中東編 第9節 乙女の危機④
最初は悪い冗談かと思った。
窓を割られ、喉元にナイフが突きつけられているのに。
私の中には、どこか平和ボケした感覚が残っていた。
目の前で起こっていることが、あまりに理解を超えていたからだ。
そんな状況をよくわかっていない私にしびれを切らしたのか、男は軽く私の頬にナイフを引く。
「痛っ……!」
痛みを覚え、そこでようやく現状を把握する。
これは冗談なんかじゃない。
私は今、犯罪に巻き込まれている。
「えっと、あの」
「声を出すな」
容赦のない声。
話し合いだとか、理解してもらうとか、そういった余地は無いように思えた。
腕を思い切り引っ張られる。
「痛いっ!」
「声を出すな。次声を出したら殺す」
「っ……!」
腹をナイフで突かれそうになり、思わず息を呑んだ。
男に無理やり連れられ、ホテルが遠ざかる。
死んだように沈黙する街に、男の息遣いと、私たちの歩く音だけが響いた。
助けを呼ぶにも、誰の姿も見えない。
治安が崩壊した街で、夜中に出歩く人はいなかった。
街は薄暗く、街灯は壊れており、月明かりも差し込まない。
どこに連れて行かれるんだろう。
頭が恐怖を覚えた。
まずい、どうにかしないと。
わかってはいるけれど、うまく思考がまとまらない。
何されるんだ?
私、どうなるんだ?
そんな疑問だけが、脳裏に次々と浮かんだ。
大丈夫、これまでもなんとかなってきたのだ。
今回だって、大丈夫に決まってる。
不安を拭おうと自分に言い聞かせていると。
不意に、嫌な感触を覚えて体が思わずのけぞった。
尻を鷲掴みにされていた。
なんで……?
そう思い、男を見てすぐに悟る。
男が嫌な視線で舐め回すように私を見つめていた。
暗闇で、まともに辺りが見えないはずなのに。
男の白目だけが、妙に暗闇に浮かんで見えた。
――スピネルは今までのどの街より治安が不安定だ。特に女性の単独行動は避けたほうがいい。
スピネルに入る前のベネットの言葉が思い起こされる。
その意味を、ようやく私は理解した。
強姦だ。
私を犯そうとしている。
嫌だ嫌だ嫌だ。
心と身体が拒絶して、動けなくなる。
しかしその度に、腹にナイフを当てられ、無理やり歩かされた。
その間も男は、弄るように私の体を触ってくる。
触られる度に、恐怖心と嫌悪感を覚えた。
これから私は死んだほうがマシなことをされるのかもしれない。
下手をしたらその後、酷い殺され方をするかもしれない。
今まで女として見られたことなんて殆どなかった。
だから知りもしない男に性的に見られることがこれほど怖く、嫌な感覚なのだと知りもしなかった。
なんでだよ神様。
そんな言葉ばかりが頭に浮かぶ。
やがてどこかの廃ビルへと入った。
他に人の姿はない。
まずい、このままじゃ本当に……。
どうにかしないと。
危機的状況に、ようやくまともな思考が戻るのを感じた。
そうだ、魔法だ。
私は魔女じゃないか。
どこかで呪文さえ紡げれば……一節唱える隙さえあれば、どうにか打開出来るはず。
この状況じゃ、唱える前に刺されてしまうかもしれない。
その予感が、私の行動を鈍らせるけれど。
考えている暇はない。
このまま好きにさせるくらいなら、いっそのこと刺し違えてでも戦うんだ。
暗闇の中、意を決して私は呪文を紡ごうと口を開いた。
しかし、そこで予想外のことが起きる。
声が出なかった。
呪文を唱えようとした口から、ヒューヒューと息を吐く音だけが漏れ出てくる。
ショックで声が出なくなっていた。
極度の緊張で、普段当たり前に行っていた体のコントロールが、上手く出来ていない。
どうしよう。
すると、不意に目の前の床に押しやられた。
思わず転んでしまう。
驚くと同時に、覆いかぶさるように男が私に乗ってくる。
そのまま、力づくで仰向けにされる。
抵抗して手を出すと、その手を掴まれた挙げ句、顔を平手で殴られた。
パァン! という破裂音とともに、鈍い痛みが走る。
皮肉にも、それが私の興奮を冷めさせた。
男は息を荒げ、私の服をナイフで剥いだ。
そのまま手がスカートまで伸び、私は手で抵抗する。
するとお腹にナイフが当てられた。
思わず手を引く。
「動くと殺す」
嫌だ……。
私の瞳に、絶望が満ちる。
悔しさで、涙が溢れる。
こんなことになるなんて、ほんの数分前までは思いもしなかった。
もしたとえ生きて帰れたとしても、まともな精神状態で生きられる気がしなかった。
終わりなのかもしれない。
自分の瞳が、闇に飲まれそうになるのを感じた。
その時。
「誰か! こっちで女の子が襲われてる! 急いで!」
「早くしてくれ! こっちだ!」
不意に静寂を切り裂いて、誰かが叫ぶ声がした。
誰かが助けを呼んでくれているのだと、すぐに気づく。
その瞬間、一瞬だけ男の意識が私から離れた。
今しかない……!!
私は死にものぐるいで男へ向かって体当りした。
予期していなかったのか、思った以上に簡単に男が弾き飛ばされる。
このタイミングを逃したらもう助からないかもしれない。
全速力で走って、建物を飛び出た。
「早く! こっちへ!」
隣の建物から誰かが私を呼ぶ。
さっきの声の主だと気づいた。
考えている余地はない。
私は直感ではなく本能で、そちらに走り込んだ。
飛び込むと同時に入り口が閉められる。
ぜぇぜぇと息を荒げていると、建物の前をあの男が走り去るのが分かった。
どうやら逃げたらしい。
「あぁ良かった……もう大丈夫ですよ」
声と同時に、薄暗く明かりがつき、暗闇の中に優しい表情をした女性が浮かんだ。
彼女は手に持っていた毛布を、私に掛けてくれる。
その後ろには、穏やかそうな老人の姿もあった。
私は……助かったのか?
そう思うと同時に、緊張していた体が弛緩し。
私の意識は、そこで途絶えた。
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