第12話 植物園 意識を殺す




 彼女が囚われたのは音だった。





 その後、大規模な集団睡眠により発生した諸々の後片付けを終え、僕が彼女に話を聴けるようになったのは夕方に差し掛かったころだった。


 僕は少し緊張する心を引き絞るようにして、植物園の扉を開く。


 玲瓏な歌声が、ぴたりと止まった。


「あら、先生」


 ころんと鈴が鳴るような音で笑い、彼女は傍らで眠る子供たちを眺めた。


「ごめんなさいね、子供たちを起こさないようにしてくださると助かるわ」

「ええ、もちろんです。僕の方こそ突然お邪魔してしまって」

「いいのよ。今日のことを聞きにきたのでしょう?」

「ええ」


 僕は軽く頷くと、彼女から少し離れて石畳の上に座った。


「私はここからあまり出ないようにしているけれど、今日はなんだか嫌な予感がしたから……外を見たら、案の定だったわ」

「助かりました、本当に」

「あら、私はじんに頼まれたからやっただけよ」


 平然と笑う彼女に、僕はそっと尋ねた。


「今日は……どこですか」


 彼女は慈しむように微笑んだ。


「下半身よ。全然動いてくれないわ」


 足が痺れてしまったの、と言うような口調で、彼女は軽やかに告げた。







 この病棟には歌手という仕事を諦めなければならなくなった彼がいるが、歌手になる前にその生命を絶たれてしまったのが彼女だった。


 高校三年生、歌手としての進路も決まり、上京する寸前になって彼女はそれを発症してしまった。不幸としか言いようのない事態に、彼女は軽やかに笑って病棟入りを承諾したらしい。


『だってそのほうがかっこいいじゃないの』


 彼女の口癖はそれだ。ことある事に、彼女は自分がどういう目にあったとしても、昔からそう言い続けたという。


 自分の、十八年間奪われたことのなかった夢を理不尽に奪われたときでさえ、彼女は自分という害悪を社会から遠ざけることがかっこいいのだと言ってはばからなかった。


 ただ、病棟内で自分の歌を知る人が誰もいなく、彼と違って夢を叶えることすらできないまま、自分の歌が人の意識を殺すのだという現実を知らされた彼女が。


 好意を伝えられない彼に「綺麗な歌だ」と笑いかけられたとき、人目をはばからず泣いていたことは。その彼が後に自分の「相性」であると判明したとき、彼と離れたくないと告げたことは。


 人を眠らせる歌を歌う彼女の、心からの願いだったに違いない。








 自分の思い通りにならないらしい下半身はそのままに、彼女は穏やかに笑っていた。その視線は植物園内にある窓に向いている。そこから歌を歌ったのだろう。

 

 彼女の歌は彼女をも蝕む。


 自分が意識を失わせた者達の時間を取り戻せとでも言うように、彼女は眠らせた人数に比例して体のどこかが動かなくなる。あるときは腕が曲げられなくなり、あるときは頬が動かず笑えなくなり、またある時は首から下が全く動かせなくなった。


 だから、彼女には病室がない。そもそも五階には、好意を口に出せない彼の病室と、彼女のための植物園しか存在しないのだ。あとは、耳の聞こえない子供たちのための集団部屋がひとつあるだけだ。


「突然だったから、どうしようもなかったのよ。窓際にいた子達も大勢眠らせてしまったし……」

「すみません。経緯はどうあれ、あなたの病気を利用する形になってしまいました。僕の監督不行届です」

「あら、いいのよ。久しぶりに沢山の人に歌を聴いてもらえて嬉しかったわ」


 僕は下げていた頭をあげた。彼女は変わらず笑っていた。

 彼女の歌は強烈すぎる。不思議なことに、彼女の歌は防音室を貫くのだ。最高機密の素材を使った防音扉ですら、彼女の歌は邪魔できない。

 耳を塞いだり離れていれば弱くなる音なのに、完全に防ぐことだけは、誰が何をやってもできなかったのだ。


 今日も、どうやら窓を閉めていなかった人が多くいたらしい。閉めていても眠ったかもしれないが、耳栓でなんとかなったのだから、おそらく窓を閉めていれば眠りに落ちた人の数は半減しただろう。

