南アジア編 第7節 恐れるな、前を向け
カビーアさんは言っていた。
ステージⅣ以上の患者は、スラムの住民だったと。
それならスラムを調べたら重症の患者はすぐに見つけられるじゃないか。
最初はそう思っていた。
でも違ったんだ。
カンファレンスのあとゼオライトの地理を調べてわかった。
ゼオライトの人口の約七割はスラムに暮らしているのだと。
区域にして、実に二百五十以上。
少し路地に入ればスラムがあり、そこで暮らす貧困層の人がいる。
かなりの数だ。
ジャックは病院で私に何か話そうとしていた。
彼はきっと、その辺の説明を私にしようとしていたんだと思う。
沢山あるスラムから、重症の患者を見つけなければならないと。
それは、当たりが出るまで膨大な抽選クジを引き続けるようなものだ。
だが私たちは、どうやら一発で当たりを引けたらしい。
それが幸運か不運かはわからないけど。
「二人共、こっちに来て姉さんを見てよ!」
アニクが私達を呼ぶ。
だけど足が前に出ない。
恐れていた。
アクアマリンに居たシエラとは訳が違う。
何の保護もされておらず、医療的な処置もされていない中。
私達は、異形と化してしまったあの患者と向き合わなければならない。
わかっていたつもりだったのに。
実際に目の当たりにするまで、自分がまるで理解出来ていなかったことを悟った。
「酷い状況なんだよ。頼むよ! 診てあげて!」
「で、でも……」
ルナが震えた声を出す。
奇形とも呼べる状態の人間を前にして、怯えていた。
皮肉なことに、そんな彼女を見て、かえって冷静になれた。
「大丈夫、ルナ。まずは出来ることをやろう」
中に入る。
奥にある寝床で、女の子が横たわっていた。
年齢は私と同じ歳くらいだろうか。
全身に殴られたような痣があり、右手や肩や足も大きく膨れている。
顔も半分が腫れ、見るに耐えない状態だった。
まるで何かに寄生されたかのように、不自然に飛び出していた。
「この人が、アニクのお姉さん」
「うん、そうだよ」
「二人暮らし? お父さんとお母さんは?」
「ずっと前に死んじゃった」
アニクにとっては、お姉さんが頼りだったんだ。
その人が、一番の重症患者となった。
アニクの不安は、計り知れなかったと思う。
「他に頼れる人はいなかったの?」
ルナが尋ねると、アニクは視線を落とした。
「このあたりは親戚がたくさん住んでるよ。普段はみんな、助け合って暮らしてる」
「じゃあどうして……」
「みんな似た状態なんだ。お金がなくて病院に行けない。行っても、受け入れてもらえない」
「ひょっとして、この辺りの家は全部?」
アニクは頷いた。
「ルナ、アニクのお姉さんの容態は?」
「全身に熱があって、体内の魔力も飽和してる。多分、ステージⅤだと思う」
「ステージⅤ……」
魔力汚染患者がたどり着く、最悪の状態。
アニクのお姉さんは、すでに極限状態に至っていた。
そして、周囲の家が皆同じような状況だとしたら。
ステージⅤの患者たちは、この区域に集まっていることになる。
「この間までは元気だったんだ」
アニクが、ポソリと言う。
「最初は、雨に濡れた足が腫れた程度だった。それが、どんどん悪化して、まともに歩くことも出来なくなって。次第に話すらまともに出来なくなったんだ」
アニクは唇を噛んで、目を潤ませた。
お姉さんは、生活費の工面をしていた。
だからお金のことを気にして、病院に行くこともなかったんじゃないだろうか。
そして、ここまで悪化した。
「メグ、姉さんは死ぬのかな。僕は、独りになるの?」
「アニク……」
「助けてよ。魔法は、何でも出来る奇跡の術なんでしょ……?」
お金もないのに、アニクは病院に来た。
きっと必死だったんだと思う。
大切な、唯一の家族であるお姉さんを助けるために。
断られるとわかっていても、行動せずにはいられなかったんだ。
「アニク、正直言えば、お姉さんはかなり悪い状態だよ。この状態で助かった人はほぼいない」
「そんな、嫌だよ。姉さんがいなかったら、僕……」
「だけど」
私はアニクに言葉を被せる。
「その一人を治療した人間はここにいる」
泣きそうな顔のアニクは、呆然とした顔で私の瞳をまっすぐ捉えた。
