第23節 祝福の鐘の音

私の前に海の壁があった。

巨大な津波で、地面が小刻みに揺れている。

階下の広場では、逃げている途中の街の人たちが呆然と立ちすくんでいるのがわかった。


誰もが諦めている。

この状況で、あの巨大な津波を前に。

そう、私以外には。


私はテティスの鐘に向き直る。

世界中の魔導師や技師ですら直すことの出来なかった、祝福の鐘。

私がこの鐘を鳴らせる方法があるとしたら、たった一つだ。


「鐘を鳴らすって、お前どうする気だ……?」

「感情を使う」

「感情を……?」


私はポケットからビンを取り出す。

死ぬ気でかき集めた、百五十粒の涙。

それを、そっと鐘の前に置いた。


「お前…‥何やってんだ……」


ジャックの声を無視して、私はビンに手をかざす。

周囲の光量が落ち、涙が大きく輝き始めた。

魔力反応だ。


「おい! 何やってんだ!」


ビンの中の涙が輝くと同時に、テティスの魔鐘も大きく輝く。

私の魔法に、鐘が共鳴しているのがわかった。


もしかしたらって思っていた。

女神と言われたテティスは、古の時代を生きた魔女だった。

だからこそ、彼女が用いたのは、感情の力を使った魔法だったんじゃないかって。


人の心を大切にした感情魔法。

私はその教えを、お師匠様や……沢山の人から教わった。


「メグ・ラズベリー! やめろ!」

「嫌だ」

「お前が使おうとしてるそれは、お前の命で……宝物じゃねぇのか!」

「宝物だよ!!」


私の叫び声は、ジャックを黙らせる。

きっと私の顔はクシャクシャで、泣きそうになっていて。

それでも、笑みだけは消さなかったと思う。


「これは、私にとって大切な人たちがくれた、かけがえのない涙だよ……」

「じゃあ、何でそれを使っちまうんだ」

「これが、今の私に出来る精一杯だから」


私は顔を上げた。


「私は、もう私の無力のせいで誰かを死なせたくない。後悔したくないんだ」


もし、ここで病院に行けば、祈さんの結界のお陰で奇跡的に助かるかもしれない。

でも、それで生き残ったって、きっと私は喜べない。

例え私が生き残って千粒集められたとしても、まるで喉に骨が刺さったような感覚がずっと心に残り続ける。

そんな人生……最低だ。


「私は選んだんだ。アクアの人を見殺しにして大切な人たちの涙を守るか、それとも一縷いちるの望みに掛けてアクアの人たちを救うかを」


それがきっと、お師匠様の言った『辛い選択』なんだ。


でも、お師匠様は一つ間違ってる。

だってそんなの、私にとって辛くともなんともないから。

選ぶまでもないことなのだ。


だって、私はメグ・ラズベリー。

世界中に愛される魔女なのだから。


「ここで自分だけ生き残ったとしたら、私は生涯自分を許せないよ」


魔鐘と感情の欠片の共鳴が強まる。

同時に、ものすごい勢いでビンの中の涙が蒸発するのが分かった。

あっという間になくなった涙は、鐘に描かれた魔法陣を輝かせる。

鐘から見たこともないくらいの力が解き放たれるのがわかった。


すると。

アクアマリンの街を包むように、街の四隅に大きな光の柱が立った。

時計塔の広場に刻まれた文字が強い光を解き放つ。


