第10話 222号室 心が軋む





 彼女が恐れているのは想いだった。





「よろしくお願いします」


 ぺこり、と頭を下げて、彼女は花が咲いたように笑った。

 真新しい高校の制服が風になびく。

 僕が軽く会釈をすると、彼女は照れ笑いでスカートの裾を引っぱった。


「すみません、これしか服、なくて」

「構いませんよ、病棟の中で揃えられます」

「あ、そうなんですね。良かった」


 事前に聞いてはいただろうが、やはり信じられなかったらしい。病棟の中にアパレルショップがあるなどとは。


「あなたの病室は二階になります。荷物はもう運んでありますので」

「はーい」


 にこにこと微笑みながら、彼女はちょこちょことついてくる。気安いようでありながら、どこか一歩引いた雰囲気だ。

 僕は歩きながらぽつぽつと病棟での生活について話し始めた。


「基本的にこの病棟の中なら好きに過ごせることになっています。生活に必要なものはすべて揃っていますし、ネットなども使ってもらって構いません……ああ、それから」


 くるりと後ろを振り向いて、僕は不思議そうな彼女に向かって微笑んだ。


「ここでは、本来の名前は捨てることになっているんです」

「名前、ですか?」

「はい。慣習みたいなものですね。新しい名前をつけるんです」


 すると、彼女は僕の言葉を咀嚼するように少し黙り、むむ、と口に拳を当てた。


「と、言われても……私、全然思いつかないんですけど……みんなどんな名前つけてるんですか?」

「そうですね……良ければつけてもらいに行きますか?」

「え?」


 きょとんとした顔で、ぱしぱし、と瞬く。

 見慣れた表情を見返して、僕はついてきてください、とだけ告げた。


 彼女は不思議そうに頷いた。







 前方に見えてきたのは、どこか清廉な雰囲気の漂う建物だ。

 彼女が首をひねる。


「あれ……何ですか?」

「教会ですよ」

「教会!?」


 驚愕に目を見開いた彼女に向かって、僕は端的に説明する。


「最近出来たんです。この病棟に棲む人から要望がありまして」


 この病棟は、「病棟」という名称ではあるがその実、規模は大学二つ分ほどに相当する。

 何しろここに棲む彼らは殆どが思春期の子供たちだ。そろそろテーマパークのひとつでもできそうな勢いらしい。


「そんなものまで、作っちゃうんですか……」

「富豪からの寄付は年々増えていますからね」


 ここに棲む彼らは、それだけ興味の尽きない存在ということだろう。

 初めて見る規模の教会なのか、彼女はひたすらに色々な場所に視線を飛ばしている。

 僕は無言で荘厳な扉の前に立つ。


「こちらですよ」

「あ、はーい!」


 彼女は呼びかけに素直に答え、くるりと表情を変えた。どこか作り物めいた笑顔だった。


 僕はふいっと視線を逸らして、ぎい、と扉を押し開ける。清涼な空気が鼻腔びくうを通り抜けた。


 そして。


「え────?」


 僕の後ろで、彼女が間抜けな声を出した。


「天使……?」


 思わず、というような呟きに返されたのはひどく冷たい吐息だ。


「……聞き飽きたな、そういう評価」


 彼女はびっくりしたように目を見張る。それはどう見ても日本人ではない彼が流暢な日本語を話したからか、はたまた人形のような彼が人間の言葉を話したからか。


「そもそも、天使ならそんな罰当たりな場所には座らないでしょうね」


 僕がため息をつく。彼はニヒルに笑って、「違いない」と大人びた表情で呟いた。

 彼が座っているのは教会内の大きなステンドグラスの真下、祭壇の上だ。本来神父が祝詞を唱える場所を踏みつけにして、片膝を立てて座っている。

 だが、彼の異様さはそれだけではない。


 一言で言えば、彼はひどく美しいのだった。


 さらりと絡まることなく流れる金髪に、淡く透き通るような青い瞳、きめ細かな白い肌はまるでビスクドールのよう。すっと通った鼻梁ひとつとっても、決して触れてはならない神聖さを感じさせる。彼自体がそのままひとつの芸術作品のようだ。