 彼女が、一時的な下半身不随に陥ることもなかったかもしれない。


「そんな顔はやめてちょうだい、先生。ひどい顔をしているわよ」

「……そう、ですか」

「大丈夫よ、私、全身動かなくなったことあるのよ?」


 ころころと笑う彼女は傍らで眠りこけている子供らを愛しそうに眺めた。


「いいのよ、先生。私は今幸せなのだから。かっこいいこと、できたかしら?」

「ええ、それはもちろんです」


 即答に彼女は再び笑った。


「紋白ちゃんは、大丈夫?」

「はい。あなたにとても感謝していました。青葉さんも、助かったと言っていましたよ」


 あのあと目覚めた彼女に事情を説明すると、涙を流して感謝していた。その姿に、植物を中途半端に生やした彼は珍しく狼狽えながら彼女の痣を消していた。


 彼女の父親は『錯乱状態』だったということで、どこか遠くの精神病院に入院する手配をしておいた。

 だが、この病棟への侵入者は一級の犯罪者として扱われるのが通例なので、これからも後処理に奔走しなければならないが。


「あの人に感謝されるなんて、なんだか変な感じねえ」


 僕は曖昧に頷いた。確かに、彼は紋白と呼ばれる彼女にしか優しさを見せないことで有名だ。

 それでも、どうやら父親のために泣くことまでした彼女の姿に少し思うところはあったのだろう。そのまま丸くなってくれれば、病棟内の懸念事項が少し減る。


 少し思いを巡らせたとき、植物園の扉が音もなく開いた。


「ああ、来てたのか、カウンセラー」


 子供たちを起こさないようにという配慮なのか、音も立てずに隣へ並び立つ仕草は慣れたものだ。彼は、耳が聞こえない子供たちに対しても普通の人間のように接する。そういう彼を彼らは慕うのだ。

 そして、彼女も。


「あら、お疲れ様、じん


 ふわりとあどけない表情で彼女は笑った。彼は怯んだように口をつぐみ、すぐに不機嫌そうに彼女へ近寄った。


「お前以上に疲れてるやつはいねえよ」


 言って、小さく寝息を立てる子供たちをてきぱきと運んでいく。あっという間にその場には座り込む彼女しかいなくなり、彼はその体も同様にすくい上げた。


「悪かったな、お前にやってもらうしかなかったとはいえ」

「あら、私はじんにまで謝られなきゃいけないの?」


 その言葉には少しの寂しさが含まれている。彼は何度か瞬いて、彼女の額に自分の額を合わせた。

 好意を行動でしか表せない彼は、彼女との距離がいつも近い。


「……相変わらず、お前の歌は綺麗だよ」


 ふっと微笑んで、彼はそう告げる。彼は彼女との「相性」を持っていて、彼だけが彼女の歌を聞いても眠ることなく意識を保っていられるのだ。それと同様に、刃と呼ばれる彼もまた、ほんの少しであれば彼女に好意を伝えることが出来るはずだ。

 しかし、何故か彼の病は不安定で、必ずしも症状が出ないとは限らない。だから、彼は「好き」とも「愛してる」とも言わず、彼女に対して「綺麗だ」と言う。

 彼女は軽やかに笑ってその首に飛びついた。


「先生、心配してくださってありがとう。でも私、大丈夫よ。だってこんなに幸せだもの」


 彼女の笑顔は花が咲いたようで、彼もいつもは見せない微笑を刻んでいる。


「そのようですね」


 僕は立ち上がって、そのまま静かに植物園の扉を開いた。二人に見送られ、躊躇いなく扉の外へ歩み出た。

 彼らの語らいが湖に浮かぶ波紋のように、僕の耳に残っていた。

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