第2話 247号室 蜜を吸う




 彼女を泣かせているのは蝶だった。




 病室の扉の隙間から蔦が伸びていた。

 僕は足を止めてそれを観察する。うねうねとまだ動いているそれは隙間という隙間を埋め尽くしていて、姫を守る茨のようにも見える。


「……」


 扉の横にあるインターホンを押す。プツッという音がして機械を通った声が聞こえた。


『……もしかしてカウンセラーさん?』

「はい。大丈夫ですか?」

『うん、ちょっと待って』


 年端もいかない少女の声が淡々と言葉を返したのち、五分も経ったときには蔦は消えていた。するすると動いて病室内に消えたわけでもなんでもなく、普通に萎びて枯れて床に落ちていた。


『どうぞ』


 再びあまり抑揚のない音が響く。

 僕は失礼しますと声をかけて病室に入った。

 ベッドには少女が座っていて、彼女に縋り付くようにして一人の男が眠っている。


「ちょっと暴走したみたい。たまにあることだし大目に見てあげて」

「ええ、それは構いませんが」


 僕は椅子に腰掛けると少女の目元を指さした。


「それは痛くないのですか?」


 少女は一瞬動きを止めて、なんでもないかのように答えた。


「慣れたから。きっともう消えないし」


 笑顔と言うには薄すぎる笑みを浮かべた少女は目尻で羽ばたいている青い蝶を撫でた。哀しげに、愛しげに。

 彼女の涙は肌に触れると蝶の模様の痣を生む。蛹もなく生まれた蝶は日に日に宿主の体を蝕むのだ。


「お母さんと違って私はそう簡単に死なないのだから、この人に感謝しなくちゃね」


 泣くことを耐えすぎて固くなった表情筋が申し訳程度に動いた。

 彼女の病気は母親からの遺伝だった。当の母親は彼女を産んだことで涙を大量に流し、それが元で彼女が八歳のころに亡くなっている。

 僕は彼に視線を移した。


「彼の蔦が特効薬、ですか」

「うん、そう」


 この病棟に押し込められている患者たちの中には「相性」を持つ者がいる。目の前の二人が良い例で、彼女の痣は彼の体から伸びる蔦を枯らし、彼の蔦は彼女の蝶を殺す。


「この人に比べたら私は軽いほうだと思う。泣かなければいいんだし」

「……」


 それを果たして軽いと評していいものなのか、そもそもこの病棟に症状の軽い患者などいるのか、僕には判断がつかない。少なくとも彼女は病気のせいで家族を失った。

 少女が窓の方を向いて静かに問いかける。


「ねえ先生、あの人は来た?」


 僕の方を見た彼女の顔には感情らしい感情は何も浮かんでいなかった。


「何か、言っていた?」


 僕は目を伏せて答えた。


「……ただ一言、『返せ』と」

「………………そう」





 少女の父親は普通の人間だった。普通に妻を愛し、普通に結婚し、普通に子供を産むことに反対した。普通に、奇怪病に侵された妻を守ろうとした。


 だから自分の妻が命懸けで産んだ子供を愛することが出来なかった。

 母親の病状が急変すると母親自身が止めるのも構わずに子供を放って病院へと向かう。そんな男だった。

 彼は未だに我が子を恨んでいる。隔離されている病棟に毎月向かい、死んだ母親を返せと怒鳴るくらいには。


『女の子じゃなかったら多分殺されていたと思う』


 と、彼女が虚ろに語ったことがあった。

 彼女は病気以外の要素もきちんと受け継いでいて、とても母親に似ている。彼女の父親はそれだけを心の支えに彼女を育てた。彼が壊れてしまったのは母親が死んだときだ。

 彼女はそれから三年間、父親の言葉の暴力とネグレクトに耐え続けた。ついには不登校になり、心配した友達に連れられてこの病棟にやってきた彼女はひどく憔悴していて、顔中が蝶に覆われていた。


 目尻の蝶はもう消えないだろうという話だ。




「未だに時々分からなくなるの。私は生きるべきか死ぬべきか。お母さんがいなかったら私は生まれていないけれど、そもそもお母さんが産まなければ私がお父さんに殺されそうになることはなかった。でも私がいなかったらこの人はきっと死んでいるし、私はこの人に生かされている」


