ガチバトル

 3月半ばの、土曜の午後。

 海岸沿いをドライブしてきたBMWを広い公園の駐車場に止め、五十嵐は仲林美優と車窓から海を見ていた。


 早春の海は淡い日差しに穏やかに凪ぎ、キラキラと小さなさざめきを輝かせている。



「——予定を急に変更して、ごめんなさい」


「いいえ、全然。

 僕も、こうして海を見るのは久しぶりです。……それに、潮の匂いってなんだか懐かしいですね」


 俯き加減の美優に、五十嵐はいつもと変わらぬ無表情を淡く綻ばせながら、窓を少し開ける。

 静かな波音と潮風が、その隙間から心地よく流れ込んだ。



「……五十嵐さん。

 この前の日曜は、人と会う予定があるって言ってましたね。——どなたと会ってたんですか?」


 美優が、静かに話を切り出す。



「……どうしたんです、急にそんなことを?」


 やはり来た。

 そう思いつつ、五十嵐は冷静に答える。



「——あなたが、その方と入ったカフェが……私のクッキングスクールのビルの向かい側だったの。気づかなかったでしょう?

 若くて、とても可愛らしい方ね」



「——……

 そうでしたか。


 ……彼女は、僕の知人の妹ですよ。これから就活で東京に来る機会も増えるから、慣らす意味で少し街を見学させてやってくれと頼まれましてね」


 五十嵐は、敢えて美優から視線を逸らしながらそう説明する。



「…………

 本当ですか?」


 美優の声が、どこか鋭さを帯びた。


「あなたは、以前……私の告白を断った際、『自分には想う人がいる。だからあなたには応えられない』と……そう言っていましたね。

 ——あの子は、あなたが想うその人ではないんですか?」



「——……

 バレちゃ仕方ないな」


 五十嵐は、逸らしていた眼差しをすっと彼女へ向け直した。



「……!」



「——はは、冗談ですよ。

 彼女は、ただの知人の妹だ。


 けれど……美優さん。

 僕がこうやって『そうじゃない』と否定すれば……あなたは、それで安心できますか?

 僕の言葉を、すんなりと信頼することができますか?」




「——……」



「——できないでしょう?


 こんな風に……僕は、どこまで行っても、あなたを安心させる存在にはなれないんです。

 そして僕も、全力を傾けてあなたの信頼を得る努力は、多分これからもすることはない。

 あなたの質問に、さっきのような残酷な返事を平気で返す男と……あなたは、本当に幸せを育めると思いますか?」




「…………」



 悲しげに俯いていた美優の表情が、不意にすっと切り替わる気配が漂った。




「…………

 そうかもしれないわね。

 見た感じ、確かにあなたの彼女への態度は、想う相手へのそれではなかったようだし。

 あなたの言う『単なる知人の妹』という話は、信じるわ。


 ……ただ——」



 そこまで言うと、美優は言葉を切り——これまでとは打って変わった冷淡な視線を五十嵐へ向け、美しく口元を引き上げた。



「——私のお友達にね、面白いことを言う子がいるの。

 彼女は、社内の男性たちの様子をつぶさに観察しては、『あの二人絶対付き合ってる〜!』なんて冗談を言って楽しむ、変わった趣味がある子でね」


 美優は、いかにも楽しそうにクスクスと笑い出す。


「その子が、この前ね。

『五十嵐さんって、実は絶対に恋してるよ〜、うふふ』なんて楽しそうに言うから……

 私、びっくりして。『彼って、誰?』って聞いたんです。

 そうしたら——

『ほら、同じ部門の篠田さん。彼の向かい側の席の可愛い男の子! 彼を見る時の五十嵐さんの眼差し、明らかにその他大勢とは違うもん!』なんて……彼女、自信満々に言うの。


 そんな話、ただの悪ふざけだって、ずっと思ってたけれど——

 ……もしも、あなたが想うその人が、本当に篠田さんだとしたら……なんて、最近急に気になってきちゃって」




「——————」




 突然襲ってきたその衝撃の大きさに——押し殺す間もなく、内心の動揺が表情に流出する。

 まずい、と思った時には、もう遅かった。


 五十嵐の反応を鋭く見て取り、美優は改めて驚いたように大きく目を見開いた。



「——あら?

 あながちデタラメでもないのかしら」




「——……」




 今更否定をして、どうなるのか。

 今、明らかに、彼女に本心を見抜かれたのだ。




「——ねえ」


 美優の声が、俄かにしなだれかかるようなどろりとした甘さを帯びる。


「……もしかして。

 あなたは私を厄介払いした後、あわよくば彼と仲良く手を繋いで……とか、そんなことを考えてるのかしら?

 こんなにも苦しんでいる私をゴミ箱に投げ捨てるようにして、自分一人が幸せを掴みに行くつもり?


