終幕 奇縁、結んで

 終幕 奇縁、結んで


 あれから幾日経ったか―遂に季節は暦に追いつき、来る春のぬるい風が窓から入り込んでくる。


 熊屋の中はがらりとしていた―客の姿は無い。一応、店を開けてはいるが、厨房に立つ者が変わり、味が変わったからだろう。前にもまして客足は遠のいている。


 そんな厨房に神那は一人、書物を片手に立っていた。魚の捌き方、煮方焼き方、だしの取り方諸々が細かく書いてある書物を。


 一体、いつの間にこんな物を用意していたのか―それは熊狩秘伝の料理法。いわば、形見―今更、教わりたいと願ってもこの書に縋るほかにない。


 そもそも居たとしても、熊狩は何故か神那に料理をさせようとしなかったのだが。


「ええっと……こうですか?」


 そんな風に呟きながら、神那はだん、と思い切り包丁を振り下ろし、魚や野菜を惨めにしていく。


 と、その物音を聞きつけてか、奥から沙羅が欠伸と共に出てきて―そして神那の姿を見つけた途端にぴくりと動きを止めた。


「……あねご。なにしてる?」

「なにと、言われましても。料理ですが」


 そう言って、神那は沙羅へと振り向いた―包丁を握ったまま。その姿は、あまりにも決まり過ぎている―包丁を握った姿が妙に怖いのである。

 まして今、包丁には魚の物とはいえ血がついている。涼し気な顔に、血のついた包丁。神那に刃物を持たせるべきではない―それが熊狩が神那に料理を教えなかった故である。

 残した書物にしても雫や、あるいは妖刀に呑まれた放蕩息子に充てた物だが―それを神那が知る由もない。


「…あにじゃにやらせれば?」


 沙羅はそう言うと、神那はだん、と包丁を振り下ろした。


「いれば、やっていただくのですが…」


 思い切り振り落した故か、隅に置かれた桶の水が身震いするように揺れる―と、そこでがらり、と熊屋の戸が開いた。


「いらっしゃい……あら、陽さん」


 入って来たのは陽だ。と、陽もまた沙羅のように神那の姿に声を上げた。


「うわっ!?……神那殿。何をしていらっしゃるのですか?」

「料理です。…沙羅と言い陽さんと言い、なぜそんな事を尋ねるのですか?他に何をしているように見えるとおっしゃるのですか?」

「いえ、その……誰かが、捌かれているのかと……」

「誰か?……魚ですが?」

「はい。…すいません」


 なぜだか陽は謝って、それから席についた。何故謝られたのか良くわからず、神那は沙羅に視線を送るが、しかし沙羅は、さっと目を伏せた。


 隠し事だろうか―まさか、怯えられているとは露とも思わない神那はそんな事を思った。


「しかし、そのご様子ですと、雫殿はまだ戻っていないのですか?」

「ええ。犬の癖に迷子になるなど、本当しつけのなっていない犬。貴条殿の方はどうです?」


 あの一件以来、雫は戻っていない―同じように貴条も姿を消したのだ。


「はい。未だ便りもなく、一体、どこへ行ってしまわれたのか…。戻りにくいのは、私でもわかります。…気にするなとは言えません。だから、いずれ帰って来てくれるのではと、今、出来る事をして待つのみです」

「そうですか……」


 才条は死に、貴条は消え、その上城にいた者も多くが逝った為に、守人衆は実質的になくなったようだものだ。それでも陽は未だ残っていた者達と力を合わせて、また守人衆を再建しようとしているらしい。


