縛られる赤ずきん
3月半ばの、土曜の夜。
俺と佐々木さんは、彼女のお気に入りのカクテルバーにいた。
窓際の静かな席で、それぞれのオーダーした酒をただ俯きつつ口にする。
逃げるように佐々木さんの部屋から帰ってきて以来、俺は彼女とまともに目も合わせられずにいた。
あの週末、俺が彼女と過ごした時間は、一体何だったのか。
何ともやりきれないその後味の悪さは、いくら割り切ろうとしても拭いきれない。
まだたった1週間なのに、この気まずさは俺にとって半端じゃない苦痛だった。
岸本営業部長に苦しさを聞いてもらった翌日の夜に、意を決してメッセージを送った。
「大事な話があるから、土曜の夜に会いたい」と。
彼女が本当に見つめているのは、俺ではなく——
俺が本当に見つめているのも、彼女ではない。
それを、もうはっきりさせるべきだ。
俺自身のためにも、彼女のためにも。
彼女も、会社での俺の態度の変化には明らかに気づいていたはずだ。
「なら、あのカクテルバーで、土曜の6時に」とだけ、返事が返ってきた。
俺がこれからどんな話をするのか、彼女も何となく察しはついているのかもしれない。
いつもの明るいお喋りも、今日は一言も出てきていない。
「——話って、何?」
沈黙に堪りかねたように、佐々木さんが向かいの席で真剣な眼差しを俺に向けた。
俺は、どういう顔をしていいのかわからないまま、曖昧に彼女と視線を繋ぐ。
「——これで、終わりにしようか。俺たち」
一旦息を吸い込んだら、驚くほど呆気なくその言葉は出てきた。
彼女は、暗い瞳をざわざわと曇らせる。
「…………どうして?」
「——……
このまま一緒にいても、お互いを深く想い合えないだろ。俺と君は」
彼女は、俺の顔を悲しげに見つめる。
そして、躊躇うように、唇が小さく動いた。
「——ねえ。
どうして急に、そうなるの?
先週、私の部屋に来てくれた時には、あんなに優しかったのに……
私、何か篠田くんを傷つけるようなことした?」
「ならば——
ハルト、って、誰」
これ以上黙っていることができず、その名が思わず口から飛び出す。
彼女の肩が、ギクリと大きく揺れた。
「——……
……なぜ……
なぜ篠田くんが、その名前……」
「君が言ったんだよ。
先週、ベッドで——俺の腕の中で。
溶けそうな眼差しで俺を見つめて、そう囁いたんだ」
刺々しくなる口調をどうすることもできないまま、俺はその事実を一気に吐き出す。
「——……」
俺の言葉に、彼女はその表情を固く硬直させた。
「——俺が別れたいって言ってる理由、分かっただろ」
「…………
嫌」
彼女は、テーブルに握った拳にぐっと視線を落とすと、小さくそう呟く。
「……え?」
「私は、嫌。
あなたと別れるなんて」
予想外のその答えに、俺は虚を突かれてぐらぐらと話の方向を見失う。
「——……どうして?
君の本心は、俺よりもその人に惹かれているんだろう?
それに——俺も。
俺も、君と同じなんだ。
俺にも、実は——」
「やめて!
そんな話しないで」
彼女の鋭い声が、俺の言葉を遮る。
「——あんなやつに、惹かれてなんかいない。
あんなやつ、もう好きじゃない。
ピザの宅配みたいに、電話一本で私を捨てるような男。
あんな自己中で、人の心を平気で踏みにじるような男——
あなたと付き合いたいって最初に言ったのは、私よ。
私が、誰よりも早くあなたを恋人にしたんだから……今更その順番を引っ掻き回したりなんかしないで。
失いたくない。
暖かくて、細やかで、いつも優しく私を包んでくれるあなたを……絶対に」
「…………」
「——ね、篠田くん。
ハルトなんて名前、もう二度と口にしないで。……お願い」
彼女の震える肩を、俺はただ途方に暮れて見つめる以外になかった。
*
そんな思わぬ展開で、別れ話は結局宙に浮き——とてつもなくどんよりとしたものが俺の胸にひっかかったまま、週が開けた。
月曜の朝。
つり革につかまり、出勤の電車の車窓に流れる春めいたちぎれ雲を見つめながら、盛大なため息を一つ漏らす。
あの話の後、佐々木さんはまるで何事もなかったかのように、いつもの活気と明るさを取り戻し——いつにも増してパワフルな弾丸トークで、重く漂うモヤついた雰囲気を一気に吹き飛ばしていった。
周囲の空気がどうだろうがお構い無しに自分の空気に塗り替えていく強力なパワーのようなものは、俺には到底太刀打ちのできるものではなく……結局確固とした態度をとることもできぬまま、彼女はひとしきり飲んで笑うと、「じゃ、またね」と明るく告げて帰っていった。
彼女の言葉から察するに……「ハルト」とは、どうやら数ヶ月前に彼女が電話一本で振られたと泣きながら猛烈にキレていた、あの元カレだ。
突然一方的に振られて、激しい怒りと悲しみに駆られても、心の奥までは容易に変えることができずにいる——そういうことなのだろう。
「はあ……」
どう捉えたらいいのか、この展開を。
新たなため息が、つい声になる。
——彼女は今、それほどまでに、俺を必要としているんだろうか?
