第5話 243号室 心が生い育つ
彼女を育てているのは眠りのみだった。
病棟内を特に目的もなく歩いているときだった。
おや、と思う。あの後ろ姿は。
「今日は起きていて良いんですね」
彼女はくるりと振り向いた。肩口で切りそろえられた髪がさらりと揺れる。穏やかな瞳が僕を捉えた。
「えーと、誰だっけ?」
「結構前に新しく入りました、カウンセラーです」
これを言うのは何度目だろうと思う。彼女は寝てしまうとどうでもいいことは忘れてしまうのだ。たまに家族のことも忘れているので焦る。
名刺を渡すと「ふーん」と彼女は言った。興味がなさそうにためつすがめつした後、「変な名前だね」と呟く。僕は苦笑した。このやり取りも何度目だろうか。
そう言えば、と僕は思った。
「あなたのことは皆さんなんと呼んでいるんですか」
「んー?」
彼女は白いワンピースを
この病棟内にいる人々は皆自分の症状に合った名前でお互いを呼ぶ。ここに来た時点でみんな死んだようなものなのだから、と言い始めたのは誰だったか、どこからともなくそういう意見が出て、自分の元の名前を名乗る人はほぼいなくなった。
彼女はしばらく首を捻った後で手をぽんっと打つ。
「姫ちゃん、だったかな?」
それは、ずっと眠り続けているからという意味だろうか。
「覚えていないんですか?」
「寝ちゃうとどーもねー。でもあいつがそう呼んでたから、そうだと思う」
「あいつ、ですか」
そう、と彼女は頷く。
「あいつのほうがよっぽど姫だってーのにね。歌えるし、儚げだし」
その言葉で、彼女が言っているのが幼馴染の彼だと言うことが分かった。桜のような彼を思い出す。
「あいつもファンのためとかなんとか言って、結局ただ自分が歌いたいだけだってーのに気づかないんだから、大概だよねえ」
彼が聞いていたらぐさりと心に来ているだろう言葉を吐く。彼女は良くも悪くも素直なのだ。親がそういう気質だというのもあるのだろう。
彼女はスキップのようなステップを踏みながら晴れた空を窓枠から見上げた。
「ねえカウンセラーさん」
「はい」
「私、今何歳に見える?」
「……十七、ですかね」
「カウンセラーさん、嘘つけないって言われない?」
どう見積もっても中学生にしか見えない彼女は、からかうようにからりと笑った。
彼女は元々酷く成長が遅かった。誰よりもよく眠るのに誰よりも小さかった。幼稚園までは個人差で片付けられていたのが小学校で看過できなくなり、齢十二という若さで病棟に入ることになる。そのときも、彼女は小学校低学年ほどにしか成長していなかった。
世の中には骨が成長しない病がある。一生背丈が子供のままの大人がいる。しかし彼女は違った。起きている間、彼女はまるで仮死状態に陥っているかのような兆候を見せていて、完全に体の成長が止まっているのだ。その証拠に、肌年齢や血管年齢も見た目通りの数値を叩き出している。
さまざまな専門家が彼女を調べた結果、彼女に何が起きているのかは判明した。けれど彼女がどうしてそうなのかは解明できなかった。だから彼女はここにいる。
『どおりでしょっちゅう眠いなと思った』
彼女はそう言って笑っていた。彼女は過眠症ではない。
彼女は、眠っている間にしか成長できないのだという。
「いつも思うけどさあ」
廊下を踊るように進みつつ唐突に彼女が言った。
「私の病気は誰が得をするんだろうね?」
彼女は抽象的なことをよく言う。僕は意味がわからずに聞き返した。
「病気で得をする人はいないと思いますが」
「違う違う。そうじゃなくてさー、得っていうか、理由? 目的?」
彼女自身も言葉を探しているようだった。
「なんかあるじゃん。たとえばさー、風邪は風邪菌がいるでしょ? がんはがん細胞があるでしょ? そいつらが必死に生きようとして、私達は体調を悪くしたり死んだりするわけでしょ? でも私なんて、ただ長生きするだけだよ。これって病気かな?」