 ——そんな虫のいいこと、絶対にさせない。

 って言うか、できるわけがない。


 あなたが、同性の後輩へ思いを寄せてるなんて。

 周囲の人が知ったら、一体どうなるかしらね?


 ……私は、あなたがバイだろうが、一向に構わないわ。

 今後一切、他の人によそ見しないでさえいてくれれば」



 美優は、その艶やかな唇を一層美しく引き上げ、五十嵐を追い詰めるように見つめる。



「……この話を、私達だけの秘密にしたかったら——私の言う通りにして。


 ——あなたは、私だけのものだわ。これからも、ずっと」





「————……」




 五十嵐は、美優の勝ち誇ったような微笑を黙って見つめ返す。


 ——そして、静かにジャケットの内ポケットを探ると、おもむろにスマホを取り出した。




「……美優さん。

 済みません。


 今の会話——全部、録音していました」




「……

 な……」



 五十嵐のその短い言葉に、美優は一気に蒼白になり、口元を大きく引きつらせた。



「何か抗議するおつもりですか?

 ——でも、ぶっちゃけあなたの言動とおあいこですよ」


 そこでスマホの録音機能を停止し、五十嵐は複雑な苦笑いを浮かべる。



「あなたがこれ以上、この関係を強要する気ならば……この会話の内容を、そのままあなたのお父さんにお伝えすることもできますが」




「————……」



 返す言葉が見つからないかのように、美優はただ悔しげに震える唇を噛み締めた。

 








 自分の部屋に帰り着くと、五十嵐は疲れ切ったようにカバンをどさりとソファに放る。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出して大きく一口呷ると、手にしたスマホの画面に静かに視線を落とした。



 会話の録音は、先日街を案内した際に真琴が提案したものだった。


『——私の友人が、以前付き合ってた彼に別れを切り出した時に、別れを渋るその男に変な風に脅されて、すごく怖い思いをしたことがあるそうです。

 それ以来、彼女は別れ話をするときは、万一何を言われても対処できるように会話内容を録音してるんだって、聞いたことがあって。

 仲林さんみたいな強引な女子って、割と何やるかわからない怖さがありますよ。——念のため、会話内容を録音してはいかがでしょう?』



「——真琴ちゃん、ありがとう。

 君は、俺の恩人だ」


 そう呟くと、五十嵐は小さく微笑んだ。




 気持ちを切り替えるように残りの缶ビールを一気に飲み干すと、五十嵐はふうっと一つ大きく息を吐き、スマホのアドレスを呼び出した。


 これから通話する相手は、父だ。

 避けては通れない大仕事が、もう一つある。




『——廉か』


「父さん。

 ——大事な話があって」



 電話の奥の静かな声に、緊張で汗ばむ拳をぐっと握る。




「例の……仲林美優さんの件だけど……」



『……ああ。

 その件は、既に済んでる』




「——は?」


『仲林専務から、さっき電話があってな。

 ……お前、今日は随分乱暴なデートをしてきたようだな』




「——……」



 恐らく、帰宅した美優が、今日のことを怒りに任せて自分の都合のいいように父親に話したのだろう。


「……」


 電話の向こうから、これから一体どんな非難が浴びせられるのか——

 五十嵐は、息を呑んでそれを待った。




『——お前は、悪くない』




「…………」




『——以前、私はお前に確認しただろう?

 幸せにしたい相手が既にいるのか、と。

 あの時、お前がちゃんと答えていれば、私も今回のような無理強いなどしなかった。


 ——そして、お前が誰に心を寄せているとしても、それはお前の自由だ。

 まあ、確かに大いに驚きはしたが……そのことに私が口出ししたって、どうなるものでもないのだろう?』



 俄かには信じ難い父の言葉に、五十嵐は言葉を失ったように黙り込む。



『ただ——これだけは言っておく。

 その気持ちを、決して中途半端に投げ出すな。

 その人と決めたのならば——最後まで、全力で愛しなさい。


 お前の気持ちが、私にはよくわかる。

 ——私も、いろいろな苦しみを味わった末に今がある、ということだ』




「——……

 父さん……」



『今回のことは、これで一件落着としよう。仲林さんは電話口で何やらいろいろまくし立てていたけどな。

 こういうケースは、騒げば騒ぐほど己の時代遅れぶりを晒すだけだと、彼も気づくだろう。——とりあえず、他人の性的指向を暴露するのはアウティングという重大な加害行為だ、ということを教えてやったよ。全く親子揃って浅薄極まりない』



 父の温かな声が、胸の奥深くへ染み込んでくる。


 ——思わず、視界がぶわりと熱く滲んだ。



『廉。近いうちに、こっちへ夕飯でも食べに来なさい。母さんも、最近お前の顔をまともに見てないってうるさいからな』




「——……ありがとう、父さん」




 こういう時ほど、こういう言葉しか出てこない。


 その短い言葉にできる限りの感謝の思いを込めて、五十嵐は通話口の奥へ呟いた。



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