第五章 季節を知らぬ町に《春》を

第二十八譚 僕だけの《季節》

 意識が浮かびあがった。

 長い夢をみていたと、セツはぼんやりと考えた。

 森の崩壊に巻きこまれ、彼は死にかけた。命を取りとめたのは師匠に助けられたからだ。

 曖昧な意識のままに目蓋を持ちあげると、誰かがこちらをのぞき込んでいた。煙草の香りがふわりと漂った。セツはそれを一瞬、紫の瞳を輝かせた美女と見違えた。


「師匠……なんで」


 言いかけて、セツは気がついた。

 師匠ではない。師匠がいるはずはないのだ。

 視界がぶれて、鷲鼻の医者が輪郭を結ぶ。寝台に横たわっていることを理解して、彼は吹雪のなかで気絶してしまったことを思いだす。


「あ、僕は、生きて」

「生きている。ずいぶんと頑丈なことだな」


 相変わらず不愛想だが、ヨウジュはすぐに言葉をかえしてくれた。

 どれくらい眠っていたのだろうか。身体は。痺れていて、触覚が戻ってきていない。凍傷になっていれば、最悪、脚か腕が斬り落とされている危険もあった。だが、まずは。


「クヤ、は……僕の連れの」

「無事だ。おまえが抱き締めているだろう」


 うながされて視線を動かす。

 最愛の季節は、穏やかな寝息を立てて、腕のなかにおさまっていた。

 ほっと安堵する。彼女は季節だ。気候に影響を受け、消耗することはない。だがセツが喋っていても起きないということは重篤だ。息をけるということは、季節の息吹を頒けるということだ。セツを延命するべく、あれから幾度繰りかえしてくれたのだろうか。あの時だって、師匠に助けられるまで、森の下敷きになりながら生き延びられたのは彼女のおかげだ。


「その小娘が君をここまで連れてきた」

「そうだったんですねぇ……あの、助けてくださり」

「礼はいらん、一度だけだからな」


 鼻に皺を寄せて、ヨウジュは不愛想に零す。

 病室は静かだ。待合室からも人の気配は漂ってこなかった。


「処置は終わっている」


 ヨウジュは机に積んでいた包帯や綿などを薬箱にしまった。くず箱に捨てられた綿は大量の血を含んでおり、よほどの傷だったのだと想像がつく。ヨウジュは棚に瓶を乗せていて、こちらには背をむけていたが、言葉を続けるべきかとなやんでいることが窺えた。


「なにがあったのかは、おおよそ想像がついている。死にかけた者に頼むことではないが、彼らを怨まないでくれ。君を憎んでおこなったことではない。彼らには彼らの事情があった」

「わかっていますよ。僕はなにも怒っていません」


 にこやかに流されると、それはそれで気味が悪かったのか、ヨウジュが振りかえる。


「あれだけの矢を受けてか? 君でなければ、死んでいた」

「そうでしょうねぇ。けれど僕は、彼らのを重んじます。人が決意をして、なにかを殺めるのは奪う為か、護る為のどちらかだと、僕は師匠から教わりました。自警隊長の彼は、決意の瞳をしていた。大事なものを護ろうと懸命になっていた。だから」


 ヨウジュが皺を寄せる。


「なぜ、そうまで君を傷つけたものを慮るんだ」


 セツはふふふと、息だけで笑った。

 腹まで震わせれば、まだ傷が開きかねないからだ。


「矛盾していますよぉ? あなたは、僕に町の若者を怨んでくれるなと言った。それなのに、僕が怨まないと言えば、あなたは皺を寄せて問い詰めるのだから」

「君は、ちょっとばかりおかしいのではないか」


 ヨウジュは案じるように尋ねてきた。嫌味は雑ざっていない。


「それは、僕にはわかりかねますが、僕はどなたのことも怨みませんし、憎みませんよぉ」


 セツは諦観を滲ませて、微笑んだ。

 一瞬、沈黙を挿んでから、打ち明ける。


「僕は、季節の所有権を巡る争いの果てに、故郷を失いました」

 

 ヨウジュが驚いて、息を飲んだ。


「故郷の軍も敵軍も変わらず、貪欲だった。愚かだった。季節を踏みにじり、奪いあい、みずからの野望を優先させた。結果、季節を失った地域は朽ち果てた。

 だから僕はなにひとつ、怨めなかったんですよ」

「どちらも怨んだのではなく?」

「人の身分では、なにも怨めるものがなかった。それだけのことなんですよ。人を怨む権利があるのは季節だけだと、僕はそう考えています。そうして季節は、人を怨まなかった。だから僕は、これからも怨まない」


 それは、彼が決めたことだ。

 ほんとうは怨みたかった。怨むことは楽だから。だが季節が怨まないのに、なぜ、彼が怨めるだろうか。それに彼が怨むならば、《彼の季節》もまた、人間を敵とするだろうことはあきらかだった。彼女は、彼を愛してくれていたから。

