第3話 113号室 声を織る




 彼を凍らせているのは声だった。



 この病棟には色々なものが揃っている。彼らを気味悪がる者もいれば彼らの余生を何かの余興のように思う者がいるのも事実で、そんな富豪達の寄付で病棟内部は成り立っているのだ。

 欲しいものがあれば手に入るし、遊ぶことも趣味に没頭することも出来る。それだけ聞けば夢のような場所だ。その代わり、どんなことがあってもその場所から出られはしないけれど。


 彼は図書室にいた。静かな気配が広がる中、部屋の一部であるかのように、ごく自然に風景に溶け込んでいる。

 近づいても、まして僕が隣に立っても気づかないほど本に熱中していた。僕は数歩後ろに下がって窓をこつ、こつと叩く。


 彼はぴくりと動いてゆっくり体を起こし、後ろを振り向いた。僕に気づくと少しだけ目を見開いて、にこりと微笑みかけながら手元にある薄い電子機器を叩く。


『こんにちは、先生』

「はい、こんにちは」


 表示された言葉は無機質だったが、青年は柔らかく微笑んでいた。

 彼は恥ずかしそうに額をかく。


『すみません、夢中になってしまって』

「かまいませんよ。僕も少し早く来すぎてしまいましたから」


 僕は首を振って彼の近くの席に座った。彼は本をぱたりと閉じて背表紙を撫でながら、外を見た。

 ひらりひらりと桜が舞っている。

 少しの沈黙の後、視界の端で彼が動いた。


『先生』


 彼はすっと画面を僕に見せてきた。なんでしょう、と問えば美麗な顔が悲しげに微笑む。


『両親が、また何か言ってきましたか』

「ああ、すみません、分かってしまいますか」

『人の顔色の変化には、敏感なので』


 下手なモデルよりよっぽど美しく儚げな微笑みだ。

 僕は目を伏せ、手元にある鞄をごそごそと探りながら答えた。


「前回とほぼ同じです。声帯手術はしないのかと。それから、これを」


 すっとメッセージカードを渡す。封筒も何も無いそれには流れるような文字で短い文が書かれていた。


『手術のこと、考えておいてね。愛しているわ』


 彼は苦笑する。悲しげな雰囲気は変わらない。


『やっぱり、伝わっていないのですね』

「何度もあなたの意向は伝えているのですがね。言いにくいですが、毎回『そんなこと』と言われてしまいます」


 彼は声もなく苦笑した。


「僕の伝え方が悪いのだと思います。すみません」

『先生のせいではないですよ』


 彼はメッセージカードをそっと折り曲げた。想定されていない衝撃に、紙は醜い折り目を付けて無様な姿を晒す。


「僕の意見は『そんなこと』か……」


 ぱき、と音がした。

 彼の口が「あ」の形で止まる。しまったという顔をした彼は左手を軽く振り、再び声もなく笑ってその指を見た。

 彼の小指が、透明な水晶で覆われていた。





 彼はとても有名な歌手だった。淡く溶けていくような歌声がとても美しいと評判の彼は一時期大変なブームを巻き起こし、全国で知らない者がいないというほどの人気を博した。

 しかし彼は、テレビに出演してから二年ほどしてぱったりと表社会から姿を消した。


 この病棟は表向きにはただの病院だし、入った人々のことは一級の犯罪者並みに箝口令が敷かれている。だから彼はもうテレビに出ることは無い。

 彼の病気は残酷だった。救いはライブ中にその症状が出たことはないというくらいだったが、彼はそれを一番の幸運だと語った。


『僕は歌で人を笑顔にしたかったんです』


 小学生の夢のようなことを、未だに彼は言い続けている。

 馬鹿にしているわけではない。


 病気になって一年。彼はずっと、今でも、ことあるごとにそう言っているのだ。人を笑顔にしたかった。歌で元気になってほしかった。だから別に歌えなくなったことに未練はないのだと。彼の曲は生き続けているから。

