第6話 221号室 意思が固まる
彼を飼い殺しているのは石だった。
この施設には何でもある。
服屋もあるしレストランもある。映画館なんてのもある。この病棟に入れば道楽にふける富裕層がどれだけ裕福なのか分かるだろう。残念なのは、ここにいる人々の殆どが物を消費することに興味がないことだ。というか、皆それどころではないと言ったほうが正しい。
今日も彼のいるトレーニングジムはがらんどうだった。そもそも運動する『患者』はここにはほぼいないのだから、他の場所より遥かに人がいない。
彼はそんなジムで一人、取り憑かれたように汗を流している。
「精が出ますね」
部屋の奥のほうで筋トレをしている彼に近寄り声をかけると、彼はきりのいいところまで数字を数えてから器具を手放した。筋トレというものに縁がなかった僕にはそれがなんという器具なのか分からない。
「こんなところまですまない、先生」
「構いませんよ」
汗を拭きながらぴしりと背を伸ばす彼は見たところ健康そのもので、どこが悪いようにも見えない。まあ実際ここにいるのはほぼ全員、見ただけでは分からない症状を抱えている人達ばかりなのだが。
休憩に入ったのか、近くの椅子に座った彼はきりりとした表情のまま水を飲みはじめる。
何をするでもなくその様子を見ていると、顔を後ろに逸らした彼の額から汗が一粒横に流れて落ちた。
それが床に届く寸前、流麗な粒が硬さを帯びてぎゅっと丸まった。そのままこんっと小さく音を立てて転がった粒を拾い上げて、僕は照明にかざしてみる。
「……ダイヤモンド、ですかね」
彼が驚いたように眉を寄せた。
「ああ、まだ出てくるものなんだな」
忌まわしげにそれを見つめて、目をそらす。好きにしていいということなのだろう。僕はとりあえずその場に置いた。
彼が乱暴に額を拭うのが見えた。
彼は生まれつきそうではなかった。途中まで一般人として育った彼は突然奇妙な病を発症してしまい、紆余曲折あってこの病棟にいるのだ。
おかしなことに「奇怪病」を発症する人々は皆一様に子供と呼ばれる年齢層に多い。この病棟に入った当時は小学生または中学生だったという患者たちの中で、彼は珍しく成人してから病棟に入った。
その理由はもちろん、珍しく彼の病が発症したのが遅かったというのもあるが……やはり、ひとえに彼の家族の影響だと言える。
彼はそのせいで実の親に軟禁生活を強いられた。大学を中退させられ、家の中に閉じ込められ、ただただ彼は搾取され続けた。二年ほど経ち、彼の家の異変に気づいた近隣住民の訴えでそれが発覚したときには、彼は命に別状は無いものの、全身傷だらけだったという。
彼の病は人を狂わせる。彼は早急に病棟に入れるべきだと判断されたが、それだって富裕層から反対意見が出てすぐには叶えられなかった。富裕層たちは奇妙な彼らに興味があるが、それ以上に裕福であるということが大事なのだ。そんな彼らにとって、いや、究極的には誰にとっても彼は金の成る木だ。
なにしろ彼は、体中の体液────たとえば血や涙────が宝石に変わってしまうという病を抱えている。
「健康的な人の汗は不純物の含まれない、ただの水であるという話を知っているか、先生」
「はい、一応は」
僕は頷いた。彼は休憩を終えて再びあの妙な器具で筋トレを始めている。
「最近やっとそんな健康的な汗になって、一々汗が宝石になることも無かったんだが、どうしても冬は汗をかきにくくて困るな。なまった」
話しながら筋トレをしているのに口調が崩れない。それくらいではなんともないくらい、彼は死にものぐるいで汗を流してきたのだろう。
血や涙はどうにかなるが、汗はどうにもならない。専門家もあてにならない状況の中、彼は「水同然の汗なら宝石にならないのではないか」という仮説を出した。それから必死で汗を流し続け、半身浴やらストレッチやら食生活やらに気をつけた結果、今に至る。
僕は彼を見た。先程から休みなく体を動かし続けている彼からはとめどなく汗が流れているが、その殆どは液体状のまま床に落ちている。先ほどのは例外的なようだった。
「ふっ……」
ガシャンと音がして、再び彼が休憩に入った。額を拭い、水を飲んでいる。
「先生」
不意に話しかけられた。反射的に返事をすると、彼は少し押し黙った後にこう聞いてきた。
「先生も、無駄なことをしていると思うか」