忘れられない男をどうにかして心から追い出し、俺の側にいたいと……つまり、そういうことなのだろうか?
もし、例えそれが恋心とは違うのだとしても……自分が、相手からそんな風に必要とされているとしたら。
繋いでいたいと懇願する相手の手を、どうやって振り切ればいい?
俺の中の本心は、少しも揺らいではいない。
けれど——
自分自身の感情に任せて、縋る彼女を冷淡に切り捨てる場面を思うと、胸がぎりぎりと激しく痛む。
「ふうぅ…………」
こうやってため息をつくたびに、目の下のクマが深くなりそうだ。
そんなことを思いながら、自分のフロアへと向かうエレベーターのボタンを押す。
どっこらしょと声の出そうな気怠さをなんとか堪えてデスクの椅子に着くと、いきなり向かい側の五十嵐さんと目が合った。
「————篠田くん、おはよう」
待っていたとでもいうように、彼はどこか張り詰めた表情で俺を見つめる。
「……お、おはようございます……」
月曜朝イチにしてはいささか強すぎるその緊張感に、俺は微妙に戸惑いつつ挨拶を返した。
「君に、大事な話がある。
——今日の仕事上がり、都合がよければ飲みにでもいかないか」
「……今日ですか?
は、はい……大丈夫ですが……」
いつになく真剣な彼の眼差しに捉えられたまま、俺はどぎまぎと答える。
——大事な話……
大事な話って、何だろう?
それに、今日の今日って……何か緊急の話なんだろうか?
——もしかして……
週末に、何かプライベートで大きな動きでもあって……結局、仲林美優さんとの縁談を受諾することにした……とか。
そうせざるを得なくなった——とか……?
——そんな、まさか。
……いや。
よく考えれば、彼があの見合い話をうまく断れるなんていう確証は、どこにもない。
というか、あれほどがっちり外堀を埋められた縁談を断れることの方が遥かにレアケースだ。
そんなことは、最初から俺だってよくわかってるじゃないか。
むしろ……彼がその話を切り出してくる覚悟を、俺はしておくべきなのだ。
「——……」
今度こそ目の下が真っ黒いクマに覆われていくような思いで、俺は彼の瞳を見つめた。
*
じりじりとした不安を募らせながら迎えた、その日の夜7時半。
俺と五十嵐さんは、例の作戦会議場の居酒屋にいた。
ビールのジョッキがテーブルにふたつ届いたが、俺も彼もどうやらほぼ同レベルに緊張しており、まともに乾杯すらできない。
「……」
恐る恐る視線を上げた俺に、ジョッキを一口呷った彼が思いつめたように口を開いた。
「篠田くん」
「——はい」
ジョッキにかけた指が、小刻みに震える。
一つ、大きく息を吸い込んだ。
どんなに悲しい話でも、しっかり受け止めろよ。——男だろ。
「先週の土曜——仲林美優さんとの見合い話が、白紙に戻った」
「——……
そうですか……
…………
……白紙……
って……へ!!?」
俺は思わず耳を疑う。
深々と項垂れかけた顔を、思わずがっと持ち上げた。
「——あの、五十嵐さん……
済みません、もう一度言ってください」
「だから。
美優さんとの見合い話は、綺麗に断ったと……そう言った」
「…………
本当ですか……?」
「本当だ」
彼は、真っ直ぐに俺を見つめる。
「——この前君は、自分自身の気持ちに整理がついたら俺にちゃんと話すと……そう言っていたな。
けれど……俺はもう、君が何か答えを出すのをじっと待っていることなどできない。
君が俺から離れていく瞬間をただ想像する毎日には、もう耐えられそうにない。
君は、覚えてるか?
『この見合い話を綺麗に断ったら、俺の嫁になるか』——。
以前俺が君に問いかけて、拒まれた告白だ。
——篠田くん。
もう一度だけ、チャンスをくれないか。
俺は、あの見合い話を断ってきた。
俺の全力をかけて。
——君に、側にいて欲しい」
「————……」
「…………
だめか、やっぱり」
切羽詰まったような空気をふっと緩め、彼は淡く苦笑する。
「ち、ちょっと待ってください、違うんです!!
あの……まだ俺、マジで自分自身のことがちゃんと整理できてなくて……」
「整理って……何をだ」
「それは……その……」
「佐々木さんとのことか」
俺は、ギクリと顔を上げる。
「——何か、彼女と縺れたりしてるのか」
「……
これで終わりにしようって、言ったんです。彼女に。
そうしたら……嫌だって、拒否されちゃって……」
「——あの女」
鋭い舌打ちと共に、何やら不穏な呟きが彼の口から零れた。
「——は?
……あの、五十嵐さん?」
「篠田くん。
今度の土曜、一緒に渋谷へ行くぞ。——人気バンドのライブ会場にな」
「……へ?
ライブ??」
何が何だか訳の分からないまま、俺は五十嵐さんの険しい眉間の皺を見つめた。
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