 恐らく前よりは大分小規模な集いになるのだろうが―帰る場所を作ろうとしているのだ。


「しかし、貴条殿が戻られないのはわかりますが…なぜ、雫殿は戻られないのでしょうか」


 陽は、そんな事を言い出した。雫が戻らないのは、恐らく熊狩を切ったから―。


「さあ。あんな駄犬の考えなど、私にはわかりかねます」

「そうですか。…やはり、神那殿にこき使われ過ぎて、いやになったのでしょうか?ああだこうだと命令されていたから」

「まあ、命令など。私は一度もしておりません」


 陽の言葉に、しかし神那はそう言い切っていた。


「は?」

「私はいつも頼んでいるのみ。皆心広く、私の頼みを聞き届けてくれるだけ」

「そ、そうですか……」


 陽は呆れかえった。確かに、しなさいではなく下さいなと言ってはいるが…。


「そうです。ねえ、沙羅」


 矛先が向けられた沙羅は、しかし何も答えずやはり目を逸らす。


「沙羅。返事が聞こえませんよ。さあ、元気良く、返事をして下さいな」


 笑みと共に神那は言った。その手には包丁―いつにもましてその笑顔には迫力がある。


「へい、あねご。あねごのおっしゃる通り。…これぜったい命令」

「沙羅。なにか言いましたか?」

「なんでもないです」


 沙羅はそうごまかした。その様を眺めて、陽は呟く。


「戻りたがらないのも納得です。しかしどこに居るのか。何なら守人衆に来てくれても…」

「陽さん?」

「はい!」

「そう言えば、いつぞや散らかした部屋が未だそのまま残っているのですが。中々暇がなく……手すきのようなら、片付けて行って下さいな」

「……う。それを言われては確かに。では、片付けを、」


 そう言って、陽は立ち上がり掛ける―だが、その前に立ちふさがったのは沙羅だ。


「やめて」

「しかし、散らかしてしまったのは私の……」

「…仕事、ふやさないで」


 沙羅は懇願するようにそう言った。ある意味、雫が戻らない為に一番割を食っているのは沙羅である。


「な!?…やはりここでも、そう言われるのですか……守人衆でも、置物のようで…」


 余程不本意だったのか、うわ言の様にそう呟いて、陽はふらふらと熊屋を出て行った。


 その様に、沙羅はふうと息を吐く。


「…危なかった」

「あら、行ってしまわれましたか。では、沙羅」

「いやだ」

「店も閑古鳥。今、手すきでしょう?片付けてきて下さいな」


 沙羅は、がっくりと肩を落した。そして、厨房へとてこてこと歩み、桶に張られた水を覗き込んで言った。


「あにじゃ。やっぱりここいや。連れ出して」


 *


「と、言われてものう…」

 枝垂桜の散る小川が辺、両足を水につけて座り込みながら、雫は呟いた。

 その両腕はついている、鱗は剥がれた。見た目はただの人である。


 戻るに戻れず、なん日ふらついたか。日が立つほどに戻り辛くもなり、かと言って羽織がない以上立ち去るわけにもいかない。


 いや、立ち去らない故は羽織だけでは無い―この浄土で、色々と縁を持ってしまった。

 熊狩には秘伝の書があると言われてしまったし、何やら立ち去ったらしい貴条には、陽を頼まれたまま。沙羅には嫌なら連れ出すと言ったまま。


 投げ出すに投げ出しきれない―熊狩が死を望みながら長く生きていた気分も、なんとなく分かった。

 だが、かと言ってやはり、熊屋に戻るのも憚られる。そもそも、熊屋に戻るなら適任は雫では無いのだ。


 狐面は正気になった―ならば、戻るべきはあいつの方では無いか。よそ者であり、熊狩を切った雫より、兄が戻った方が神那も喜ぶだろう。


 あるいは、似た事を狐面も考えているのか―ならば結局、雫が未だふらついている故は一つ。


 あれ以来雨が降らない―雫は、そしておそらく狐面も、雨を待っていたのだ。


 ぽつり、と小川に波紋が浮かぶ。ぽつりぽつりと、水が落ちる。

 空は晴れている―だが雨は降り出した。恐らくは通り雨―長くは降らない。しかし、


「雨は雨だな」


 不意にそんな声が聞こえて、雫は振り向いた。


