第7話 159号室 味を描く




 彼女が得たのは才能だった。



 この病棟は隔離病棟だ。基本的には患者と医師のみが入ることを許されている。ちなみにカウンセラーは僕しかいないし、ここに来る医師が左遷扱いされていることを僕は知っている。きっと彼らも知っているに違いない。

 ただこの病棟にはレストランなどがあるわけで、どうしたって人が必要になってくる。出来るだけAIが担っているが、それにも限界があった。

 ならば必要な人間をどこから調達しているのかというと、別に短期のアルバイトを雇っているわけではない。そんなことは許されない。

 つまりは、患者自身が担っているのだ。


「おはよう、先生」

「おはようございます。今日も朝から大変ですね」


 一見ファミレスのような店内はちらほらと患者がいて朝食を食べている。その奥、オープンキッチンの中できちっと三角巾をして料理をしているのは、見た目は高校生くらいの少女だった。

 というか、現役高校生である。彼女はここでシェフ紛いの仕事をやる代わりに通信制の高校に通うことを許されているのだ。


「これくらいは、別になんでもないよ」


 快活に笑う彼女の目の前には、今日も今日とて一枚の絵があった。


「綺麗な絵ですね」

「今日は調子が良いんだよー」


 彼女に調子の悪い日なんてあるのかどうか、万年美術が二だった僕には分からない。けれども彼女が味を見るたびに文字通り味がようになっていく様は、やはり芸術なのだと思う。





 彼女は両親の影響で絵が好きだ。描くのも見るのも大好きで、休日は美術館巡りだという、根っから芸術に染まっている彼女がここで料理人をしているのには理由がある。


 まず、彼女のその病気の発覚がひどく遅れたのは、彼女の家庭環境のせいだ。


 彼女の両親は著名な芸術家で、ほとんど家にいることがなかった。あってもものの数時間経ったら海外へ飛んでしまうなんてことは日常茶飯事で、彼女はほとんどの時間を美術品に囲まれて過ごした。

 彼女の病気が発症したのは中学生のときだが、彼女がここに連れてこられたのはつい数ヶ月前である。少なくとも三年も病気が世間に露呈しなかった事例は酷く珍しい。


 彼女は小学校のころから自分で料理を作るようになっていて、料理も芸術の一つだと思っている。だから、病気が発症したときもさほど慌てなかったという。他人に迷惑をかける病気ではなさそうだしいいだろう、と判断したという。

 それを聞いて医師達は絶句した。彼女の病気は確かに他人に迷惑をかけそうなものではない。


 しかし、彼女は発症と同時に、五感のうちの一つ、味覚を失っていたのだ。


 味を一生感じられなくなってなお平然としながら生きていた彼女は、徹頭徹尾芸術のことしか考えていなかったのだ。


『こんな体にしてくれたんだから、味覚ぐらい神様にあげたんだとしてもそれは正当な対価だよ』


 診断の際彼女はそう語った。医師達の心情は察するにあまりある。彼女にかかればこの病気もひとつの才能としてカウントされてしまうらしい。

 確かに、僕も同席した実験場で彼女が料理を口にした瞬間、空中に描かれた美しい絵は、それを才能と呼んで差し支えないものにしてしまった。

 味を絵として虚空に描く。

 それはきっと彼女だけの描き方なのだ。





「ほいっ、と」


 ポンッとオムレツをひっくり返して手早く盛り付け、彼女は笑顔で患者の元へ運んでいく。ここには病院食というものがあるが、その実患者に病院食など必要ない。好きなように食べて好きなように生きるのがここの患者たちに与えられた権利である。