今、この街にある全ての魔術文字が同じ輝きに満ちあふれている。


アクアマリンを歩く時、奇妙な文字を刻まれた建造物がいくつもあった。

それはきっと、魔女テティスによって刻まれたものだったんだ。

テティスはアクアマリンを愛していた。

だからこそ、彼女はこの街の全域に、大きな大きな魔法陣を築いていたのだろう。


その力の中心となるのが、この時計塔。

テティスの魔鐘だ。


「お願い……」


私は、祈るように唱える。

その一節を。


「祝福の鐘の音を聞かせて」


瞬間。

大きな大きな鐘の音が、アクアマリンの街を包んだ。




カーン……

カーン……




響く音は、とても美しい音色で街を包み込む。

女神テティスの魔鐘が、美しい鐘の音を鳴らしていた。


その直後だった。

アクアマリンに迫っていた巨大な津波が、まるで断ち切られたように真ん中から二つに割れたのは。

街を避けるように、両脇をとてつもない規模の海水が通り過ぎていく。

テティスの結界が発動したんだと分かった。


女神テティスの鐘は美しく鳴り響く。

数千年の時を越えて、アクアマリンを祝福するように。


「ありがとう……テティス」


その音は、まるで美しい女神が歌っているようだった。


 ◯


病院に戻った私達を、ココや院長、それに祈さん達が迎えてくれた。


「お父さん!」


ココがボロボロ涙を流しながら、ジャックに抱きつく。

ジャックは大きな両手で、ココの体を抱えた。


「ココ、心配掛けたな」

「私のこと、一人にしないでよ!」

「悪かったよ。お前を一人残したら、あいつに怒られちまう」


良かった良かった。

腕を組みながらその様子を生暖かく見守っていると、背後から怒号が聞こえた。


「こらぁ! メグ!」

「ひぃ! い、祈しゃん……」


祈さんはバチギレしていた。


「このバカ! どこ行ってたの! 出るなって行ったでしょ! 散々! あれほど! 口酸っぱくして!」

「しーましぇん……」


彼女は、散々こってりと私を絞り倒した後。

不意に、私の体を強く抱きしめた。


「バカ……。あんたは将来私の助手になんだからね……」

「……はい」


英知の魔女は、優しい涙を一粒流した。


 ◯


津波の水が引くまでに数日掛かった。

その間、ずっとテティスの結界は、アクアマリンを守り続けてくれた。


魔法協会や国連の助けが来たのは、全てが終わった後だった。

連絡船がようやく走るようになり、私と祈さんもようやく帰路につく。

その頃には、お師匠様へも連絡が取れるようになっていた。


「それじゃあ、今から帰りますんで」

『さっさとしな。あんたにはやってもらいたい仕事が山程あんだからね』

「うへぇ……」


あれだけの大災害の後でも平然と弟子をこき使う。

労働者を搾取する鬼畜経営者の模範のような存在である。

そして一番恐ろしいのは、それすらも受け入れようとしている我が社畜根性だ。


「そう言えば、一つ聞きたいんですけど。お師匠様は、こうなることを全部知ってたんですか?」

『そんな訳無いだろう。魔法は万能じゃない。例え私の千里眼があったとしてもね。それにこっちも忙しい。赤ん坊のようにお前の様子を一から百まで見守ってたら、椅子から動けなくなっちまうよ』

