南アジア編 第10節 祝福の雨
翌日。
ゴーストタウンのような静けさに包まれる中、私とベネットは街に立った。
「ラズベリー、ここの人達はこれで全員?」
「はい。お願いして出てもらいました」
「よく理解してくれたね」
「君なら信じるって言ってくれました」
目の前にはアニクが住むスラム区域への入り口。
背後には、魔法チームの面々と、スラムの住民の人たちが遠巻きに私達を見守っている。
誰もが、祈るような、すがるような表情を浮かべていた。
これから私たちは、この区域に雨を降らせる。
汚染された土壌を洗うための、祝福の雨を。
緊張が漂う中、私はそっとため息をついた。
そんな私を、老人姿のベネットは不思議そうに見てくる。
「どうしたんだい、ラズベリー。ため息をなんてついて」
「ベネットは人が悪いです」
「どうしてだい?」
「雨を降らせることを黙ってるからですよ。それなら、他にも色々出来るんじゃないですか? 大量の水をパパパッと浄化したり、汚染患者をちょちょいと治療したり」
私が疑いの目を向けると「流石にそんな簡単じゃないさ」と彼は笑った。
「ヨーゼフが言っていたけれど、雨を生み出す魔法はとても難しい。水を浄化するのもそうだ。ジャックは簡単に出来るような口ぶりだったけれど、実際やろうとすると中々に大変だよ。まして人の治療となると、その難易度は別次元だ」
「でもそれは一般的な話でしょ? ベネットは別じゃないんですか?」
するとベネットは「夢を見すぎだよ」と遠い目をした。
「僕はそんな大した魔導師じゃない。出来ないことは山ほどある。魔力汚染患者の治療だって、君やジャックの方が遥かに優れている」
「ホンマに?」
「あぁ。それに、今から僕がやることは、ラズベリーが居るから出来ると思った」
「私が? どゆこと?」
「君は、人の心を感じることが出来る。その力は、ずっと強くなっている。そうじゃないか?」
「それは……はい」
心の機微というのだろうか。
そうした物を感じ取る力が、自分の中で徐々に高まっているのを感じていた。
今はまだ弱い感覚だけれど。
これから、どんどん強くなるのだろうという予感がある。
「僕が今から行う魔法には、君が持つ感情を感じ取る力が必要なんだ」
「私がって言うけど、ベネットだって出来るでしょ? 私がお師匠様に習ったのは古い時代の魔法ですしおすし。私に使えてベネットに使えない道理が分からん」
しかしベネットは、そっと首を振った。
「君の感覚は、僕より遥かに優れているよ。天性の才能もあるけれどね。それは何より、君が沢山の人の想いに触れ、向き合ったから得たものだ。僕の技術と、君の感情の力、そしてこの土地に住む人たちの想いがあるから、可能性がある。これは、君だから出来ることなんだ」
人の心と向き合う。
その想いに触れ、応える。
全部、お師匠様から学んだ教えだ。
エルドラ姉さんも、人の心を言い当てるような場面が多々あった。
それは、私と同じ教えを、お師匠様に受けたからなのだろうか。
なら、私もいずれは同じ道を辿るのかもしれない。
「ラズベリー、重病の患者を治療する時、君は人の感情を使って転化魔法を転生魔法に昇華している。そうだね?」
「はい」
「今からやるのもそれと同じだ。僕が魔法で雨の種となるものを生み出す。それを、君の感情魔法で効力を高め、形にする。生み出された雨を、僕がコントロールする。全部で三工程だ」
すると不意に、ベネットが何かを懐かしむように優しい表情を浮かべた。
「どうして笑うんです?」
「ちょっと懐かしくなったんだ。仲間と一緒に、こうして問題に向き合うのが懐かしくてね。君は、僕の友達によく似ているから、なおさらだ」
「なるほど?」
ベネットの友達か……。
歴史上の偉人とかに居そうだな。
遥か過去の話だろうけれど、全然わからない。
考えてみれば、お師匠様もエルドラ姉さんの過去だって私はまともに知らない。
歴史ある魔導師には謎が多いのだろうか。
「それにしても、感情の力かぁ……」
「何か問題でもあるのかい?」