「ごめんね先生、遅くなっちゃった」


 てへっと舌を出した彼女に苦笑する。


「構いませんよ。それがあなたの権利ですから」

「私は他の人より権利が多いよー。どんどん我儘になっちゃう」


 おどけた彼女は手を洗い終えるとエプロン姿のままでその場においてある椅子に座った。


「で、先生、お母さん達からまた何か届いてる?」

「今回は少し多いですが、ここで全て渡しますか? あなたの病室前のポストに入れておくこともできますが」

「あーいいよいいよ、すぐ見たいし全部ちょうだい」

「では、こちらです」


 渡したのはほとんどがポストカードや写真だ。彼女の両親が海外で手に入れたり自分で撮ったりしたものの数々である。彼らの才能は芸術と呼ばれるものなら何にでも発揮されるのか、どれもセンスの良いものばかりだった。


「わー、お母さん本当にイギリス好きだなあ……シティホールの写真なんて見るの何回目だろう……あっ、これ見たかったやつ! さっすがお父さん! あーこの色合い! 無理……心が溢れる……」


 何やら心中が大変なことになっていそうな彼女だが、それらの中から一つだけ厚みのあるものを見つけてきょとりとした。


「んん? これ……」

「ああ、それはあなたのクラスメイトだという子から貰いました」


 通信制の学校のクラスメイトとはなんだろうかと思ったが、彼女はぴんときたようだった。


「ああ、この人私の彼氏だよ。前の、普通の学校にいたときからの」


 僕はぱちりと一つ瞬く。

 あまりにもさらりとした態度に驚く──というより状況をうまく飲み下せなかった。


「……恋人がいるんですね」

「そりゃあいるよ。一人くらい。高校生だし」


 二人も三人もいても困るが、言葉の綾だろうとスルーした。


「彼は知っているんですか? あなたの病気を」

「んー? ていうか私のこれ、あいつには言ったしね、病院に来る前に。一年前だったかな」


 手紙を読みつつ後ろに浮かぶ絵画を指さす彼女。それはもう薄くなり消えかけていたが、まだ綺麗に合わせられた色合いを残していた。

 それよりも、彼女のあっけらかんとした態度を見ると、恋人もそこまで驚かなかったのだろうか。


「あいつは私の絵めっちゃ好きだからね。すごい喜んでくれたし何度も見せてくれってせがまれた。流石に何か食べなきゃいけないからいつも見せられた訳じゃないけど、多分ここに来てからよりも多い回数そいつに絵を見せてたと思う」


