第4話 145号室 月に希う




 彼女を殺そうとしているのは無だった。



 深夜と言っていい時間帯に、僕は中庭に向かって走っていた。正確に言うなら、壁に塗りつけられた色を辿っていた。


 彼女が病室にいることはほぼ無い。朝から晩まで病棟内を徘徊している。

 この病棟の中では原則的に患者は自由だ。けれども、彼女のような人は例外だった。


 涼しげな風が吹いている中庭に彼女はいた。拘束服を着ているのに、拍手をしたくなるほど洗練された動きでくるくると踊っている。


「先生」


 僕に気づいたのは彼女ではなかった。彼女の踊りを眩しそうに見ている影のような青年だ。

 僕は天を一瞥した。宵闇の中に月はない。


「大丈夫なんですか」


 問いかけに彼は微笑んだ。風に吹かれた髪がさらりと靡く。


「ええ、俺が見ていますから」


 そうだったと僕は息をついた。ほぼ疾走してきたに近いので汗をかいている。


「久しぶりにこんなに調子の良いあいつを見ました。多分季節のせいもあると思うんですけど」


 彼は心底嬉しそうに微笑んだ。二人は幼馴染だという。





 彼女がおかしいと一番先に気づいたのは幼馴染の彼だった。彼の目に見える病状と違って彼女の病気は目に見えないものだった。よく生きているものだと医者は言ったし、今も言っている。

 病棟にいる彼のために彼女は手紙を毎日送っていた。彼はその文面に違和感を感じたという。三ヶ月ぶんの手紙を持ってきた彼は言った。


『新月に近づくにつれて、あいつはおかしくなっていく』


 気のせいだという周りの言葉に耳を貸さず、彼は彼女を病棟に入れるよう申告した。病院側も渋々調査に向かったのだが、そこで彼らは驚くべきものを見たのだった。

 彼女の部屋は壁紙から何からずたずたにされていて、完全に傷のないものは何一つなかったのだ。調査員が辛うじて形状を残していたノートを開くと、綺麗な字で「死にたい」という言葉が一面にびっしりと綴られていた。

 彼女の病気は目に見えない。

 彼女は、新月になるにつれて自殺衝動を高めていく病気だった。





「ここに来てから、あいつは本当に楽しそうです」


 軽やかに踊る幼馴染を見て青年は笑った。彼女を精神病棟に入れようという動きもあったが、他でもない彼が全力で止めたことは記憶に新しい。


「あなたがいるなら大丈夫だと、彼女は言っていますしね」

「はは、他の人間よりあいつを理解している自負はあります」


 彼女は新月になるとときたまひどく暴れることがある。それを止められるのは彼だけだった。


「あいつと俺は同類なんです。俺の親も俺を隠そうとした」


 彼も裕福な家庭に生まれていた。幼馴染の彼女とは昔は婚約者という関係でもあったらしい。そんな二人が揃って研究対象になるとは、多大な影響を与えたことだろう。


「俺らはここに来て初めて自分の好きなことが出来たんです。研究なんていくらでもしてくれて構いませんよ。もうあの家には戻りたくない」


 そのとき彼女が踊りを終えて上空を見上げた。彼女の救いになるのは月だけで、ただ一面に広がる星々に意味は無い。求めていたものがない焦りと悲しみで顔がぐしゃりと歪んだ。


「なんで……なんで、なんで、なんで!」

無月なつき


 呼びかけた青年にはっと顔を向けて、無月と呼ばれた彼女はよろよろと駆け寄ってきた。その目は赤く充血している。


色葉いろは、ねえ、色葉いろは

「どうした」

「これ、これ外して。脱がせて」

「男に言う台詞じゃねえな」

「違う! 違うの……! 分かってるでしょ、ねえ!」


 彼は取り乱した幼馴染を抱きしめた。


「脱がしたらお前、全裸だぞ」

「知らない、そんなの……! 死なせてよ……!」

「嫌だ」


 きっぱりと告げて、彼は彼女の頬を挟んだ。


「俺がお前の自殺を止めないわけないだろ。死んでもいいとか言われたいのか」


 彼女の顔がますます歪んだ。


「違うよ……なんでそんなこと言うの……」

「そうか、違うのか。安心した」


 笑った彼に彼女は大人しくなる。本当に上手だ。

 僕は視線を少し動かした。彼の足元が青く染まっていることは言わないでおいたほうが良いだろう。


「あ、先生……」


 僕を見て彼女がぼんやりと呟く。僕はこんばんはと告げた。


「こんばんは。えっと、なんでここに……?」

「あなたが病室にいないと連絡を受けたので」

「ああ、そっか……ごめんなさい」


 ぺこりと綺麗なお辞儀をする彼女は受けた教育を忘れていないらしい。普通にしていれば礼儀正しい少女だ。


「怪我はしていませんね。どこか苦しいところはありますか」

「ううん、ない、です。ありがとう、ございます」

「いえ、お礼なら彼に」


 彼は新月の夜の前後は眠らない。彼女が死んでいないのは彼のおかげだと言えるだろう。見回りを強化してもすり抜けるようにして姿をくらます彼女の居場所を彼はすぐに突き止める。


「ありがとう、色葉……」

「……お前眠いんだろ、寝ろ」


 呆れ声で彼が言った。

 彼女は聞いているのかいないのか、僕に話しかけてくる。


「ねえ先生」

「はい」

「私、おかしいと思う?」


 おい、という彼の声が聞こえた。しかし彼女は止まらなかった。


「私、別に昼間は普通なんだよ。でも夜になると駄目なの。日が沈んだらもうだめなの。それが怖くて怖くて早く寝ちゃって、夜中に起きちゃって酷いことになるのに、分かってても駄目なの。ねえ、死にたい私と生きたい私は別物なの? 昼間の私は生きたいんだよ。朝になったら私は生きたくなるんだよ、分かってるんだよ。それなのに今は死にたくてたまらないの。どっちが本当の私なの?」

「どちらもあなたという人間ですよ」


 僕はなるべく平坦かつ、冷たく聞こえないように言った。


「あなたはしいて言うなら寝ぼけておかしな行動を取ってしまっているようなものです。どちらもあなたという一個人ですよ」


 なんの救いにもならないだろう答えを返す。僕は彼女の幼馴染ではないから、適切な答えは返せないのだ。


「……そう、なの? 私寝ぼけてるの?」

無月なつき、たとえだ」

「ああ、そっか……」


 きょとりとした目が幼馴染を捉えて緩んだ。

 彼女は天然なところがある。ぽやぽやしていると言えばいいのか、どこか感情が読めない。

 僕は踵を返した。戻ろう。あとは彼に任せておくのが適切だ。僕は何も出来ない。


「先生、ありがとう」


 ぽつりとお礼を言われた。お礼なら彼に、と言おうとして、既にしたやり取りなのだと思い出す。

 それでも僕にお礼を言うのなら、それは彼女にとって必要なことなのだろう。

 僕は半身だけ振り返って、軽く頭を下げた。

 少しつり上がった猫のような彼女の目がじっとこちらを見据えていた。

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