「いや、漠然とこの土地に宿る人の想いを感じろって言われても、よく分かんないなって思って……」
そこでふと思いついて、私は離れた場所に立っていたアニクに手招きした。
アニクはキョトンとした顔をして、何事かとこちらに近づいてくる。
「どうしたの、メグ?」
「いやね、ちょっと協力してほしいんだ」
「協力?」
「それじゃあ、アニク、行くよ」
私はそっと、アニクの肩に手を置く。
アニクは緊張した面持ちで、正面を見つめた。
そんな私たちに、ベネットが穏やかな表情を浮かべる。
「メグ、僕、何をすればいいのかわかんないよ……」
「想うだけで良いんだ」
「想う?」
私は頷いた。
「かつて、皆が感謝して、祝福した雨を想うの。もう一度きれいな雨を降らせてくださいって」
「想うだけで、魔法が出来るの?」
アニクの言葉に、私は頷いた。
「想いを込めた魔法は、ずっとずっと強い力を持つんだ」
私の言葉を聞いたベネットは、何も言わずそっと手を前に差し出した。
何をするんだろうと思いつつ、ふとまばたきをした瞬間。
いつの間にか、彼の手には長い杖が握られていた。
なんちゅう早業。
「ラズベリー、始めるよ」
「はい」
ベネットは、静かに意識を集中する。
すると、魔力に汚染された土地から、不思議な光があふれた。
光量が落ち、仄かな光が目立つ。
魔力反応だ。
ただ、規模が違う。
私の視界一面を踏めるほどの、圧倒的な領域で魔力反応が生じている。
桁違いの広さで、光が湧き上がる。
あまりの光景に、思わず息を呑んだ。
しばらく目を瞑っていたベネットは、やがて静かに目を開く。
それと同時に、地面の光が天へ昇り、広がり、満ちた。
「ラズベリー、今だよ」
「アニク……行くよ」
「うん」
私は、アニクの肩に乗せた両手に神経を集中させた。
心を感じ取る。
頭から、肩へ、腕へ、指先……そしてアニクの中へ、心を這わせる。
すると、以前と同じ――いや、もっとずっと強い感覚が、私の脳裏に流れるのを感じた。
アニクが心に抱く想いの気配を、肌感覚で感じる。
静かに映像が浮かぶ上がった。
私の知らない、どこかの記憶の情景が。
雨が降って、皆で大喜びした記憶。
雨宿りしながら、姉と一緒に微笑んだ記憶。
暑い日に雨に打たれ、友達と大はしゃぎした記憶。
あぁ……そうか。
アニクにとって、楽しかった記憶と、雨の記憶は一緒なんだ。
美しい水が降る場所で、アニクは沢山の『嬉しい』をもらった。
アニクにとって……この国の人達にとって、雨は喜びの感情なんだ。
私は、アニクの想いを汲み取り。
そして、その想いを言の葉に乗せて、その一節を放った。
「祝福の雨をここに降らせて」
その言葉と同時に、ベネットが杖で地面を叩く。
すると、杖で叩いた場所が、まるで湖のように波紋を生み出し。
それはやがて、空に満ちた光と呼応し、光は雲になった。
雨雲だ。
先程まで見えていた太陽が隠れ、街が暗くなる。
しかし、その範囲は決して広くない。
空一面ではなく、雲はスラムの一画だけをきれいに包むように広がっている。
その雲に向けて、ベネットはそっと手を伸ばすと。
静かに握りしめた。
その瞬間――
ポツッ
地面に、一粒の水滴が落ちる。
一粒、また一粒と数を増し、それはあっという間に地面を濡らした。
やがて滝のような雨となり、土地を洗う。
雨が今、祝福をもたらしたのだ。
不意に、腰のベルトにつけていたビンが震えるのがわかった。
コトリ、コトリ。
まるで雨に呼応するように、一粒、一粒とまた涙がビンに落ちる。
私の背後に居る、スラムの人が泣いているんだ。
見なくともわかった。
誰の涙かはわからない。
だけど、きっとここに居る沢山の人が、雨を待っていた。
恐れる必要のない、祝福の雨を。
「メグ、僕たち、まだ雨を好きでいいんだよね」
アニクは、目の前の光景のあまりの美しさに、涙を流した。
私はそっと、その涙を指で拭ってあげる。
「あったりまえじゃん」
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