「もう歳ですもんね。マルチタスクが厳しいと言うか……」

『おだまり』


ふふっと、どちらからともなく笑ってしまう。

何だか最近ずっとバタバタしてたから、こういうやり取りも久しぶりな気がした。


『早く帰ってきな。久しぶりにシチューとパン、用意しておくからね』

「はい。すぐに帰ります」


電話を切って船のそばにいる祈さんの元まで戻ると、見覚えのある人影があった。

ジャックやココや院長だ。

見送りに来てくれたのだろう。


「みんな! 来てくれたんだ!」

「ほっほっほ、街の救世主を挨拶なしで返したら、アクアマリンの名折れじゃて」


近づくと、院長はそっと手を差し出してくれる。

私はその手を取って、しっかりと握手した。


「メグ、本当にありがとう。お前さんがおらんかったら、この街は今頃滅んでおったじゃろう」

「気にしないでよ。私もこの街が好きだしさ。皆を守れて良かったよ、ホント」

「本当に、本当にありがとう……」


そう言って、院長は涙を一粒流す。

きっとこの人は死を覚悟していたはずだ。

街のために死のうと思っていた。

だからこそ、この涙は、心からの感謝の印なんだと分かった。


「いかんのう。歳を取ると涙もろくなって」

「嬉しい時くらい、泣いてもいいじゃない?」

「そうじゃのう。……女神テティスは、ひょっとしたら、お前さんのような魔女じゃったのかも知れんのう」

「私みたいな?」

「人が好きで、人を大切に出来る……そんな魔女じゃよ」

「やだん! 女神みたいに美しいだなんて」

「ほっほっほ、今度は耳や目の手術を受けに来たら良いて」

「どういう意味やねん」


すると「メグちゃん」と、今度はココが声を掛けてくる。


「また絶対に来てね、約束だよ」

「当たり前じゃん! 必ずココに会いに来るよ」


私はふと、気になっていたことを思い出す。


「ねぇココ。私、分かったことがあるんだ」

「何?」

「やっぱりジャックはさ、別に死に場所を探したりなんてしてないと思う」

「えっ?」

「ジャックは、誰よりもココのことを大切に思ってるよ。だから、大切な娘を置いて逝くなんてこと、絶対にない。こりゃもう、私の太鼓判を押すよ」

「……うん、わかった」


私の言葉を聞いた後、太陽のような明るい笑みを浮かべてくれた。

その時、船の警笛が大きく鳴り響く。


「そろそろ出港だな」

「えー! お父さん! もっと話したいの!」

「バカ。それだと二人とも帰れねぇだろうが」


私から離れようとしないココを、ジャックがそっと引きはがす。

そして、ジャックは私の目の前に静かに立った。

まるでマフィアだ。殺される。


「メグ・ラズベリー」

「うひゃい!」


ドスの聞いた声で、思わずウサギの様に跳ね上がった。


「お前には大きな借りが出来た。この借りは必ず返す」

「返すって……?」

「お前の余命を終わらせない。お前がアクアマリンに渡した以上の物を、今度は俺が渡す。その時まで待ってろ」


不器用な魔法使いが出した、精一杯の交換条件。

でも、その言葉に嘘や偽りがないことだけは、確かに分かった。


「うん、期待してる」




船が出港し、私達はアクアマリンを後にした。

失われた潮風が再び鼻孔をくすぐり、広がる青空にカーバンクルが足元ではしゃぐ。

祈さんは私の横で「やれやれ」と伸びをしていた。


「やっと終わったわね。んー、大仕事したって感じ」

「あぁー、でもまたゼロから涙集めですよ。トホホ……」

「ゼロから? あんた何言ってんのよ」

「えっ?」


間抜けな顔をする私に、祈さんはそっと私の腰元を指差す。


「ビン、見てみなさいよ」


ベルトに付けてたビンを目視する。

仰天した。


来た時より遥かに多い、ビンの半分近くを占める、とんでもない量の涙が入っていたから。


「な、なんじゃこりゃあ……!!」

「それが、今回あんたのやったことよ。むしろ、少ないくらいじゃない? 十万人以上の人を救ったんだから。千粒くらい、余裕で集まっててもおかしくないと思ったけどね」

「うひぃ、マジかぁ」


多分、涙を集める範囲が狭かったんだろう。

失敗した。もっと街を練り歩いとけば、今頃千粒集まってたかもしれない。

内心歯ぎしりする私を見て、祈さんは嬉しそうにニッと笑った。


「私の涙、大切になさいよ」

「祈さんの涙? ホンマに?」

「それより、見てみなさいよ、ほら」

「えっ?」


祈さんの視線を追いかけ、アクアマリンの島に目を向ける。


思わず、言葉を失った。

アクアマリン中の人たちが、港や、岸辺から、私達へ手を振ってくれていたから。


「ありがとー! メグちゃーん!」

「また遊びに来いよー! 魔女っ子ー!」

「メグさん! 祈さん! また来てください!」

「ありがとう! 偉大な魔女達!」


アクアマリンから、沢山の声が聞こえる。

喜びと、希望の声が。


「圧巻の光景ね。女神テティスの報酬かしら」

「みんな……」


私は胸がいっぱいになる。

目頭が熱くなるのを、どうにか深呼吸して抑えた。


「またねー! また絶対に遊びに来るよー!」


私は大きく大きくアクアマリンに手を振る。

本当に私は助かるかもしれない。

その希望を、胸に抱いて。


風が吹くと、潮風の匂いがした。

美しい水の都アクアマリン。

その街からは、今日も美しい鐘の音が響き渡る。

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