僕は答えなかった。この病棟に入れられている彼らの症状は各々名前が付けられている訳ではなく、総称として「奇怪病」と言われている。
奇怪病にはっきりとした定義はない。
「私がちょっとみんなと違うのは分かってるよ。ここの人達なんてみんなそんなものだし。でもさあ、言っちゃあれだけど、私は成長がちょっと遅いだけなんだよね。まあ、私の同級生は大体もう社会人なんだけどさ」
拗ねたように唇を尖らせる。彼女は眠っている間にしか成長できないのに、その速度も人より随分と遅い。
僕はゆっくり問いかけた。
「あなたは、もしかして自分の体が嫌いなんですか?」
すると彼女はきょとんとした顔を僕のほうに向けて、軽く笑った。
「そんなことないよ。ちょっと成長が遅いくらいで嫌いにはならないよ……たださあ」
寂しそうに視線を落とす。
「私たちがここにいるのは私たちのためじゃないんだろうなって思って」
「……そんなことは」
「あるよ。私達は普通の人を混乱させないためにここにいるんだよ」
僕は口を噤んだ。
彼女が淡く微笑む。
「だってさあ、考えてもみなよ。私の幼馴染は人前で声を出したら一瞬でSNSに晒されるだろうし、
つらつらと指折り数えながら、彼女は病棟内の彼らのことを語り続ける。
彼女は、病棟にいる彼らのことだけは忘れない。いくら眠っても、彼らの名前と症状だけは忘れたことがないのだ。
「だからさあ、つまり、ここに押し込められてる私達に求められてるのは『大人しくして、社会を混乱させないようにしとけ』ってことでしょ?」
あけすけな物言いに完全に僕は閉口した。仮にも見た目は中学生の女の子に言葉でやり込められるカウンセラーという図はいささか宜しくないように思う。ただ僕は自分の未熟さを熟知しているので、特に劣等感も感じない。
そんな僕に焦れたのか、彼女は少し不機嫌そうに頬を膨らませた。
「先生もそう思ってるんじゃないの? ここに来るカウンセラーって、つまりは監視者なんでしょ?」
「どうしてそう思うんです?」
「監視する立場として考えたら、カウンセラーっていうのが一番都合がいいから」
ずばっと切り込まれて苦笑した。
「ここの人達を監視することに、意味なんてありますかね」
「ここを出ようとか思われたら厄介でしょ」
「確かにそうかもしれないですけど、危険というわけではないですよ」
「そんなの分からないでしょ、私達の存在自体ほとんど意味不明なのに、危険の度合いなんて」
僕は再び口を閉じた。なぜだか分からないがこの少女は僕に会うたび僕を嫌う。毎回ほとんど僕のことを忘れているはずなのに、ほぼ毎回嫌われている。
「ごめんね先生、私、なんかこう、あなたを見てるといらいらしちゃうんだよね」
今回も、そんなことを言われてしまった。
「だってあなた、ここの人達に近すぎるんだもの」
大きな瞳が僕を捉えた。
「距離がじゃないよ。フレンドリーってことじゃないよ。そうじゃなくて……あなたは健康そのものなのに、どうしてそんなにここの人達に似ているの?」
ああ、どうやらやっぱり、この子の目は欺けなさそうだ。
僕は黙って彼女の言葉を待った。
「嫌いっていうより、多分怖いんだと思うな」
不遜な態度で彼女は言った。恐れなど微塵も感じられなかった。
「ここにいる人たちはみんな普通じゃないよ。みんな、どこか異常だよ。でもあなたはそうじゃない。見た目も精神も、全く普通だよ。なのに、たまにここの人達と見間違えるくらいのおかしな雰囲気を出すから……だから、なんか不気味」
彼女はぴたりと足を止めて、僕をまっすぐ見据えた。いつの間にか彼女の病室までたどり着いていた。
「先生って、なんなの?」
僕はゆるりと首を振った。
「ただの、カウンセラーですよ」
「ダウト」
つまらなさそうに呟いて、彼女はするりと病室の中に消えていった。
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