 ここに来たのは数ヶ月前とはいえ、ほぼ毎日三食分の、色々な患者の料理を作っている彼女はその全てを味見して絵を描いているというのに、それよりも多いらしい。


「私はあいつが好きだからなあ。あいつも私がす……いや私の絵が好き? まあどっちでもいいか。どっちにしろ私にしか描けないわけだし」


 相変わらず独特な感性をしている。どちらでもいいなどと言われた彼の立場もないだろう。


「でもなー、そっか……あいつ、手紙くれるんだ」


 ぽつりと呟いた彼女の声は少し高い。僕はそれが泣きそうなのを堪える仕草だと知っていたから、彼女が喉元に手を当てる姿から少しだけ目をそらした。


「意外ですか」

「そりゃ、まあ。私はもう別れたもんだとばかり」

「別れたかったんですか?」


 彼女は涙を引っ込めて呆れた顔を僕に晒した。


「嫌な言い方を……そんなわけないでしょ。でももう一生会えないのに、縛り付ける意味もないかなって……なのに馬鹿だなあ、あいつ」


 慈愛に満ちた微笑みの中には一欠片の安堵が見え隠れしていた。彼女は明るいように見えても高校生なのだ、とこういうときに実感する。


「あなたはもう少し、我儘になってもいいかと思いますが」

「私は十分我儘だよ」


 即答しながら彼女はポストカードやら写真やらを透明な袋に入れた。そのままだとここでは油まみれになってしまうからだろう。

 彼からの手紙は、可愛い花柄の袋に入れられた。ぽつんと一つだけよりわけられた手紙。

 かたん、とコンロにフライパンを置く。


「もう私、あいつに料理作ってやれないんだよなー……」


 後ろを向いてしまっている彼女の表情は見えない。シンクに付いた手が震えているように見えるのは錯覚だろうか。


「先生」

「はい」

「どうしても、あいつに料理作ってやりたいって言ったら、怒る?」

「怒りませんが、許可できません」


 だよねえ、と彼女は笑った。ように見えた。


「ほらね、やっぱり叶わない……」


 天井を仰ぎ見る彼女を見て、何故か彼女の彼氏だという男の子を思い出した。彼は僕を親の仇でも見るような目で見ていた。罵られることこそなかったものの、完全に敵意むき出しだった。僕だけかと思えば病院関係者全員にそんな態度だったので、きっと彼にとっては彼女は囚われの姫なのだろう。

 それを知ったら果たして彼女は笑うだろうか。良かった、まだ好きでいてくれたと喜ぶのだろうか。

 結局僕はそれを言わないことにした。

 代わりに。


「これは独り言ですが」


 彼女が振り向いた気配がした。僕はあらぬ方向を向きながら訥々と語る。


「研究……というか、これはおそらく統計の分野になると思いますけど、ここの患者のことで新たに分かった情報があります」

「え、そんなこと言っていいの」

「独り言に質問をしてはいけません」


 はくっと彼女は素直に口を閉じた。


「あなた方の病気に感染することはありません。飛沫感染はもとより、接触感染、経口感染、果ては粘膜感染に至るまで、感染経路は潰されています」

「ちょ、粘膜感染って……」

「ですが、最近新たな仮説が出ました」


 なんの想像をしたのか頬を染めた彼女の言葉は無視をして、僕は話し続ける。一瞬だけ彼女を見た。


「患者と深く関わった人々が、全く関係のない新たな病を発症する可能性があります」

「……え?」

「深く関わる、というのは物理的接触ではなく、精神的接触のことです。カウンセラーの僕としては絆と呼びたいところですが」

「絆……」

「おそらく既に病気を発症している人には無関係でしょうね。あくまでも対象は患者と深い関わりを持った一般人でしょう……根拠として、この病棟には友達やら幼馴染やら恋人やらが多すぎます」


 元々病気が露呈していなかっただけの人もいるだろうが、だとしても多い。隔離病棟に知り合いなんて普通はいない。

 はっとした顔になった彼女に、僕は淡く微笑んだ。伝わっただろう、もう十分だ。


「僕としたことが、歳をとると独り言が多くなっていけませんね」


 虚を衝かれたのか目を丸くした彼女は、会話を断ち切られたのだと気づくのに数秒を要して、突然ははっと笑った。


「先生まだまだ若いでしょ」

「全然ですよ」


 ひとしきり笑い終えた彼女が目尻に浮かんだ涙を拭う。


「はー……まあ、私もちょっと耳が遠くて、今言ってたことがよく聞こえなかったけど」

「高校生でしょうあなた。精密検査しますよ」

「職権乱用ー」


 からからと笑った彼女は調子を取り戻したのか、冷蔵庫から玉ねぎを取り出してものすごい勢いでみじん切りを始めた。嫌がらせだろうか。

 目が痛くなる前に退散しなければとドアに向かったとき、唐突に呼び止められて後ろを振り向いた。まさか目が痛くなるまで話を続けようとしているのかと勘ぐった僕に対して、彼女は静かに言う。手が止まっている。


「先生は、平気なの」

「何がですか?」

「ここにいる人たちに同情したり大切に思っちゃったり、はたまた好かれたりしたら、先生もやばいんじゃないの」


 気遣ってくれているらしい。僕は薄く微笑んだ。


「大丈夫ですよ。絆なんてそう簡単に出来るものじゃありません。例え好かれたのだとしても……大丈夫です」


 彼女は僕を見て少しだけ哀しそうに眉を寄せた。

 僕は安心させるように微笑む。


「本当に、大丈夫ですよ」


 彼女は「そっか」とだけ言ってまた猛烈な速さで玉ねぎを切り始めた。

 僕は少し痛い目を瞬きながらドアをくぐった。

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