 極めつけに、四方八方から照らされる彼の影は後ろへと伸び、翼のような形を保っている。


 天使と見まごう美貌の持ち主────究極の、人外じみた美しさがそこに鎮座していた。

 憧れだの、恋愛だの、そんな対象にすらなり得ない。人が触れてはならないものに見える。


「全くおかしな連中だよ。天使がこんなところにいるわけないっつのに」


 小さく笑った彼を、彼女はぽかんと見つめる。


「えっと、あの、先生……?」

「ああ、彼のそばに行ってやってください」

「え? あの……」

「大丈夫です、取って食べたりはしませんよ」

「先生は俺のことなんだと思ってんのかねえ」

「カウンセリング対象ですね」

「……そういうとこだよなあ」


 からからと笑う彼と僕とを交互に見つめて眉を下げていた彼女だったが、やがてゆっくりと足を踏み出した。ヴァージンロードのようなカーペットの上を恐る恐る進んでいく。


 彼はその姿を見とがめて、ゆっくり首を傾けた。


「ふうん……?」


 彼の目の前には程遠い、三メートルは離れた場所で彼女は立ち止まった。

 そして、そこから動けない。

 彼は面倒そうに首を回すと、ふわりと重さを感じさせない動きで祭壇から飛び降りる。


 すたすたと躊躇いなく近寄られて彼女は少し身を引いたが、彼はものともせずさっと腕を掴んだ。彼女が悲鳴をあげかける。


「逃げんなよ」

「あまり怯えさせないでください。あなた、前に来た子を泣かせたでしょう」

「……わーってるよ」


 僕はため息をついた。

 彼の神聖さは人を怯えさせる。

 彼は学んでいるのかいないのか、その端麗すぎる顔を触れるくらいまで近づけて、彼女の瞳を覗き込んでいた。


「ふうん……お前、嫌いなのか、それ」


 言って、彼はニヒルに笑う。


「それ、って……」

「それはそれだよ、お前の力。いや病気か? 難儀なもんだよな、奇怪病ってのは」


 他人事のように彼は言う。彼女はまつ毛を震わせて少し俯いた。


「わ、たし、は……」

「ん? ああ……わーってるよ、心配しなくても、きちんと名前はつけてやる。その為に、見せてくれって言ってんだ。お前の中を見ねえと、その病気がなんなのか分からないだろ?」


