何してるんですか。追うんですよ。

 ふと夜更かししていると、昼間、五つ年上の彼女が言った事を思い出した。


 ――本日の議題。夜食は是か非か。


 孝代さんは、いつも唐突に、そんな話題を切り出してくる。


 まぁ、常識的に考えれば、よくないに決まっている。寝る前に食べても、消費されないカロリーは脂肪になるし、胃が動いた状態ではぐっすり眠れない。


 しかし現実では、そう言う常識で割り切れない事が多い。


 ――私の意見は、身体にいいって言われてる事だけをして、それ以外の事を切り捨てるって言うのは、心身の健康にはよくない。


 一理ある。


 一理あると思うのは、今、23時過ぎだというのに聞こえてくるメロディが、凄まじい誘惑を放ってくるからだ。


 たった三音「ドレミレド、ドレミレドレー」だけで構成され、小気味いいリズムで刻まれる曲。



 夜鳴きラーメン。



 夜中だけ営業する屋台のラーメン屋が流しているチャルメラの音は、抗いがたい何かがある。


 迷ったが、音が移動している事が、僕の決断を決定づけた。


 追わなければならないと衝動的に思い、部屋を飛び出し自転車に跨がる。


 追跡は容易じゃなかった。


 まず住宅地の中だから、音は反響してる。そもそも、そんな方法で追跡する訓練とか練習とかしてないんだから、正確な位置は掴みにくい。


「くそ」


 自転車を走らせまくったせいで流れ落ちてくる汗を拭いながら毒突いた僕は、そこで近くへ走ってくる自転車のライトに照らされた。こんな時間にサイクリングもないのだから、相手も屋台を探しているんだろうと思ったら、正解だった。そして相手の事も知っている。シャンパンゴールドなんて珍しい色の自転車は、その人以外に乗っているのを見た事がない。


「あれ?」


 自転車に跨がっている孝代さんは、僕の顔を見て首を傾げた。


「えっ……と、ラーメン?」


 孝代さんの問いかけに、僕は頷いた。


「あの音が聞こえると、どうもね……」


「そうそう。あの、ファソラソファ、ファソラソファソーって音ね」


 どうやら孝代さんは、その音階で聞こえるらしい。


「こっちに来たと思うんだけど、全く居場所が掴めない」


 そう言っているうちにも、僕の耳には「ドレミレド、ドレミレドレー」って聞こえてきてる。


「聞こえてるのにな……」


 口惜しさで歯噛みする僕に、孝代さんも考えあぐむって顔だった。


「住宅地の真ん中で屋台を広げるわけがないから、少なくともここからは出なきゃダメよね」


 それは同感だけど、さて、この住宅地は、東西二本の幹線道路に挟まれている。東へ行けば国道、西へ行けば市道だ。


「とりあえず、市道かな」


 僕は西を向いた。国道沿いに屋台が停まってても、車が一方にしか流れないから、客足に影響があるはずだ。停めるなら、市道の角地だろう。


 けど走り出そうとする僕を孝代さんは止めた。


「しかし小林君」


 また、そのネタで来るのか。


「あのチャルメラの音、ドップラー効果で聞こえなかったかね?」


「ドップラー効果って、音源が高速で移動している場合、近づいてくる時と遠ざかる時で音の高さが変わるって奴だろ。そんんなスピードで移動する屋台、見た事ねェよ。商売になんねェよ」


 だから、僕と孝代さんで、チャルメラの音階が違った? そんな馬鹿な。


「孝代さん、絶対音感とかあったっけ?」


「ない」


 何なんだ。


「ないけど、市道じゃなくて国道側へ行ったと思うのよ。道ばたに軽トラック置いて営業してたら、この時間でも迷惑だし。迷惑でしょ? 迷惑よ」


「けど、国道だって、もう少ししたら暴走族が走り出して、警察が追いかけっこする。路駐で屋台営業なんかしてたら、しょっ引かれるし、暴走族が走ってるようなとこでラーメン食べる気にならねェよ」


 と、言った所で、思いついた。


 孝代さんも、同時に思いついた。



「国道だ!」



 顔を突き合わせた孝代さんと僕の声は、完璧にハモっていた。


「国道を移動しながらチャルメラを流してたんだ」


 高速で移動していた理由は、国道沿いにある施設を目指してたからだ。


「そうそう。で、病院の前」


 孝代さんがそれを挙げた。


「三交代制の病院だから、深夜勤務と準夜勤務の交代を狙って店を開けばいいの」


 そうと決まれば、自転車を走らせるまでだ。





 見えてくる。病院の灯りと、屋台の姿。僕と孝代さんの予想通り、勤務交代の夜食を食べてる人たちがいる。


 その人たちもそうだけど、やっぱり立て看板に書かれたシンプルなメニューが目を引く。


「中華そば、ギョウザ、焼きめし。チャーハンじゃなくて、焼きめしという名前の頼もしさ!」


 孝代さんの琴線に触れるのは、そこなんだ……。


「おじさん、半チャン。煮卵トッピング、ねぎ大盛り。チャーシュー抜いていいから、焼き海苔をオマケして」


 しかも注文に手慣れてる。


 屋台のおじさんは、「あいよ」と威勢よく返事して、麺を湯がき始める。


「本日の議題」


 そんな姿に僕は唐突に切り出した。「夜食は是か非か」ではない。



「脂肪がつくか否か」



「……」


 キリキリと音がしそうな感じで、孝代さんの顔が僕の方を向く。


「食べたカロリーは、運動して消費すればいいのよ。運動して。もう消費した。消費したんだよ。した事にしてくれたまえよ、ワトソン」


 望まない現実に引き戻すなという顔だ。


「ソバ普通盛り。チャーシューあり、ねぎゴリゴリ増し」


 それを余所に僕も注文して――、



「僕も、十分、カロリー消費した!」



 そうして僕と孝代さんは、サムズアップした手を持ち上げ、態とらしい笑みを浮かべた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る