第8話 146号室 色を変える
彼を辱めているのは色だった。
「あ。先生」
前方からにこにこと笑顔を振りまいて駆けてくる少女がいた。今日は拘束服を来ていない。
「こんにちは! いい天気だね」
屈託なく笑う顔はこの前の憔悴しきった顔とは別人のようで、僕は今日がなんの日なのかを思い出した。
「なるほど、今日は満月でしたか」
「そうなのそうなの! しかもブルームーンなの!」
ブルームーンだと何か違うのだろうかと思ったけれど、違うのだろう。僕の手を握ってはぶんぶん振り回し、物凄くはしゃいでいる。
「先生は、どこ行くの?」
「あなたの幼馴染のところですよ」
短い返答に彼女は少しだけ目を見張り、きょろきょろと周りを見回してからちろっと舌を出した。
「一緒に行ってもいい?」
本当に同一人物か疑うレベルの豹変ぶりだが、本人にそういう意識はない。彼女は毎日必死に生きているだけだ。
しかし僕は緩やかに首を振った。
「男同士の話に水を差すというのはナンセンスですよ」
そもそも彼女も交えての話でいいならば、彼は僕などに相談していないに違いない。彼女はぽやぽやとしているが幼馴染に関しては勘が良いので、そっかあと呟くと諦めたのか踵を返した。
しかし歩き出す直前、顔だけ振り向いて僕をちょいちょいっと手招く。
なんだろうと思い近づくと、彼女は僕の腕を引っ掴んで不意打ちのように体を寄せてきた。
「秘密を教えてあげる」
そう言って。見る人が見たら誤解されそうな姿勢のまま僕に耳打ちする。
「……なるほど、了解しました」
素直に了承の意を示した僕ににこりと微笑むと、彼女はそのままスキップ調子で去っていく。僕はしばらくそれを見つめてから、中庭に向かって歩を進めた。
着いた先、さああ、と吹いた爽やかな風と柔らかな木漏れ日に混ざって、彼は中庭の中心でキャンバスを広げていた。
「こんにちは」
後ろから声をかけると驚いたように振り向き、ああ、とほっとした声を出す。
「
「……ああ、なるほど」
後ろからきちんと覗き込んで納得する。最初は白かっただろうキャンバスは降りそそぐ光の中でそこだけ別世界のような宵闇に染まっていた。さらにその宵闇の中で場違いに真っ白な服を着た少女が踊っている。
彼の幼馴染は、相変わらず絵の中だろうと拘束服だろうとどこかへ飛び立ってしまいそうなほど美しく舞っていた。
「もうすぐあいつの誕生日なんで、あげようかと思ってて」
「……それは」
どうなのだろう、と思わなくもない。彼女は自分が新月に自殺するのではないかと毎日戦々恐々としているのだ。この前の新月の日は調子が良かっただけで、それでも藍の色が広がるだけの空を見た途端に豹変してしまった。
そんな彼女が、果たして自分が拘束服を着て踊っているところを見たがるのだろうか。
僕の視線に気がついたのか、青年はああ、と笑う。
「あいつは別に拘束服嫌いじゃないんですよ。新月の日が近づくと自分から進んで拘束服着てますからね。あいつにとってストッパーがあることは安心の象徴なんです」
それに、と青年は宵闇の中の一点を指さす。絵の中の彼女が踊る、その真上だ。
「今からここに満月描くので、大丈夫です」
柔らかく微笑む彼は指先から琥珀色を出して、くるりと紙の上で円の形に滑らせた。すると一瞬でそこには満月の輝きが現れる。
満足げに笑う彼の体は、服だろうと肌だろうとお構い無しに色がついている。
その手にはパレットも絵筆も握られていなかった。
彼の幼馴染である彼女の病気に感づいたのが彼であるなら、彼の病気を一番先に目の当たりにしたのは彼の幼馴染である彼女だった。
彼らには共通の親戚がいて、その共通の親戚というのがこの病棟のパトロンの一人であったために彼ら自身もうっすらとこの病棟のことは知っていたらしい。彼らは幼いながらに彼の病気を隠そうと決めた。離れ離れにならないように、ずっと一緒にいられるように。
けれど彼の病気は隠し通せるものではなかった。皮肉にも彼の誕生日、サプライズで用意されていたプレゼントに感極まった彼は自分の感情を抑えることが出来なかったのだ。当時十歳だった少年を責められる者はいないだろう。
黄色とオレンジに染まった広間は酷い有様だったらしい。壁はまるで染めたかのように。料理はまるで食紅をそそぎこんだように。まるで一枚の絵画の上に誤って絵の具をこぼしてしまったかのような光景が広がっていた。
