第9話 501号室 言葉を貫く
彼を縛り付けているのは好意だった。
彼は人前に出たがらない。だから、病室も五階などという幾分か遠い場所にある。基本人とは話さないし、ほとんどの人とは関わらない。それが常だ。
綺麗に磨かれたリノリウムの上を、無気力にぺたぺたと歩く猫背の彼を見つけた。
「あ」
「あ?」
「いえ、お久しぶりです」
ぺこり、と頭を下げ、同時にいつもより深々とお辞儀をする。これくらい慇懃なほうがいいのだ。
「……いつもいつも丁寧だな、お前は」
ぐっと眉間にしわをよせ、彼は面倒くさそうに告げる。恐らくこれは「いつも丁寧にどうも」と言っているのだろう。多分。
僕はあの彼女ではないので、自信はないが。
ついてこい、と言って、彼はまたぺたぺたと床を歩きだした。成人したばかりだというのに不良らしい雰囲気の彼は、意外とこの病棟の子供たちから好かれていることを知らない。
まあ、きっちり病院服を来ているあたりからして真面目な雰囲気が見て取れるからだろう。その認識は間違っていない。彼は根は真面目なのだ。
「遅せぇよ」
「ああ、すみません」
謝るが、彼は舌打ちをして僕に歩幅を合わせてきた。男だが平均女性程度の身長の僕には、百九十センチを超えそうな彼の歩きについていくことは難しい。
彼は無言のまま歩きに歩き、やがてある場所へとたどり着いた。
そこは庭園だった。庭園、というより植物園と言ったほうがいいかもしれない。ところせましと植えられた植物は硝子張りの天井から降り注ぐ光に照らされてすくすくと育っている。
中心は石畳でできたちょっとしたサークルになっていた。円状に敷き詰められた平らな石は一寸の隙間も歪みもなく、綺麗にならされている。
そこに、一人の少女と五人ほどの子供が存在していた。子供たちは全員眠っていて、ただ一人、そこに存在する少女の周りに円を描くようにして横たわっていた。
子供たちの中心で少女が歌っている。目を閉じて、その場に座り込み、聖母のような顔で子供たちの頭を撫でていた。たゆたう水のような、燃え盛る業火のような、寂しげな木の
僕は、子守唄のようなそれに欠伸をひとつ噛み殺した。
そのとき足音で気づいたらしい。彼女はぱっと歌うのをやめる。
ゆるりと目を開いて、にこっと微笑んだ。
「ごきげんよう、先生」
「はい、こんにちは」
ぺこりと頭を下げる。彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「
「ああ」
「ありがとう」
「ああ」
彼は無機質な機械にでもなったかのように相槌を打つだけだ。しかし彼女は気にもせずにゆっくりと立ち上がる。その瞳に映っているのは紛れもなく彼への愛情だった。
「じゃあ、よろしくね、刃」
「……は?」
彼は素っ頓狂な声を上げた。僕はおや、と目を動かす。何やら問題があるようだ。
何故か狼狽え始めた彼とは対照的に、彼女は優雅に微笑んでいる。
「せっかく先生が来てくださったんだから、存分に話しておいたほうがいいわ」
「は……いや、おい、待て、
「あら、なあに?
