煙草とギター
「——最近、君の表情が酷く疲れているようで、実は気になって仕方なかった。
佐々木さんと今どういうことになってるのか、よかったら話してくれないか。
——もちろん、君が話したくないというならば無理には聞かないが」
自分自身の苛立ちを一旦落ち着けるように目の前のジョッキを何口か呷ると、五十嵐さんは穏やかにそう俺に問いかける。
「……全部、話します。
むしろ、自分じゃもうどうしていいかわからなくて……」
目の前の分厚い霧は、自分の力だけでは追い払えない。
全く情けない話だが。
俺は、そんな縋るような思いで、最近起こった彼女とのことを洗いざらい彼に打ち明けた。
「——……」
俺の話を全て聴き終えた五十嵐さんは、激しいイラつきが抑えきれないかのようにスーツの懐へ手を伸ばしかけた。
「……あ、やめた方がいいな」
「いいえ、大丈夫です」
「すまん。じゃ1本だけ」
彼は綺麗な指でケースから煙草を一本抜き、慣れた手つきで火を点けると、少し顎を上向けながら煙をすうっと吸い込む。
——ああ、すげえ色っぽい。
彼のそんな仕草に、自分の脳が思わずそういう反応をする。
ゆっくりと脇へ煙を吐きながらすいと俺へよこした彼の眼差しに、俺はギクリとしてそんな脳内のものをぶんぶんとかき消した。
「——篠田くん。
彼女の行動は、俗に言う『二股』だ」
「二股……」
「そうだ。
……恐らく君が知らない彼女のことを、俺は知っている」
その言葉に、俺はぎょっと固まった。
「——実は、少し前に、彼女がそのハルトという男と通話してるところを、本当に偶然小耳に挟んでな。
内容的に——どうやら、そいつにヨリを戻したいとでも言われたんじゃないかと……そう感じた。
通話を終えてフロアへ戻る彼女を呼び止めて、それとなく彼のことを聞いてみたんだ。
彼女、随分と幸せそうな顔をして……
彼は、最近人気の出始めたバンドのギタリストらしい。今度渋谷で開催するライブのチケットを、彼が自分のために用意してくれた、と言っていた。
彼にはムカつくけど、ライブには行くつもりだ、と。
『BLACKJOKE』というそのバンドが渋谷のライブに出るスケジュールは、今度の土曜だ。——その日彼女が、ハルトに会わずに帰るわけがない。
さっき君に一緒に行こうと言ったライブは、その事だ」
「……その通話を聞いたのは、いつ頃ですか」
「先週の火曜あたり……だったかな」
——先週の火曜。
明らかに、俺が彼女に別れを切り出すよりも前の出来事だ。
この前の土曜は——彼女は、ハルトと復縁できる可能性に胸を踊らせつつ、あんなにも悲しげな顔で俺を引き止めたのだ。
まるでちょろい安全パイか何かを扱うように。
「……本当だ。
あなたの話を加味すれば、これはバカみたいに分かりやすい二股ですね」
思わず、テーブルの拳をぐっと握る。
「……俺にとっては、初めての恋人……だったんですけどね。
全く、いいようにあしらわれて——目の下のクマを勝手に黒くして。
本当にどこまで行っても俺のバカは治らない」
どうしようもない恥ずかしさと悔しさをなんとか押し殺したくて——ただおかしな苦笑しか出てこない。
「——……くそ。
殺してやりたい」
短くなった煙草をぐいぐいと灰皿に押し付けつつ、彼が低く呟く。
その目は全く笑っていない。
「……あ、あははっ……とりあえず冗談でもそういうコメントはダメですって五十嵐さん」
俺は微妙に青くなりつつ、なんとか笑ってそのシャレにならない空気を必死に追い払った。
同時に——こんな情けない俺のために、ここまで本気で怒ってくれる彼の気持ちが、胸にじわりと染みる。
「——とにかく、わかっただろ。
君の優しさにつけこもうとした彼女の狡さが」
自分自身をクールダウンするように一つふうっと息を吐くと、彼は眼差しを和らげて俺を見つめる。
「けれど……勘違いはするな。
君は、少しも間違っていない。
——君のその優しさは、かけがえのないものだ。
浅はかな女などに傷つけられてその宝物を何処かへ捨ててしまったりは、どうかしないでくれ」
彼の温かな声と眼差しに——思わず、胸が詰まる。
胸の奥から目の奥へと、抑えがたく熱いものがぐっと突き上げた。
「——……
ありがとうございます」
どんなときも。
この人が、こうしてそばにいてくれるなら——俺は、きっと幸せだ。
視界が滲むのを必死に堪えながら、俺は気づけばそんなことを思っていた。
*
その週の、土曜の夜。
俺は、五十嵐さんの車で渋谷のとあるライブハウスに来ていた。
『BLACKJOKE』という名のバンドが、目の前で熱のこもった楽曲を披露している。
迫力に満ちた演奏は、嫌が上にも観客のテンションを上げていく。そして、詰め掛けたファンのものすごい熱気が一層バンドマンたちを煽る。
この高揚感は、全く初めての経験だ。
「ハルト!!」と黄色い声で叫ばれ、ステージでおどけるようにニッと微笑むギタリストがいる。
——彼だ。
男らしく、精悍な顔立ち。
すらりと鍛えられた長身に独特な形のギターを抱き、彼はまるで恋人を愛おしむかのように情熱的に音を奏でる。
ギターの技術等は俺にはよくわからないが——彼の全身から発するオーラが、既に聴くものを夢中にさせる力を持っているようだった。
「あれがハルトね——女子が夢中になるわけだ」
俺の横で、あくまで普段の無表情を崩さず五十嵐さんが俺に囁く。
囁くと言っても、周囲との音のバランス上、相当に大声だが。
「——大学時代から4年も彼と付き合ってやったんだ——って。
彼に振られた時に……佐々木さん、泣きながらそう怒ってました。
もしかしたら、バンドの人気が出るまでの大変な時期を、彼女が隣で支えてたんじゃないかな……なんて」
俺は、明るく輝くステージを見つめたまま、何となくそんなことを思い出して呟く。
「——……全く君は」
彼は、どこか呆れたように俺を見つめると、ふっと微笑んだ。
「さあ、気持ちを切り替えていくぞ。君は目下彼女に二股かけられてる被害者なんだからな。
——ステージもそろそろクライマックスだ。行こう。
恐らく、彼女はバンドマン達の出待ちをするはずだ。ハルトと会うためにな。
先回りしてその現場を抑えるぞ」
五十嵐さんは淡々とそう言うと、ファンをかき分け会場の出口へと向かい始める。
「……」
「ってか、迷子になるなよ篠田くん」
「わかってます!!」
「ん」
俺を振り向き、彼は明るく微笑む。
「——いくぞ、俺」
そんな彼に励まされ、俺は気合いを注入すべく自らの両頬をバシバシと手で叩いた。
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