聞かされたばかりで、なにがなんだか」


 エンダはまだ、頭の整理がついていないのだ。


「けれど、他にどうしようもなかったんだ。おまえの先祖が……だから、春が甦ったら、かならずおまえに復讐するって。俺はただ、おまえを護りたかったんだ」


 また顔を覆い、彼は嘆いた。


「俺は、俺も悪く、ないよな? 俺は」


 彼は怯えていた。

 誰に頼まれていようとも、いけ好かない旅人だろうとも、人を殺してしまった事実に変わりはない。その業の重さにも変わりはないのだ。彼はそれを理解していて、だからいまさらにすくんでいるのだ。取りかえしがつかないことをしてしまったのではないかと。

 浸みだしてきた血潮が彼の精神を侵していく様が、ハルビアには手に取るばかりだった。

 ハルビアはただ、エンダを掻き抱いて、夜が更けるまで泣き続けた。

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