 背後、枝垂桜に背を預け、狐面を付けた男がいつの間にやらそこに立っていた。


「雫。こんな所で何をしている」


 まるで偶然出会ったように、狐面は言った。姿を消してずっとつけていたろうに。


「羽織を取り返さねば、往くに往けず。しかし、流石は神那様。まあ、隙は無くての。そういうお主は?」

「雨が降らなかったからな」

「そうか」


 答えて、雫は立ち上がる。そして河原を踏み、枝垂桜の元へ歩みだした。


 雨が強くなる―花弁が散り、落ちていく。雫は脇差しを抜いた―返しそびれていたそれを。

 そして、その刃を枝垂桜に突き立てる。狐面はそれを引き抜いた。


「最初にやった時はここだったのう。その面、ひっかいた時よ」

「ああ。俺が勝った時か。……いや、負けたことなど無かったな」

「まあの。一度も雨が降っておらんかったからな!」

「だから待ってやったんだろう?」


 そんな事を言いあいながら、二人は背を向け、距離を取っていく。


 そして、枝垂桜を境界に、二人は向かい合った。


「どうだ、雫。負けた方が熊屋に戻るというのは」


 狐面の言葉に、雫は呆れたように言った。


「勝った方では無いのか?そも、お主は普通に戻れば良かろう。熊狩を切ったのはわしだ。負い目などなかろう?」

「あるに決まっていよう。一年家を開け、人切り三昧。今更どの面下げて戻ると言うのだ」

「お主……意外と衆目を気にする性質か?つまらん奴だな」

「そういうお前は案外、負い目を忘れない性質か。呆れた気の弱さよ」

「ふん、言うておれ。良かろう、負けた方が戻るのだな。のう、熊狩に負けた狐面よ。わしは勝ったぞ、結果は見えているな!」

「あの時は二刀では無かった」

「む。言い訳するか!」

「お前がそれを言うのか?やれ雨じゃない、やれ片腕がないといつも言い訳していた癖に」

「言い訳では無い!事実だ!……今こそ、わからせてやろう!」


 そう言い放ち、雫は太刀を引き抜いた。それに応じるように、狐面もまた太刀を引き抜き―片手に太刀、片手に脇差しを握って、その両腕をだらりと垂らした。


 雨は降っている―強くなっている。だが、狐面の姿は雨を伝って見えるわけでは無く、雫自身の目で見えていた―姿を消していないのだ。それを見咎め、雫は言った。


「む?どうした、消えよ」

「いや、雨の日はあまり意味がないらしくてな」

「む!言い訳か!言い訳など許さんぞ!」

「うるさい。早く来い」

「ぐぬぬ……良かろう!ちゃんと殺す気でやれよ!どうせわしは死なんからな!」

「こちらの台詞だ。手心を加えていたなど言われてはかなわん。奥の手を使えよ」

「見ておったのか?まあ良い、なれば食らえ、我が必殺を!」


 ぎゃあぎゃあとそう喚き、それから雫は太刀を構えた。

 鍔は顔の横、切っ先は狐面へ―突きのみを目指した型。

 狐面は、ゆらりと歩き出した。

 やはり両腕はだらりと垂らしたまま―無形に似た二刀の構え。


 ――ぽつり、ぽつりと雨が刃を打つ。


 雫は動いた。


「――穿空」


 鋭く、滑らかに―雫の太刀は突き出される。そして雨を突いたその切っ先が、不意に失せた。


 瞬間、狐面は身を捩る。


 その身のすぐそばに現れた切っ先に脇差しをあて、逸らし、雫の突きを交わして見せた。そして交わした傍から、狐面は素早く駆け出した。


 雫は慌てて太刀を引く―その間に狐面は雫へと肉薄していた。


 雫へと太刀が振り下ろされる―片手で振っているとは到底思えない鋭さで。だが、その刃が当たる寸前で雫の姿は欠き消えた。


 雫が姿を現したのは狐面の背後。無防備なその背中へと雫は太刀を振り下ろしかけ―しかし、その手は止まった。


 雫の喉元に、逆手に握られた脇差しが当てられていたからだ。


 雫が振り下ろすよりも一瞬速く―いや、そもそも姿を消す前に、狐面は対応していたのだ。


 狐面の一閃を雫が姿を消して交わし、背中を取るだろうと予測して、狐面は正面へと太刀を振ると同時に、自身の背後へと脇差しをも振るっていた。器用にも指先で脇差しを回し、逆手に握り直しながら。