 けれど彼は、だからと言って声帯の摘出手術に頷きはしなかった。この病棟に入ることを選んででも声を失いたくはないと言った。

 声を出したら体が水晶と化していく。彼の病気は残酷だ。






「大丈夫ですか」


 僕はすぐさま看護師を呼ぼうとして、彼に押し留められた。


『本当に大丈夫です、多分すぐに戻ります』


 彼は綺麗に水晶に閉じ込められた自分の小指をしげしげと見ながらそう文字を打った。研究者じみた行動だが、水晶と化しているのは紛れもなく彼の指である。


『今の僕は、実は一日に歌一曲分くらいなら大丈夫なんですよ。明日には完全に戻ってます』


 どういう原理か知らないが、この病棟に来てから症状が和らぐ人がいる。彼もその一人だ。

 歌うことなど以ての外だった彼だがときたま鼻歌を歌っていることがあるのを僕は知っている。


『ねえ先生、体を大事にって、どういうことだと思いますか』


 突然ぽつりと、呟くように彼は書く。

 僕は何も言わなかった。彼の指は僕の返事など待っていないように見えたからだ。


『僕はね、先生。原因があったら取り除いて……僕の場合は声帯を、ですね。そうして社会復帰することだけが体を大事にするってことじゃないと思うんです。病気にかかりそうだから大事を取って休むだけが体を労るってことじゃないと思うんです』


 静かで滑らかな指が波紋を広げるように文字列を打った。


『声を出したら結晶になるから声を出さないっていうのは対処法の一つです。でも僕は自分の限界を知りたいんです。どこまでなら僕は歌えるのか、それを知ることも体を大事にするってことだと思うんです。僕の体なんだから、最大限僕が、活用してやりたい』


 沈黙が落ちる。こういうときは彼の吐き出すままに言葉を聞いてやるのが処世術だと僕は知っていた。そのためのカウンセラーなのだから、仕事の本分とも言えようか。


『僕の歌を待っている人がいるんです。正確には僕の声を。歌ではなくて、僕の声を。僕は歌さえあれば人は元気になれるのだと思っていました。でもファンレターを受け取って、そうじゃないって気づいたんです』


 彼は病棟に入ってからもずっとファンレターを貰っている。返事を出すことも許されているけれど、彼は出さない。混乱を招かないように。


『中学生の子とかがひっきりなしに手紙をくれるんです。僕の声に救われた。僕じゃないと駄目なんだって。歌なんて関係なくて、僕が作って、僕が紡ぐ言葉が好き、だと』

「あなたは自分で作詞作曲していたんでしたね」


 はい、と言葉が返る。


『桜のような言葉だと言われたことがあります。僕は一人だけれど、僕の言葉はどこにでもあるような、ふとしたときに思い出して綺麗だと泣きそうになるような、そんな言葉だと言われたことが』


 僕は笑顔にさせたかったんですけれど、と苦笑した。


『だから声を切り取っては駄目なんです。僕でないと駄目な人がいるなら、僕は諦めてはいけないんです。そう、何度も伝えているんですけれど』


 彼の両親が一番に考えるのは彼のことだ。それは仕方が無い。親なのだから。けれど代償に、彼の願いは叶わない。


「不謹慎なことを言いますが……僕は、あなたが手術をしていないことが、純粋に嬉しいですけれどね」


 彼の目が見開かれた。僕はスマホを取り出して音楽サイトを開く。


「僕も、ファンでしたから」


 購入した曲一覧には彼の曲がすべて入っていた。


『……知りませんでした』

「言っていませんでしたからね」


 苦笑すると、ぽかんとした顔が返ってきた。口が開いてますよと指摘すると慌てたように閉じる。


「ただ、ファンはあなたではないのですから、あなたが決めたことに口出しをする権利はないと思いますよ。僕も含めて、誰にも」


 静かに彼が聞いている。そんなことは分かりきっているだろうと思う。所詮僕は誰でもわかっているようなことしか言えないのだ。


「あなたの本音は?」


 彼が息を呑む。

 僕は窓の外を見た。


「別に聞いたからと言って何もしませんしできません。僕はただのカウンセラーですから、影響力なんて持ってませんし」

『……冗談が、上手いですね』


 彼は笑顔でそう書いた。一つ息をついて、ぽつりと言う。


『僕はね、先生。夢があるんですよ』

「夢ですか」

『ええ、誰のためでもない、僕のための夢です』

「どんなものですか」


 彼はキーボードに指を置くのを一瞬躊躇って、それでも素早くその言葉を打った。


『僕は、歌を歌って死にたいんです』


 僕はピタリと動きを止めた。彼はすっきりした顔で再びキーボードを打った。


『読書家が本に埋もれて死にたいと願うように、僕は音に囲まれて死にたい』


 彼の微笑みが深くなる。キーボードを打つ手が彼の興奮具合を示していた。


『僕にしかできないじゃありませんか?』

「……ええ、そうですね」


 僕も微笑んだ。それはファンのために声帯を切り取らないでいるというよりも、よっぽど彼らしい理由であるように僕には思えた。

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