「……何のことでしょう」
「俺がしていることは、無駄なことだと」
「誰かがそう言ったのですか?」
「いや、俺が時たまそう思うだけだが」
よく眠る彼女に言わせてみれば僕は嘘をつくのが下手らしいが、彼も大概だと思う。まあこんなところにいたって全員が仲良しこよしできるわけではないし、心無いことを言う人もいるのだろう。
僕は少し思案して、彼の引き締まった体を見た。
「無駄なんですか? 汗が宝石に変わらないならあなたの負担が減るのでは?」
「それは、そうなんだが……いつか必ず体が動かなくなるときが来るというのに、休みなく運動ばかりしていて、俺は一体どうしてこんなことをしているのか、という話だ」
視線が落ちた。
彼は日がな一日筋トレと有酸素運動に明け暮れていると聞く。
「でも俺は、もう何をしたらいいのか分からない」
彼は座ったまま太ももに肘をつき、両の手を組み合わせて額に付けていた。絞り出すように言う。
「運動していないと、いつ自分の汗が固まってしまうのか気が気じゃない。今だって、本当なら何も身につけたくなんてないんだ。何かが肌に触れていると判断がつかなくなるから」
苦しそうというより、無理やり平坦な声を保っているというのが正しいだろう。彼の声は硬い。
彼の半生を省みても、良いことがあったとは言い難いだろう。何も与えられず、奪われる日々だ。
「あなたには何かしたいことがあるのですか?」
「……ここを出たい。普通に暮らしたい」
切実な響きが叶えられることはない。互いにそれを分かりきっているが故に、沈黙が落ちた。
彼には『普通』が既に彼方にある。
それはここでは叶えられないだろう。彼が望むのはきっと「異端の集まる平穏な空間」ではなくて、「人間らしい普遍的な幸せ」だ。例えば友達と遊んだり、試験を受けたり、結婚したり子供を育てたりというような。
ここでも友達は作れる。結婚もできる。しかし彼の中の圧迫感が消えることはないだろう。
彼は自嘲気味に笑う。一つため息をついて立ち上がると、諦念のこもった瞳を虚ろに空中に向けて、また別の器具に向かって歩き出した。
そんな彼の背をじっと見つめて、僕も立ち上がってドアへと向かう。
そしてその手前で足を止めた。
「時に」
顔だけ後ろを振り返り、僕はいささか棒読みのような口調で問いかける。
「あなたにも、仲良くしていた親戚がいたと聞きますが」
「……それは、まあ、いたが」
突然なんだと思ったのか、彼は手を止めて訝しげに僕を見つめた。
僕は淡々と言葉を繋げる。
「ええ、それ自体は普通のことです。あなたと両親の不仲はもうどうしようもないですが、今でも手紙のやりとりをするくらい仲の良い従妹がいるのでしたよね?」
そのとき、彼の瞳がゆっくりと見開かれた。
「……そうだ。今日は、あの子の手紙をまだ」
いつも必ず渡している手紙のことだ。僕は首を振る。
「今回はありませんよ。これからは必要ないだろうと彼女が言っていました」
「は……?」
「それと、来週から新しくこの病棟に入ってくる患者さんがいます」
やや唐突に言われた言葉に彼は訝しげに眉をひそめ、しかし数拍経って愕然とした顔になった。
「まさか」
がたりと音を立てて器具をなぎ倒し立ち上がる。僕はすっと背を伸ばして体ごと向き直り、一つ礼をする。
彼は呆然とした顔で僕を見ていた。
「まさか……」
「彼女の病棟案内を、頼みますね」
顔を上げてそう言うと、彼は一つ息を飲み込み、喘ぐように頷く。
「わ、かった……」
そのまま出ていこうとした僕に「なあ」という声がかけられた。
「はい」
顔だけ振り返った僕に、彼は何度も口を開いて閉じてを繰り返した後に薄く口を開いた。
「あいつは、何か……何か、言っていなかったか……」
「ああ」
少しだけ微笑みを浮かべる。
「『これからよろしく』、とだけ」
「そう、か」
放心したのかそのままどさりと座り込んだ彼は、ぽつりと呟いた。
「あいつは、それでいいのか」
「それは、ご本人にお聞きになってください。僕はただのカウンセラーですから」
ははっと笑い飛ばす声がして、彼は降参とでも言うように両手をあげた。それからいつも通り器具に戻り、また熱心に筋トレを始める。
僕はもう一度だけ礼をして、その場を後にした。
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