 雫も狐面も、血を流してはいない。だが、そのまま続ければ先に傷を負うのは雫の方――また、雫の負けである。


「さあ、雫。言い訳を聞こうか」


 狐面は楽し気にそんな事を言って、太刀を収めた。


「ぐぬぬ……一度見せたとはいえ、なぜ反応できるのだ……」


 負けを悟り、もはや言い訳もなく、雫は歯噛みした。


「何がくるかわかればただの突きと大して変わらん」

「だいぶ違うと思うのだが!……む?狐面に交わせるという事は、もしや、熊狩殿も?」

「知っていれば容易に交わしたろうな」

「くうううう!一度外しておくべきだった……物言いがつくではないか!」


 そう喚いた末に、雫はがくりと肩を落した。


「はあ。お主に貴条殿に熊狩殿と言い、この浄土。やたら腕の立つ者が多過ぎないか?」

「逆だろう。お前が弱い」

「む…そう言われては立つ瀬ないではないか……」

「とにかく、俺の勝ちだ。約束通り帰れよ。帰ってこき使われろ」

「うむ。仕様もない。で、そなたはどうするのだ?また闇夜に乗じて人切りか?」


 そう尋ねると、狐面は晴れ空を見上げた。雨は、弱くなっている。


「…雨の日にも勝ったことだし、放浪でもするか」

「放浪?」

「そも、遠出をすると言って家を開けたまま1年。よほど遠くの土産でも無ければ印にもならんだろう」

「……そうか。では、どこへなりとも消えよ」

「言われずとも」


 最後に、狐面はそう答え、姿を消した。どこへ行くのか、その足跡は雨の内なら終えるが、しかし決着がついたならもう良いとばかりに、通り雨は止んでいく。


 やがて、どこか気妙に見える濡れ土のみを残して、春の通り雨は去り、快晴が空に広がった。


 すらり、と雫は太刀を収める。


「仕様もない、か」


 *


 がらり、と熊屋の戸が開いた。そして同時に、声がする。


「ただいま帰りましたぞ!いや、激闘のせいでここ数日記憶喪失となっており、しかしてつい先程記憶がもどひいいいいいいいご乱心!?すいませんでした!」


 待ち望んだ声―その声に神那が振り返ると、雫は地に両手をついて平伏していた。


 何を怯えているのかはわからなかったが、しかし良い格好―神那はふと笑みを浮かべ、包丁を置き、代わりとばかりに水の入った桶を手にする。


「何を謝っているのですか、雫?」

「いや、色々とのう。数日帰らんかったし、望まれたとはいえ熊狩殿も切ってしまったしのう。あと、狐面も連れ帰れんかったし」


 決まり悪そうにそう言った雫へと、神那は桶を手に歩み寄り、そして思い切り、桶の水を雫へと浴びせかけた。


「ぬおおおおお!?何をするか!」

「水に流したのです。全て」

「ぬ…うまいこと言いたいがために水を被せるとはなんと心根のくさ―」


 言い掛けた雫の前に、神那は空の桶をがらんと投げ捨てた。そして言う。


「さあ、雫。水がなくなりましたよ。汲んできて下さいな」

「ぐぬぬ、おのれ神那め!水は今そなたが―」

「雫?」

「…仕様もない。汲んでまいります…」


 涼し気な顔の神那を前に、不平たらたらと言った様子で雫は桶を手に取り立ち上がった。


 しかしその背を、神那は呼び止める。


「雫?」

「なんでございましょうか!」

「良く………いえ。仕様もないではありません、雫。返事が違っていましたよ?」


 涼し気な顔でそう言われ、雫はぐぬぬと歯噛みして、やけになったように言った。


「喜んで!」


 そして雫は桶を手に駆け足で飛び出ていった。神那は微笑みと共にその背中を見送った。


「よかったね」


 不意に、沙羅はそう神那に言った。その言葉に、神那は素直に頷く。


「…ええ」

「ほんとに、よかった…」


 嘆息混じりに繰り返した鬼の娘の顔には、鬼のような量の雑用から解放される安堵が浮かんでいた。


 そう。心の底からの安堵が。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

浄土にて太刀霞む 蔵沢・リビングデッド・秋 @o-tam

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