その中心にいた少年は比喩ではなく真っ青になって震えていたという。彼の恐怖という感情は正しく青かった。
幼馴染の彼女に縋り付きごめんなさいと謝る彼を守ろうと、大人達の目から隠そうと、髪や頬が青くなるのも構わずに抱きしめた彼女を、彼女の両親は引き剥がした。婚約の話は白紙になった。
そのとき一緒に真っ白になってしまえれば良かったのにと言ったのは彼か彼女か、どちらもだったかもしれない。
結局彼女はある意味彼よりも酷い病気にかかって五年ほどの後に病棟へやってきた。パトロンである彼らの親戚はそのときから寄付金を増やした。
彼らが言うには、その親戚だけが自分たちを責めなかったのだという。
「僕は絵描きになりたかったんです。出来すぎていると言われるかもしれませんけど」
彼は笑いながら指をすべらせる。今描いているのはまた違う絵だ。描き始めも描き始めなので、まだなんの絵なのかは全然わからない。
「あの人に久しぶりに会いたいなあ。僕達のために寄付金増やすだなんて、しなくても良かったのに」
言いながらも、やべ、という声が出た。彼はここに来てから多少出す色のコントロールが出来るようになったが、それもまだまだ微調整が難しいらしい。人差し指がオレンジ色に染まっている。彼がお礼を言ったときにたまに出る色だということを知っているので、別に動じはしなかった。
ただ、見て見ぬふりをするだけだ。
「彼はここの寄付金を出してくれているパトロンの一人なので、会おうと思えば会えるかと」
「え、本当ですか!?」
「例外的にですが」
この病棟に入れるのは基本的に患者と医師のみだが、その例外となるのが
嬉しそうに笑ってからふと、彼がポツリと問う。
「先生、僕の絵、売れましたか」
「無名の新人としては上々の売上だそうですよ」
ははは、と彼が笑う。
「じゃあその売上は
「今回もあなたのことはいいんですか」
「いいんですよ」
半ば投げやりに、彼は僕のほうを振り向いた。
「あいつがあんなことになったのは俺のせいでもあるんですから。それなのにあいつの病気が一生治らなければいいだなんて思ってる俺は、本当はあいつのそばに居るべきじゃないのに」
言いながらも手が止まらない。彼は今無名の新人として絵画の界隈で注目を浴びている。誰にも出せたことがないような色を出すのだと。
「僕の経験から出る色が誰にでも出せるなら、僕の一生に意味はないでしょうね」
そう言って、彼は笑う。艷めく黒を織り交ぜて、海の絵を描く。彼の絵は珍しいことに黒を主体とするものが多い。それはいくら止めようとしても止まらない罪悪感の色なのだ。
「彼女は」
風にさらわれそうな声を、目の前の彼はしかと聞き取って僕のほうを振り向いた。
「あなたが笑っているから、笑えるのだと言っていましたよ」
彼は一瞬でこわばった顔を僕に向けた。
「……どういうことですか」
「先ほど彼女に会いまして」
端的に告げると彼の口がぽかりと開いた。
「そう言っていました。新月の日でも安心して眠れるのは、あなたがどんなときでも笑っているからだと。拘束服を引きちぎって手首を切ったときも、どうにかこうにか首を吊ろうとしたときも、屋上に行こうとしたときも。あなたが笑って止めてくれたから、自分が今ここにいるのだと」
言葉が出ないらしい。彼は未だ開きっぱなしの口を何度か震わせるのみだった。
「彼女は、」
「待ってください」
限界だとでも言うように、彼は額を手で押さえて俯いた。くぐもった呻き声が聞こえる。
「あー……またやらかした」
何度目だよと笑う彼の指先から滴り落ちるのは真っ白な色だった。それが彼の恋の色なのだと言うことを知っていた僕は条件反射で口を開く。
「すみません、余計なことを」
「いや、先生のせいじゃないですよ。俺が、ちょっとまだコントロールができてないだけで」
「いえ、感情はコントロールするものではないですので、やはり今のは僕のせいです。情報は小出しにするべきでした」
「いや、小出しにされても」
困ったように笑う彼に、僕は口を閉ざした。これ以上は彼を困らせることになる。
彼はふっと目を細めて、白いペンキに突っ込んだ後のようになっている手を見つめた。
「あいつの色だ」
陶酔に染まった声だった。ゆらゆらと揺れる瞳が見ている色は、そう、確かに彼女の色だった。
何者にも染まらない、彼女の色だ。
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