クズじゃないんですよ。
僕の五つ年上の彼女は、ストレスが溜まると食欲が落ちると言っていた。彼女がダブルワークだという事は聞いていたが、その副業の方がストレスの溜まる仕事なんだそうだ。
――夜の仕事?
ダブルワークの事を聞いた時、僕はそう訊ねたけど、孝代さんは笑って片手を振った。
――私みたいな地味なのが、無理無理。
そういう仕事ではないというのは、ウソじゃないだろうと感じた。
孝代さんは、嘘を吐けないタイプだ。
顔に出るし、行動にも出る。
嘘を吐いたままじゃ、ストレスが溜まって食欲が落ちた時に作るジュースを、正確な分量で作る事なんてできないんだ。
「ゼリー?」
孝代さんは、カウンターキッチンでゼラチンを掻き混ぜていた。
手にしてるのは、みかん? 大きめの柑橘類だ。
「ビタミンを取って、ストレスを軽減させるの」
カルシウムじゃないところが孝代さんらしい。いや、カルシウムがイライラを抑えるというのは迷信の類いらしいけど。
「美容にね」
ああ、なるほど。
「ストレスとか寝不足とか……」
溜息を吐く孝代さんは、今まで見た事がないくらい暗い顔をして、眉間に皺を寄せていた。
「本当に嫌になる人って、いるのよ、この世の中には」
一体、何があったのか知らないけれど、流石に言うべき言葉がない。ダブルワークが何なのかも知らないんじゃ、そこで感じるストレスの元も分からない。精々、言える事は「大変そうだね」か「大丈夫?」しかないけれど、それを言われて嬉しいかと言うと、僕自身は嬉しくない。孝代さんの立場になって考えたら、「大丈夫?」なんて訊かれても、「大丈夫」以外に言える言葉がある訳がない。
「あー、うん……。あー」
そう言って言い淀むしかないのも、情けない話だ。
そんな僕に対して、孝代さんはほっぺたに手を当てて軽く首を傾げる。
「肌が酷いの、ホント」
水を向けてくれるのは、孝代さんの優しさじゃないか。
僕は逆方向に首を傾げて、
「いう程じゃない気がするけど」
欲目もあるとは思うけど、僕は孝代さんの肌荒れが酷いとは思わない。
「……」
孝代さんは目を丸くして僕を見つめた後――、
「それは、ありがとう」
照れ隠しの薄笑い? それとも微笑み? まぁ、そんな曖昧な笑みを浮かべた。
逆に僕の方は、照れ隠しの薄笑いだ。
「で、ゼリー、食べていい?」
そのついでに孝代さんが作っていたゼリーに手を伸ばすけれど、孝代さんは「待って、待って」と僕の手を遮った。
「ジュレだけで食べたい訳じゃないのよ」
「そうなの? うまそうなのに」
「食欲が落ちてるっていったでしょ」
苦笑いする孝代さんの手元をよく見ると、ゼリーは2種類ある。
「あと、ゼリーじゃなくて、ジュレね。ジュレ」
……何が違うと言うんだ。
「全く違うのだよ、小林君。そもそもゼリーは英語で、ジュレはフランス語だ」
「言葉以外に何が違うんですか? 明智先生」
言葉の違いだけじゃないかと思うけれど、孝代さんは首を横に振り、
「ジュレはイタリア語のジェラートと同意語で、元々は凍らせるって意味なのだよ。原料に明確な違いはないがね」
同じって事じゃないか……。
「それって、オシャレに聞こえるってだけ?」
「デザート系と調味料系に分けられて、出汁とポン酢で和食によく合うポン酢ジュレ、洋食でもコンソメジュレがある。冷製パスタに使うと、とても美味しい。和風パスタだと黒酢ジュレとか、美容にも健康にもいいし、味もいい」
無視かよ。
「そして、何故、美味しいかというと、凝縮されるから。だとすると、だ」
孝代さんが指差すのは、ジュレに使ったみかんの皮。
「これは、ネーブルオレンジと、ポンカンを使ったジュレ。ジュレにする事で、甘みや栄養を凝縮した訳ね。おわかり?」
「理屈は何とか。でも、なんで食べたらダメなんですか? 先生」
「簡単だよ、小林君」
孝代さんは笑いながら、二種類のジュレを目の細かいこし器に載せて、
「これは、ジュースにするの」
ギュッと絞ると、こし器を通してジュースが出てくる。その色は、イエローじゃない。金色だ。
「そして残ったジュレは、こうね、透明なカットグラスに入れて……生クリームをちょんちょん、ミントをパッ」
そうしてできあがったのは、それも黄色と言うより金色のクラッシュジュレだった。白い生クリームと緑のミントがワンポイントだ。
味は勿論――、
「ジュース、すっごく甘い」
砂糖やシロップは一切、使っていないのに――いや、使っていないからこその、強い柑橘類の甘さだ。
そしてジュレも、ジュースを絞った残りかすとはいえない。裏ごししてもボロボロになったんじゃなく、うまく崩されたって感じだ。
「ジュレにして、味を濃縮したからこその甘みなのよ」
孝代さんもジュースを飲みながら、成功したって顔をしていた。
「ジュレも、この崩れ方がいいの。崩れてるからこそ、この濃淡が出るの」
スプーンを入れると、その濃淡が動いて、それもまた綺麗だ。
「ありのままじゃダメなのよ」
ふぅと息を吐き出す孝代さんは、少しストレスがマシになったって顔になっていた。
「手間を惜しまず、また食べられるものをクズとか言って捨てないから、いいの」
その言葉から感じるのは、孝代さんのストレスになっているのは、こういう考え方をしない人か多いんだろうって事だ。
「手間を惜しまず、見捨てない相手をちゃんと見つけられる人が増えると、もっと世の中、よくなりそうだね」
僕の一言は、孝代さんを驚かせたっぽい。
目を丸くした孝代さんは目を瞬かせて、笑顔に変えた。
「うん。ありのままでいるよりも、手間や努力を惜しまない人が増えてくれる方が、もっともっと、ストレスの少ない世界になりそう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます