第11話 敷地内にて 事件の日
その日は珍しく騒がしかった。
ばたばたと誰かが駆け回る音が聞こえ、いつもは綺麗な静けさに満ちているはずの病棟内に、ざわめきが広がっていく。
眉をひそめたとき、ちょうど出くわしたのは少年と少女だった。
「あ、先生」
二人同時に声を上げ、また同じように駆け寄ってくる。指先はまるで恋人同士のように繋がれていた。
同じ顔の男女は息ぴったりに足を止めた。
「どうしました、そんなに慌てて」
「どうしたもこうしたもないわよ、あなたこそどうしてこんなところでのんびりしているの」
「姉さん、そんな言い方はないよ」
いきなり飛び出した暴言に、僕よりも弟の彼の方が慌てふためいた。
しかし姉である彼女は弟をひと睨みして、変わらない口調で文句を言う。
「そんなこと言ってられないわ。大変なことになっているのよ? この病棟が騒がしかったとき、どういうことが起こっていたのか忘れたわけじゃないでしょうね」
「何か知っているんですね」
彼女の言葉には毒が混ざるが、正鵠を射ていることは多い。僕の問いかけに顎を強く引いて、彼女は端的に説明した。
「侵入者よ」
僕は目を見開いた。
病棟から門までの約二百メートル内が敷地内であり、病棟の患者はそこまでだったら自由に出歩くことができる。
今回は、それがどうやら裏目に出たらしい。
「返せ……返せ……」
僕が外に出たとき、それはもう既に起こってしまっていた。
執念というにはあまりにも儚げな姿で、一人の男が少女の前に立っていた。ひどく落ちくぼんだ目に映る陰鬱さから目をそらしたくなる。
どす黒い何かを声に
彼女は、顔を今までにないくらい白くして、その場に立ち尽くしていた。
「お、父、さん……」
ひどく沈痛な面持ちで、謝罪の言葉を吐く。
「ごめんなさい、お父さん……ごめんなさい……」
「返せ……」
「お母さんを、殺してしまって、ごめん、なさ──」
「返せ……!」
男は何もしない。ただ「返せ」と狂ったように呟くだけだ。
しかし、その手に持つ無骨なナイフは、いつ何時、少女の肌を食い破らないとも限らない。
僕は躊躇わず駆け寄ろうとして、瞬間、後ろから鋭く呼び止められた。
「先生! その人止めて!」
咄嗟に後ろを振り向いて、目を見張った。
窓から白いワンピースの少女が身を乗り出している。その視線の先にいるのは、今まさに犯罪を犯そうとしている不審者ではない。
影が舞った。
音も立てずに二階から飛び降り、ゆらりと身を起こした姿が太陽の元に晒される。
僕は一瞬で彼の機嫌の悪さを悟った。
腕から、足から、首から、普段なら制御が不可能なはずの蔦がゆるゆると伸びていく。まるで彼の手足のように。
あらゆる場所を苗床に植物たちは育つ。
彼は驚くほど早く歩いてくると、僕の横をすり抜けるようにして一言呟いた。
「邪魔しないでね、先生」
僕は植物だらけの腕を掴んだ。
「……それを、聞くと思いますか」
「なんで? あの人は
空虚な理屈を並べ立ててにっこり微笑んだ彼は、次の瞬間全ての表情を打ち消した。
「……自分で作っておいて勝手なんだよ。本当に嫌なら妻だろうと手を出さなきゃ良かったんだ。自分の欲望には忠実で、娘は生きるのすら許さないって? ふざけるのも大概にしてほしいよね。そこらの猫のほうがよっぽどきちんと親やってるよ」
「それでもです。これ以上彼女に罪悪感を植え付けるつもりですか」
彼の目が冷たく光った。
ここで彼女の父を殺せば、彼女はさらに罪の意識に苛まれるだろう。そして他の誰でもない彼がそれをやってしまえば、間接的に両親を殺してしまったと嘆く彼女に、寄り添える人間もいなくなってしまう。
「あなたは、駄目です」
一瞬僕と彼との視線が真っ向から交錯する。
しかし、その刹那。
「やめて、お父さん……!」
「返せ!」
吠えるような声がして、僕と彼はハッと同時に男を見た。激昂した男がナイフを振り上げ、彼女に突進していた。
間に合わない、と思った瞬間、隣の彼の手から物凄い勢いで蔦が伸びた。
その目に閃くのは殺意だ。僕は咄嗟に腕にしがみつく。
「離せ!
「駄目です!」
「お父さん!」
「返せ!」
悲鳴と叫びが入り乱れ、錯綜し、絡み合う。
全てが最悪に位置しようとしたそのときだった。
「いつくしみ深き────」
不意に、
その声は、音は、流れは、耳の中を貫き鼓膜を突き通して、脳に直接音を流し込まれているような感覚を僕に与えた。
ぐらりと頭が揺れる。決して痛くも気持ち悪くもない。が、恐ろしいほどの眠気が一瞬全身を駆け巡った。
「全く、駄目だなあ、先生は」
それが一瞬で済んだのは、窓際で僕に警告を発した彼女のおかげだった。
いつの間に来ていたのか、僕の隣に立った彼女は、粘土のような耳栓を僕の耳に嵌める。
僕は目を見開いた。
彼女は僕が嫌いなはずだ。
なのに、何故……
「勘違いしないでよ、先生……」
ただでさえ眠りやすい体をかしがせて、僕に寄りかかるようにして笑った。耳栓をしていても聞こえるくらい耳元で、囁く。
「この後始末をなんとかできる大人は、あなたしかいないでしょ……」
小さな体がゆらりと揺れる。ぷつんと糸が切れて眠った彼女を慌てて支えた瞬間、どさりどさりと立て続けに何かが倒れる音がした。
歌声はおそらくまだ響いているのだろう。耳栓が詰まっていて、くぐもった音は捉えられなかったが、言葉が空に放たれているのは聞こえた。
僕は首を巡らせてぎょっとした。外に出ていた僕以外の三人が倒れている。
彼と彼女は彼の蔦によって無事に受け止められ、男だけが無様に地面にのびている。ナイフは大地に突き刺さっていた。
これは、もしかして。
呆然としている僕の影が、誰かの影に押しつぶされた。
ぬっと目の前に目つきの悪い彼の顔が現れる。
『大丈夫か、カウンセラー』
手馴れた手話でそう聞いてくる。
僕は顎を引いた。彼がいるということは、やはりそういうことなのだろう。
『もうそれは外していい。霞の歌は終わった』
そんなことを言いながら、気を失うように眠ってしまった彼女を、僕の腕からすくい上げる。
僕は素直に耳栓を外した。
じっとりと手に汗をかいていることに、そこで気づいた。
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