 煙に巻くような物言いの彼に困惑の瞳が向けられた。

 すると唐突に、じいっと観察していた彼はぽつりと呟いた。


「……そうか、まあ、嫌だよな。自分が自分でなくなるってのはよ。嫌悪だけならまだいいけど、好意まで共感するとなると、それは苦痛だな」


 少女は驚いて目を剥いた。


「どうして……」

「どうして? 話してりゃ分かる、そんなものはな。苦痛だろうよ。自分の中にある好意が、自分の中から生まれたものじゃないかもしれないなんてのは」


 そうやって、壊れてく奴が多いんだ。

 呟いて、彼はぐるりと視線を巡らす。彼女もつられて視界を動かして、そして。

 瞬間、ふるりとまつ毛を震わせ……はらりと、一粒の雫を頬に流した。

 彼がちょっと目を見開いて、決まり悪そうに僕を見る。


「あー……これは俺のせいじゃないよな、センセイ?」

「あなたのせいでしょう、どう考えても」

「どうして……」


 彼女は涙を流しながら、呆然と呟いた。


「私、どうしてこんなに、悲しいの──?」

「あー……? ああ、まあ、そりゃなあ……」


 がしがしと頭をかいて、彼は唇の端を歪めた。


「こんなところに閉じ込められて、壊れていった奴らがここには死ぬほどいるんだからよ。悲しいのは普通だろ。それから」


 お前のそのも、普通だよ。

 言って、彼は慈しむように一度上を見上げた。


「まあ変ではあるけどな。ここじゃあ変なことが日常だ」


 彼の笑顔に彼女は首をかしげて、そのあとすうっと、涙を止めた。





 彼女の病気は、新月の日には拘束服を着ている彼女よりも分かりにくい。

 というより、「異常」を認めてもらいにくいのだろう。彼女自身も最初はあまり気づかなかったという。


『だって、ドラマを見て泣くのも、誰かが笑っているのを見て嬉しくなるのも、普通ですから』


 彼女は寂しげに笑っていた。


 その異常性が発揮されたのは、彼女が大通りで通り魔に遭遇してしまったときだった。

 彼女自身が被害者になったわけではなかったのだが、間の悪いことに、そのとき通り魔の男が叫んだらしい。


 ────お前ら全員、死んでしまえ────


 スーツ姿の男は涙を流しながらナイフを振り回し、呪詛にも似た言葉を零した。

 そしてそこで感じたのは、高校に入学したばかりの彼女にとって、全く馴染みのない「思い」だったという。


 理不尽なことを押し付けられ、怒鳴られ、馬鹿にされ、裏切られ────何を考えても裏目に出て、信じてくれていた友人も離れていき、何も出来なくなる。

 何をしても無駄な気がして、それなのに無気力でいることすら罪な気がして。努力をしても糾弾されて、痛みを訴えても鼻で笑われ。


 怒り、悲しみ、嘆き、苦しみ、痛み。

 全てがどろどろと煮詰まり、最終的に悪意へ収束していく、そのさまは。


『あれが働くって、こと、なんでしょうか…………でも、あれはただの、地獄でしたよ』


 過呼吸を落ち着かせた後で彼女は語った。

 その腕には、元は自分のものではなかった殺意を抑えるためにつけた爪痕が、痛々しいくらいの生傷を作っていた。


 もちろん、精神科に行くことも勧められたらしい。けれど、通り魔事件の前にも一度カウンセリングを受けていた彼女は、二度目の受診を拒否した。

 感受性が強いのですよと、まるで判を押すように同じことを言われ続け、いくら規模が違うと言っても信じてもらえなかったのだという。


 だから、彼女は文通をしている親戚のいるこの病棟に来ようと思ったのだ。そうして、親にも友人にも言わず、彼女は一人きりで検査を受けに来た。


 彼女は人に侵される。人の、感情に侵される。

 周りの人間が発した強い感情に相対したとき、喜怒哀楽関係なしにそれらは彼女の中へと流れ込む。さながら幽霊に憑依されたかのように、自分のものではない感情に、心を侵食されていく。

 彼女が感じているものは、彼女の感情なのかどうか。それを一番疑っているのは彼女自身だ。






「お前は『未感みかん』だ」

「え?」


 涙は止まったものの、まだ呆然と頬を濡らしたままの彼女は首を傾げる。

 少年はふっと微笑んだ。


「俺はまあ、そんなに悪い病気でもないと思うけど。でも、お前は嫌なんだろ? だったら、お前の名前は『未感みかん』だ。言葉には言霊が宿るし、名は体を表す。手に描いた線が手相になるなら、お前に付けられた名前はお前になるだろう」


 不思議と心地よく響く、納得させられてしまうような声音。少女は少し黙って、こくりと頷いた。


「あの……ひとつ、聞いてもいい?」

「あ? なんだよ」

「今の…………どうして私は、悲しかった、の?」

「言っただろ。この教会には壊れた奴らが大勢来る。生きてるのも、死んでるのもな。俺がいるから」


 それは自信というには到底暗すぎる、少しの罪悪を含んだ言葉だ。


「それらに染み付いた思念が、残ってんだろうよ」


 ふっと慈しむように彼は上を見上げた。


「だから、俺はずっとここにいなきゃならないんだよ。俺が惹き付ける。お前もここに来たってことは、何かしら壊れてるってことだ。まあ、壊れてない人間なんていないと思うけどな」

「意味が、よく分かんない、けど……」


 難しい顔で少し黙考し、彼女は淡く微笑んだ。


「君が悲しいんじゃないなら、良かった」


 少年はびっくりしたように目を見張って、達観した微笑みを見せた。


「涙なんて、枯れきって久しいよ」


 もう行きな、未感。

 そう言って、彼は手をひらひらと振った。そろそろ頃合だろうと、僕は荘厳な扉を開く。重々しい音にはっとした彼女はすぐに後ろを振り向いて駆け出した。


 そのまま扉にたどり着いてから、彼女は半身だけ振り返って、祭壇に上り直した彼を見た。


「ありがと、天使さん」

「……だから、天使じゃねえっつの」


 言いながらも、彼の口元には笑みが刻まれていた。


 僕は一礼して扉を閉める。閉ざされた教会の中、彼はいつも通り、神の御前で眠るのだろう。


「あれ、あの人……」


 先に出ていた彼女が、教会を背にぽつりと呟いた。

 僕も振り返って、ああ、と告げる。


「彼に、病棟内の案内を頼みましたので」

「え、本当ですか!?」


 目を輝かせた彼女はくるりと笑顔を乱反射させて、弾丸のように駆けていく。


「あ、先生、ありがとうございました! もう大丈夫です! あの人に案内してもらってきます!」


 満面の笑みで足を繰り出し、彼女は彼の胸元に飛び込んでいった。ぐらりと体を揺らした彼だが、それでも鍛え抜いた体幹は動かない。

 苦笑するように笑う彼と花が咲いたように笑う彼女に、僕はひとつ、礼をした。


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