第5節 始まりの賢者

翌日、私が図書館で本を読んでいると、目の前に誰かが座った。

視界に走る、ノイズのような感覚。


「お姉ちゃん、こんにちは」


座ったのは、エンデだった。

その手には、ミヒャエル・エンデの『モモ』が握られている。


「お姉ちゃんが教えてくれたこの本、とっても面白かったよ」

「もう読んだの?」

「うん。夢中になって読んじゃった」

「そっか、そりゃよかった。勧めた甲斐があったよ」

「お姉ちゃんは、まだ読んでる最中?」


エンデは私の手にしていた『地図にない国』を指さす。

私はそっと首を振ると、彼に本を差し出した。


「この本、面白かった。読み終わったから返すね」

「お姉ちゃんも読むの早いんだね」

「ま、読書が仕事みたいなもんだからねー! ナハハ!」

「それで、感想は?」


エンデは、子供のようにキラキラした瞳で私の顔を覗き込んでくる。

でも、その裏には、どこかこちらを探るような気配を感じた。

私は、表情を正してエンデの瞳を真正面から捉える。


「……行ってみたいと思ったよ。オルロフに」


誤魔化す言葉は使わずに答えた。

すると「行ってみたい?」と不思議そうにエンデは首を傾げた。


「オルロフは魔力で汚染されてるって書いてたよ?」

「それでも行ってみたい。この国がどんな国で、街に何があって、どんな風景で、どんな場所だったのかを、知りたいと思った」

「どうして?」

「ここはきっと、私が生まれた場所だから」


私の言葉を聞いても、エンデは表情を変えない。

まるで最初から知っていたように、真剣な顔で私を見つめてくる。


「お姉ちゃんは、オルロフの人なの?」

「確証はないけどね。たぶんそう」

「すごいや! だってオルロフの人は、もう数えるくらいしか生き残ってないって書いてあったよ?」

「そだね。でも、エンデは全部知っていて、私にこの本を読ませたんでしょ?」

「えっ……?」


私の言葉に、エンデは驚きの表情を浮かべる。

でも私には、それが演技なのだと見抜くことが出来た。

普段からラピスの子供たちと接しているおかげかもしれない。


「私はさ、エンデと会った時、どこか『モモ』に似てるなって感じたんだ?」

「どういうこと?」

「『モモ』を読んで、違和感を抱かなかった?」

「違和感?」


首を傾げるエンデに、私は頷く。


「この物語では『モモ』って言う主人公の女の子の正体だけがよくわからないんだ。彼女は突然街にやって来た浮浪の少女で、街の円形劇場に住み着く。主人公なのに、正体不明の不思議な少女として描かれているんだよ。それでも彼女は、大切なことを教えてくれる」

「それが、僕に似てるって?」

「うん」


私は、ずっとエンデに違和感を抱いていたんだ。

普通の子供とは少し違うと言うか、子供の皮を被った誰かが子供のフリをしているような印象。

その印象は、彼と話すにつれて大きくなっていった。

まるで歯車が少しずつずれていくように。


でも、不思議と不快感はなかったんだ。


「エンデはさ、私に何か大切なことを教えようとしてるんでしょ? だからこの本を私に貸した」

「それは、たまたま目に留まって、気になっただけだよ。だからパパの書斎から持ち出して来たんだ。お姉ちゃんと会ったのも、ちょうど本を読み終えたばかりだったから。偶然だよ」

「それはないんじゃないかな」

「どうして?」

「だってこの本、普通の本じゃないから。たまたま目に留まることはないと思う」

「普通じゃないって……」

「呪われてるんだよ、この本は。認識阻害っていう呪いで、人の認知から外れるようになってる」

「呪い? そんな訳ないじゃないか。だってこれは、僕のパパが――」

「呪われてるよ。だって、魔女エルドラのことが書かれてるから」


魔女エルドラは認識阻害の呪いを身にまとってる。

テレビやカメラには映らず、人の意識から消えてしまうのだといつかお師匠様が言っていた。

その呪いが映像や写真だけにしか効力を発揮しないなら、彼女の話題はもっと表に出てもおかしくないはずだ。

そうなっていないということは、エルドラの呪いは文字まで影響すると見て良いだろう。


つまり、魔女エルドラの名が書かれた本は、やがて人々に認識されなくなり、徐々に出回らなくなり、消える。


『地図にない国』の著者は、何冊も著書を出す有名なルポライターだった。

でも、彼の著書一覧には、この本の名は入っていない。

そして、『地図にない国』はすでに絶版となり、市場にも出回っていない。

この本は、文字通りこの世からなかったことになったのだ。


「魔女エルドラについて書かれた本はこの世に残らない。例え家の本棚にあった本だとしても、意図的に用意しようとしなければ手にするはずがないんだよ。あなたが普通の子供だったとしたら、だけど……」


エンデは黙って俯いている。

その沈黙は、肯定を意味していた。


「エンデ……あなた、本当に普通の子供?」


エンデを見る度に感じていた、視界にノイズが走るような感覚に、ずっと違和感を抱いていた。

何故あんなノイズが視界に走るのか。


疲れじゃない。

病気でもない。

あれはきっと、私の目が何かしらの魔法を感知していたんだ。


それも、視界に働きかけるような――例えば幻影魔法とか。


エンデから感じていた異質な気配。

それは、普通の人間からかけ離れた、魔導師の特有のものだったんだと思う。



「驚いたな、まさか気づかれるなんて」



そう言って、エンデが笑みを浮かべた瞬間。

先程まで少年だったエンデが、突然青年の姿になっていた。


金髪の、にこやかな好青年。

でも白いローブに身を包んでいて、どこか浮世離れしている。

彼が魔導師であることを物語っていた。


「愉快な女の子かと思ってたけど、案外頭の回転が早いんだね」

「あなた……誰なの?」

「ベネット」


彼は、確かにその名を口にした。


「僕はベネット・エンデ。七賢人の一人、始まりの賢者ベネットだよ」


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