鼻を鳴らして胸を張りつつ彼女は優雅に立ち上がり、彼の横をすり抜けた。ついでに僕の横も。
「じゃあ先生、よろしくお願いするわ」
まるで妖精のような軽やかさで彼女は植物園から抜け出て行ってしまう。あとに残されたのは僕と呆然とする彼とすやすや眠る子供たちだけだ。
彼はしばらくぽかんと口を開けていたが、じわじわと状況を理解したのかいつの間にか額に手をやっている。
「……おい、カウンセラー」
「はい」
「あいつから、今回のカウンセリングのことはなんて聞いてんだ」
「依頼をしたのは彼女ですが、迎えに来るのとカウンセリングを受けるのはあなたであると聞いていました」
「くっそ、策士め……」
一層頭を抱えて蹲り、彼は深く長いため息をついた。
どうやら騙されたらしいことは僕にも分かった。
彼は動かない。
「本意でないのでしたら、今回のカウンセリングは終了にすることもできますよ」
「……中止じゃなくて、終了にするって言ってくれんだな、お前は」
人一倍言葉に敏感な彼は、僕の言葉尻を捉えてそう言った。僕には大して違いもないように思えるのだが、彼の中では何かが違うらしい。
彼はしばらくその格好で硬直していたが、やがてゆるりと僕のほうを見た。
「適当に座れよ。チビ達起こすんじゃねえぞ」
「分かりました」
ひとつ頷いて、僕は石畳の上に腰を下ろす。彼は奥のほうにあるピアノへと歩み寄り、黒い椅子にぎっと座った。
「……いいんですか? 本当に、終了にしても構いませんよ」
「いや、いい。お前だってわざわざここまで来たんだろ」
仕事ですから、と言おうとして、僕は口を閉じた。意外と頑固な彼にはあまり意味が無いように思えたし、これ以上この話題で話をし続けるのは得策ではないようにも思えた。
では、と僕はカウンセリングを始めることにした。
「つっても、カウンセリングなんて何話しゃあいいのか分かんねえな……ここ最近は
「なんでも構いません。カウンセリングとは言いますが、僕は雑談相手のようなものですから。もちろん、何も話さなくても構いません」
「はっ、そりゃいい」
彼は皮肉げに笑う。これが彼の通常の笑い方なのだと僕は知っていた。
ひとつ息をついて、長い指を鍵盤に置いて、彼はぽつぽつと音を奏で始めた。
彼が乱暴そうに見えるのは事実だ。恐ろしく、不良っぽく見えることも。しかし本当の彼がこの病棟の中で一番臆病で、無欲で、優しいことは誰もが知っていた。
声を失うことを恐れる彼より、恋人に会うこと以外を願わない彼女より、幼馴染のために眠らない彼より、誰よりも。
だから、ここの病棟に棲む人々は彼にはなるべく近づかない。それが彼のためなのだと誰もが分かっているからだ。
彼には好意を伝える
彼は話さないわけではない。彼には好意という感情がないわけではない。
『こんなことなら、俺は人を嫌いになりたかった』
彼はそう言って泣いていた。親に捨てられ、友に泣かれ、恋することすら恐れなければならなかった彼は、それでも世界を愛していた。案外、それが一番残酷だったのかもしれない。
人を嫌うことが出来たなら。
世界を呪うことが出来たなら。
好意を言葉に出した瞬間、全身を激痛に襲われることも、きっとなかったに違いないのだ。
「なあ、普通のやつは、好きな奴に好きって言えないってのは本当か?」
ピアノを奏でながら話をするという高度な技をやってのけながら、彼はぽつんと問いかけた。
僕は言葉を探しながら返す。
「人によりますが、大多数の人はそうなのではないでしょうか」
「なんでだ」
「そう言われると難しいですが……」
僕は指折り数えながら可能性をあげていく。
「恥ずかしいから、というのが一番ではないかと。どんな関係性でも恥ずかしさはあると思います。あとは、今までの関係を壊すのが怖いから、でしょうか」
「なんで好きって言っただけで壊れるんだ?」
「そうですね……好きというのは必ずしも、純粋な好意を伝えるためだけの言葉ではないからです。好きと口に出すことは、『あなたと恋人関係になりたい』という意思を示しているのと同じことがあります」
「ふうん……」
彼はよく分からなかったようだった。それはそうだろう。物心ついたときからこの病気に侵されていた彼には、好意を伝えて関係を構築することがまず困難なのだ。
彼は、無表情ともどこか違う、ぼんやりとした瞳で柔らかく白と黒の間に指を踊らせている。
クラシックだろうか。僕には歌詞がなさそうだということしか分からない。
「俺さあ、一回あいつに怒られたことあるんだよ」
迷子の子供のような声だった。
「決死の覚悟で好きって言ったのに、あいつ泣いて、俺に『そんなこと言われなくてもわかってる』って……」