 彼の怨みを、この純真なる季節にかぶせるわけにはいかなかった。


 様々な激情に揉まれ、嵐の時を乗り越えて、彼は怨まないことを選んだのだ。


「それに僕は、人が季節を愛することを知っています。季節が人を愛することもまた」


 季節と地域に暮らすものが、互いを愛でれば、よい循環がもたらされるはずなのだ。だがそうならない地域もある。だから季環師がいるのだ。


「人の浅慮や欲望に嘆いてはいても、人は決してそればかりではない。僕は、そう考えています。季節を殺めることは、僕は、許せないけれど、事情があったのだろうと察するくらいは」

「君は人が好きなのか、嫌いなのか。どちらなんだ」

「僕も《人》だというだけです、残念ながら」


 医者は重く黙り、静かに首を横に振った。


「君の言っていることは、私には理解できん」

「そうでしょうね、そうだと思います」


 セツはまたひとつ、微笑んでから、ふと息をついた。


「怒るとすれば、彼女が僕のかわりに怒るでしょうねぇ。彼女はいつだって怒ってくれる。僕はそれが嬉しい。けれど彼女は、なにかを怨んだりはしません。彼女が怨んでいたら、今頃は中央都ちゅうおうとがなくなっていますよぉ」


 それほどのちからを備えているのだ。

 彼の腕で眠る、ちいさなお姫さまは。


「この小娘はいったい、なんなのだ」

「彼女は《僕だけの季節》です」


 ヨウジュは驚き、だが納得して頷いた。


「なるほど、そうだったのか」

「あなたは季節をみたことが?」

「いや。だが、どんなものかは古書に書かれていた」


 ヨウジュは机の真上に取りつけられた棚を差す。

 セツはクワイヤの眠りを妨げないように身体を起こして、棚に視線をむけた。

 病室の棚はちいさかった。待合室の薬棚のように立派ではないが、重要な物は揃っているようだ。いくつかの薬瓶の横には古書がならべられ、鹿に似た生物を象った置物が飾られていた。硬い樹木をけずった置物は素朴な暖かみがあり、素人が手掛けた物であろうと分かる。


「それはハルビア嬢の父親が、手がけたものだ」

「これを、彼女の父親が?」

「この地域の《春》を模った像だといっていた。古書に書かれていたようにかたちづくったのだとか。だが、そうか、君も驚くか。春に祟られている者が、春を模して、物を造る。趣味がよいとは言えない。当時は、私にも理解できなかった」


 けれど春に祟られた、いや祟られていると思い続けていた男は、春を怨むどころか、春にあこがれていたのだ。みずからを蝕む春に、なにを望み、どんな希望をかけたのか。あるいは、なにも望んだりはしなかったのか。その者の親友は、それをどんな表情で見続けていたのか。のみを打ち込むごとにかたちづくられていく《春》の木像。いまだに飾っているということは、思うところがあったはずだ。


「彼からすれば、とむらいの意だったのではないかと、いまとなっては思うのだよ。彼の、そう遠くもない先祖が《春》を殺したのだから」

「ハルビアさんはご存知なのですか?」


「昔から棚に飾っているからな。彼女は何度か「素敵ですね」と言っていた。だが父親が遺したものだとは教えていない。まして春を象っているなど、彼女は想像だにしていないはずだ。彼女はなにひとつ、教えられてはいない」

「そう、ですか。あなたも、彼女には教えなかったのですねぇ」


「そうだ。なにひとつ知らずに、天寿をまっとうするのが幸福だと思っていた。彼女の父親は、それで大層なやんだからな。彼女もまた、父親譲りの優しい娘だ。春殺はるごろしの真相を教えられれば、傷つくに違いない。それに、真実を知ったところで、できることなどないのだから」


「それは、経験からですか」

「ああ、できることなどなかった、最後まで」


 だから彼女にはなにひとつ、言わなかったのか。

 いや、彼女だけではない。真相を知っているものは町にはほとんど残っていなかった。不都合な真実は葬られ、冬ではない季節に意識をむけることもない。いまが平穏だからいいのか。それとも患いが蔓延しても、冬と死に遂げるつもりなのか。セツは考える。


「春が殺される前後、大規模な戦があった、という記録はありますか? 例えば、男爵の軍などと争ったとか」

「戦だと? いや、私は聞き及んではいない」


 不都合な真実とは春を殺したことではない。


 順番が逆だ。人間は戦の後に春を殺した。冬の砦に頼ったのか、あるいは戦の残骸を雪に葬りたかったのか。どちらもだろう。冬を終わらせてはならない理由はあの戦に関係するのだ。


 セツがヨウジュに尋ねた。


「あなたは、冬が終わらないことを望みますか?」

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