 どれが一体正しいのか。


「……あなたのお父様がここに来ることはありません。言葉や手紙はあなたが望むなら伝えますが、嫌ならば何も伝えないこともできます。あなたはこの病棟の中では自由です」


 ここにいる人々はこれからほぼ外に出ることは許されない。彼らの中で病気の原因が解明された者はいないからだ。この病棟の中でなら結婚も自由だという風に名目上はなっているが、それも病院側からの審査が入る。彼女のように遺伝性の病気を持つ人は特に。


 最も、最終的に病院側も投げやりに許すだろう。彼らは検査という名目でその体を研究されているが、原因も不明なら結果も不明な病気ばかりで、一向に研究が進まないのだ。遺伝はあっても感染する病気は観測されていないので、隔離も精神的な影響を考えたものに過ぎない。

 彼女はことりと首をかしげた。


「先生は、怖くないの?」

「何がですか?」

「私たちが。私たちという存在が生きていることが」

「他の人は分かりませんが、僕は別に怖くありません。あなた達は何をするわけでもありませんから。『現象』であって、『無意識』の産物だと僕は思っています」


 彼女は僕の目をまっすぐ見つめて沈黙した。彫像のように動かなくなってしまった彼女をじっと見つめ返す。

 しばらくして、彼女は無表情のまま何度か目をしばたいた。


「私は怖い……怖いんだよ、先生」


 ふるりとその瞼が揺れる。僕はさっと立ち上がってポケットを探った。


「怖いよ。怖くてたまらない」


 不幸なことに彼女は感受性が強い。感化されやすく周りから影響を受けすぎるきらいがある。

 探し出したハンカチを渡す前に彼女は泣いていた。


「この人が死んでしまったら、私が生きることを望む人はどこにいるの?」


 はらりはらりと流す涙が通った道に鱗粉が散る。頬に羽ばたいた蝶はまるで回帰するように瞳に向かっていた。


「落ち着いてください、痣が」

「私は死んでもいい。別に死んでも構わない。でも、じゃあ私は誰に愛されているの? お母さんは死んでしまった。お父さんには憎まれた。友達の作り方なんて分からない。私はどうしてここにいるの?」


 声は震えもしない。けれど瞳から流れる雫が止まらない。表情をぴくりとも動かさないまま彼女は滝のように涙を流し続けた。

 年端もいかない少女の頬にハンカチを無理やり押し付けて涙を拭うことも躊躇われた。僕がそのまま突っ立っていると、雫がぽつんと落ちて、彼女に縋り付いていた男の髪を揺らした。


「んん……」


 くぐもった呻き声を出した彼はすぐにゆらりと頭をもたげた。ぱちぱちと目を瞬いて、彼女の泣き顔に不思議そうな顔をする。


「どうしたの、そんなに泣いて」


 ふんわりと笑って、躊躇なく彼女の頬を拭った。彼女は答えないまま俯いてしまう。


「ん? あれ……先生、どうしてここに? なんでこの子泣いてるの?」


 僕を見つけて、おっとりと言った彼の雰囲気にほの暗さが宿る。


「泣かせたの?」


 彼女の頭を抱き抱えた彼の目が笑っていない。僕は思わず一歩後ずさった。


「すみません、彼女のお父様の話をしたので、嫌なことを思い出させてしまったのかもしれません」


 嘘はついていない。

 彼は途端に眉を下げた。


「また来たの? あの人、懲りないね」


 心底どうでもよさげに吐き捨てて、彼は少女の頭にぽんっと手を乗せた。


「綺麗な蝶なのに」


 言って、手のひらに生えた葉で彼女の頬を撫でて涙を拭った。痣が消え、葉は枯れる。少女が初めて喉を震わせた。


「あ、の」

「うん?」

「先生の、せいじゃないの」

「分かってるよ」

「お父さんのせいでも、ないの」

「そっか。君が言うならそうなのかな」


 彼はうんうんと頷きながら彼女の頭を撫で続けた。


「お、怒ったら、駄目。やめて……」


 青年が動きを止めた。


「うーん、なんで分かっちゃうのかな。君は人の感情を見抜くのが上手だよねえ」


 君がそう言うなら気にしないことにするよ────と言った青年に、少女はほっとしたようにもたれかかる。

 僕はなんだか場違いな気がしてそろりと後ずさった。

 彼はもう一度彼女を抱きしめると、柔らかく微笑んで僕を見た。こっそりと出ていこうとした僕を見る目は捕食者のようだ。

 僕はぴたりと動きを止める。


「先生」

「……はい」

「僕のカウンセリングは、今回もいらないよ」

「……分かりました」


 静かにそれだけ言って、病室を後にする。

 彼のカウンセリング記録は、今回も真っ白のままのようだ。

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