それが誰のことを指すのか、分からないはずもなかった。
彼は、人生において数度、人に好意を伝えたことがあるらしい。
それは親だったり友だったり、結局はもう交流を持っていない人々が大半なのだが、一番最近に好意を伝えた人は今彼の一番近くにいる。
この病棟に入った彼と彼女が出会って五年ほど後のことだった。尋常でないほど彼が苦しんで、病棟付きの医師が訪れたことがあった。それが、彼が彼女に好意を伝えたときだったのだ。
「呼吸すら出来ねえくらい酷くて、覚悟してたのにすげえ痛くて……あいつ、そんとき泣きながら俺に、『言わなくていい』って……」
全身を貫かれる痛みというのは、激痛とも呼べないものらしい。串刺しが一番近いのだと十にも満たない子供が告げたとき、医師たちは何を思ったのだろう。
彼は音楽を奏でつづける。すやすやと気持ちよさそうに眠っている子供たちは皆耳が聞こえない。彼女を除いて、彼に積極的に近づけるのはそのような子供たちくらいだからだ。
彼はなにかに取り憑かれた、というには優しすぎる音色を宙に浮かべている。
「なあ、カウンセラー」
「はい」
「……俺、あいつのことが好きだと思うか?」
透明な水面に、ぽつんと不安が一粒。
「あいつを、まだ、好きだと思うか?」
「それを、僕が決めたら、あなたは納得するんでしょうか?」
ぐっと彼は唇を噛み締めた。泣きそうに顔を歪める。
「じゃあ、どうすりゃいいって言うんだ……!」
彼は、好意を伝えることが出来ない。
好意を、確かめあうことも。
それでも彼は彼女と離れられないのだ。彼女は彼には大きすぎた。
「俺は、俺はっ……言葉にした瞬間、全部駄目になる……!」
英語も、フランス語も、イタリア語も、ラテン語も。
あらゆる言語を試したという。それでも、駄目だったのだ。
彼の体は『感情』に反応する。夢の中ですら痛むほどに。
あくまでも声を媒介にしているからか筆談ならば可能なのだが、声があるのに言えないことは、酷くもどかしいのだろう。
人はそう簡単に恋心を伝えられるものではないが、それを封じられることが幸せなはずはない。
「俺はっ……!」
ぐぎゃんっと奇妙な不協和音を響かせてから、彼は椅子の上に足を抱えて座り込んだ。言葉を飲み込み膝を抱え、その姿はまるで蛹のよう。
ふーふーと荒い息をつき、どうにも出来ない心をなだめている。
僕は黙って彼を見ていた。彼に自分が何をしてやれるとも思えなかった。
すると不意に、僕の視界の中で何かが動く。
一人の少年が目を覚まし、くしくしと目元をこすって迷いなく彼を見た。そうしてさっと僕を見て、また彼を見て……とてとてと、彼に近づく。
言葉を話すこともなく、少年は一生懸命に手を伸ばして彼の裾を掴んだ。
弾かれたように顔を上げ、彼は呆然と少年を見る。
少年はその左右対称な顔を心配そうな色に染め、おずおずと手を胸の前に持ってくる。
お椀を持つような形にした片手を左右に揺らすと、次いで指先を揃えて彼を指し示した。
『痛い、の?』
たどたどしいながらもはっきりと手話で問いかける。彼は自分に比べてひどく小さな手を、恐る恐る掴んだ。
「痛く、ねえよ、大丈夫だよ」
言いながら手話で返す。少年はふにゃりと笑って、躊躇いなく彼の腰に抱きついた。ぐらりと一瞬体をかしがせたものの、彼は足を下ろして体を支えた。
おっかなびっくり、少年の頭に手を乗せる。
にこにこと屈託なく笑う少年は、猫のように目を細めた。彼は泣きそうだったのを無理やり歪めたような笑顔で、頼りなさげに、少年の頭を撫でつづけた。
少年が起きた気配に感づいたのか、次々に子供たちが起き始める。
そして全員が、吸い寄せられるように彼の元へ集まるのを横目に、僕はひとつ礼をして、静かに扉をくぐった。
彼に必要なのは僕の言葉ではなくて、言葉がなくとも愛情を伝えられる存在だ。ならばあの子供たちが起きた時点で、僕の役目は終わっているのだ。
「あら、先生、終わった?」
「ええ、終了しました」
扉の前で待っていたらしい彼女が、優雅に黒髪をなびかせて笑う。
「助かるわ、先生。こうでもしないと、あの人、いつか壊れてしまうもの」
水が流れるような滑らかな声が耳を通り抜けていく。彼女は躊躇なく僕が出てきた扉に手をかけて、ひらりと手を振った。
「これからもよろしくお願いするわ、先生」
「ええ、それはもちろんです」
良い夢を、と呟いて、彼女はするりと扉の奥に消えていく。僕はそれを数拍の間じっと見つめて、踵を返して歩き始めた。
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