明け方の冒険、白い月

 ――休みの日は、午前中がいいのよ。


 五つ年上の彼女は、よく朝から僕を誘いに来る。


 ――まだ寝てる人がいる、もう起きてる人がいる、今日予定がある人もいれば、予定をこれから立てる人もいる。そんな人たちがいる時間帯って、気儘でいいと思うのよ。


 孝代さんが休日も早起きする理由だそうだ。


「だけど、限度ってあるでしょ」


 僕が眠い目を擦りながら見遣る孝代さんは、ぼんやりした印象を受ける赤ら顔だった。飲み会があったらしい。お酒に強い訳でもないのに、こう言う集まりには必ず参加して、最後まで居続けるっていうのが孝代さんだ。


 しかし限度って言うのは、お酒を飲める量じゃない。



 僕が駅前に呼び出されたのは、朝とも言えない午前4時だ。



「しかも、迎えに来てって、僕は車もバイクも持ってないし……」


 飲み会だから迎えに来いと言われても、自転車くらいしか持っていない。


「いやぁ、一人で歩いてたら、心が折れるのよ」


 何なんだ、その理屈は……。


「そう言いながら、自転車を押して歩いてくれる所に感謝してるよ」


 小振りなショルダーバッグをクルクルと振りながら、孝代さんはそう言って笑っていた。それだけで救われた気分になるんだから、僕もあまり利口とは言えない。


 そうして夜明け前の街を歩いていると、意外に自分が知らない事に出くわす。


「ああ、もうやってるお店ってあるんだ」


 シャッターが降りて、電気なんて点いていない一角にあって、僕は一つだけ見えている明るい電灯の色を指さした。


「何か、いい匂いがする……」


 そこから漂ってくるのは、何とも言えない匂い。多分、濃くなると嫌な臭いになるんだろうけれど、店先から漂ってくる匂いは、記憶にないのに懐かしいと思ってしまう匂いだった。


「ああ、大豆を煮る匂いね。お豆腐屋さんよ」


 孝代さんは少し酔いが覚めたって顔を、僕と同じ方向へ向けていた。


「納豆とかお豆腐とか、朝ご飯に間に合うようにって早いの」


「なるほど」


 豆腐屋が早く開く理由は知っていたけれど、そこは態々、突っ込まない。


 小首を傾げている孝代さんは、何か思い出そうとしている風だったんだから。


「そうだ。丁度いい。お豆腐、買っていこう」


「朝メシ?」


 お酒を飲んだ事だし、少し早い朝食に冷や奴かと思ったけれど、孝代さんは首を横に振った。


「おやつ、おやつ」


「おやつ? 豆腐が?」


 想像が付かない。


「おや、知らないのかい? ワトソン」


 その名探偵は、アル中じゃなくヤク中だった気がするけど、まぁ、いい。


「冷や奴にするか、鍋に入れるか、あとはサラダに使うくらいしか知らない」


 僕が肩を竦めると、孝代さんは「いいでしょ」と店先へ足を進める。


「買っていきましょ」


 その足取りは、心なしか軽い。


「ごめんください。おはようございます」


 店の中に声を掛けると、丁度、作業をしていたおじさんとおばさんが振り向く。まだ今日の分ができているようには見えなかったけど。


「寄せ豆腐、あります? あと、きな粉と」


 孝代さんの注文は、丁度よくあった。


「ありますよ」


 おばさんがにこやかに対応してくれて、ビニール袋に入れてくれる。


「ありがとうございます」


 孝代さんが、また一層、楽しそうな笑顔を浮かべて戻ってくる。


「帰ってから、ちゃちゃっと作ってしまおうか」


 首を傾げている僕に、孝代さんはそう言った。





「寄せ豆腐っていうのは、型に入れる前の木綿豆腐の事なの。」


 そう言われると、なるほど、透明な器に入れた豆腐は、「寄せた」って感じだ。


「これを型に入れて、圧搾したりさらしたりしたのが木綿豆腐だけど、寄せ豆腐はそうしてないから、ちょっと食感が違うの」


 そんな豆腐に孝代さんが何をするかというと――、


「これに、黒蜜きな粉をかけます」


「……うまいの?」


 思わず訊いてしまうのは、それだ。黒蜜きな粉と豆腐って、全くイメージが繋がらない。


「おいしい、おいしい。だって、お餅に黒蜜きな粉かけると、最高でしょ? お餅も、お豆腐も、そのものの味が薄いから、味付けしてやると大抵、美味しくなる」


 そう言えばそうか。


「お豆腐は高タンパクで低カロリーだから、お餅よりヘルシーだし。寄せ豆腐は、おぼろ豆腐って言い方もあって、ほらほら」


 そう言われると、寄せ豆腐はふわっとした雲のような外見で、そこに黒蜜きな粉をかけると、闇夜の月に星を伴ったおぼろ雲がかかってるようにも見える。


 そして味は……確かにおいしい。


「香りがいいね。さっき、お店から漂ってきた匂いが、もっとよくなった感じ」


「木綿豆腐や絹ごし豆腐より、香りが強くて、大豆の味がするのも特徴。で、黒蜜ときな粉との相性もいいでしょ?」


 そう言っていると、丁度、夜が明けた。


 白くなった月が、まだ空に残ってた。

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