「この治療は成功するか分からない。失敗すれば死ぬかもしれない。でも助かる唯一の方法だ。私は、アニクのお姉さんを助けたい。だから、預けてほしい」
「預けるって、何を?」
「かけがえのない家族の命を」
アニクが、そっと息を飲む。
「私を信じて」
やがて、長い長い沈黙の後。
アニクは、コクリと頷いた。
「メグを信じる。お願いだよ。姉さんを助けて」
「わかった」
私は振り返ると言った。
「ルナ、やろう。私達で、アニクのお姉さんを助けるんだ」
「メグちゃん、本気? ここは一度病院に戻って、ジャック先生の判断を……」
「アニクのお姉さんに、その時間はあるの?」
私が尋ねると、ルナは黙った。
私達が今日、ここに来ることが出来たのはたまたまなんだ。
アニクのお姉さんは、いつ暴走が起きてもおかしくない。
シエラの時もそうだった。
何の予兆もなく急激に暴走し、死に引き寄せられた。
あの時は世界最先端の医療処置で時間を稼いだけれど。
今はまるで状況が違う。
暴走が起きればわずか数分後にも命を落とすだろう。
「でも……助けるって、どうやって?」
「アニクのお姉さんに転化魔法を使う。ルナは、体の構造がどうなっているか見て。骨格の位置が変わってないか探って欲しい。私が魔法式を描く」
私はルナの手をそっと握った。
「大丈夫。ルナなら出来るよ」
「メグちゃん……」
「今日まで学んだこと、自分が積み重ねてきたことは裏切らない。あなたの中に、誰かを救う力はある。かつてルナが家族を助けてもらったように、今度はルナが誰かを救うんだ」
「うん……わかった」
「メグ、僕はどうすればいいの? 何か手伝えることはない?」
「アニクには、大切な仕事をお願いしたいんだ。お姉さんを助けたいって強く願ってほしい。私の魔法には想いが要る。アニクが強く思えば、お姉さんを助けられる」
持っていたペンで、アニクのお姉さんの体に魔法式を描いていく。
つま先から、体、腕、顔に掛けて、全身に術式を記す。
体の構造を間違うと何が起こるかわからない。
魔法が発動しないだけなら良い。
最悪の場合、誤発して体が破壊される可能性だってある。
確認に確認を重ね、私は慎重に魔法の術式を描いた。
「それじゃ行くよ、アニク」
「メグ、僕、怖いよ」
「大丈夫。私は世界一の魔女の弟子なんだ。アニクはただお姉さんを想えば良い。帰ってきてって、それだけで良いんだ」
私は、深く息を吸い込むと、吐くと同時に言葉を紡いだ。
「我が声を聞け」
アクアマリンでシエラに行った、魔法の転化術式。
それと同じ工程を、もう一度たどる。
描いた魔法式が仄かな輝きに満ち溢れた。
魔力反応だ。
「巡る力は 理に語り 世の流れ 力を以て 我が想い 象れ あるべき形 転化を通じ 彼の者の想いと共に叶え 祝福をもたらせ」
一節で魔法を放つことが出来る私が、十二説で魔法を紡ぐ。
それは、魔法の強さをコントロールすると同時に、アニクに時間を与えるためだ。
お姉さんとの思い出を思い返し、ただ一心に祈る。
その時間を、彼に渡さなければならない。
そんな精密なコントロールが出来るようになったのは、ここ数ヶ月の経験のおかげだ。
すると、不意に不思議な感覚が体を駆け巡るのを感じた。
それと共に、頭の中に映像が流れ込んでくるのが分かる。
これは……ビジョンだろうか。
アニクとお姉さんが一緒に過ごした時のビジョン。
アニクの想いが映像になり、私に共有されている。
喧嘩をして言い合いをしたり。
一つのパンを二人で分け合ったり。
辛い時は励まし合ったり。
いつでも、お姉さんはアニクのことを考えていた。
アニクにとって、お姉さんは『姉』であり『母』だったんだ。
――お姉さん、帰ってきて。
アニクの心の声が聞こえる。
その言葉にかぶせるように。
私は最後の一節を唱えた。
「あるべき姿を見せて」
瞬間、大きな光がアニクのお姉さんを包み込む。
全身の痣が消え、変異していた体が徐々にその形をあるべき形に戻していく。
その情景に、ルナとアニクが目を丸くする。
目の前の光景が信じられないように、彼らはただ、息を飲む。
「メグ、これが、魔法の奇跡なんだね」
アニクの瞳から流れた涙は。
コトリと静かに、ビンへと落ちた。
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