第16節 クソババア

私達の準備は、迅速だった。

少女に麻酔が効いたのを確認して、私達は遮断された部屋の中へと入る。

部屋の外からは、医院長と他のスタッフが、事の成り行きを見守っていた。


部屋に入り、実際に目の当たりにした少女の姿は、私がよりもずっと大きく、ゴツゴツしていた。

筋肉が隆起し、ところどころ皮膚を突き破ってしまっている。

それはまるで、歪なヒグマを前にしているようだった。


「厄介ね、これじゃあどこに呪文描いたら良いかわかんないじゃない」

「俺が指示する。変形しているが、ポイントを押さえれば構造を見抜くのはそう難しくはない。麻酔が効くのは三十分。その間に全てを終わらせないと、もう間に合わねぇ」

「たった三十分……」

「ボヤボヤしてる時間は無いってことね。手伝いなさい、メグ。人海戦術でやるわよ」

「あいさ!」


残された時間に猶予はない。

私達は早速、持っていた魔道具を使って少女の体に術式の構築を始めた。

どこにどのような配置で呪文を入れるかはジャックが監修し、絵筆を使って少女の全身に呪文を描いていく。

本来それは私達にとって難しいものではないはずなのだけれど、失敗できないと言う緊張とプレッシャーが作業を遅くする。


私達が魔術式の構築にかかるのに、二十分も掛からなかったと思う。

でもその時間は、私にとって数時間が経過したようにも思えた。

私達が間違ったり、間に合わなかったりすれば、この子は死ぬ。

一つ一つの作業に、人の命が乗っているのを感じた。


ようやく魔術式の構築を終える頃には、私はすっかり疲弊しており、膝もガクガクしていた。

これではまるで生まれたての子鹿である。


「準備はいいか、メグ・ラズベリー」

「う、うん。一応ね」

「術式の発動が始まったらもう止められねぇ。正真正銘、一発勝負だ。お前が俺に指示を出せ……ってお前、何笑ってんだ」

「はぇ?」


ジャックに言われて、私は思わず自分の顔を手で抑える。

確かに、私の顔には笑みが張り付いていた。

鏡で見る。歪んだ笑みと言うよりは、何だか不敵と言うか、企んでそうな笑みだ。


「おいおい、緊張でおかしくなったんじゃねぇだろうな。頼むぜ」

「んなわけないじゃん。変だな……」


ペタペタと顔を触る。

まるで張り付いたような笑みで、自分の顔なのに上手くコントロールできない。

でも、なぜだかわからないが……


「こんなの、まるでお師匠様みたいじゃん」


その笑顔は、何故かお師匠様に似ていた。

いっつも意地悪い笑みを浮かべるような人ではあるけれども。

こんな笑顔で笑ったことあったっけ。

記憶にあるような、無いような……曖昧な感覚。


「おい、ボサっとしてる時間はねぇ。やるぞ!」

「サー! イエッサー!」


私は英国軍隊式返事をして持ち場へと戻る。

魔法術式に手をかざし、ふと自分の変化に気がついた。

さっきまで震えていた足が止まっている。

額から流れる冷や汗も、いつしかなくなっていた。

体がすっかりリラックスしているのが分かった。


「……クソババアお師匠様め」


世界のどこかにいる七賢人に向かって、私は悪態を吐く。

どこに居ても私に影響してくるのだから、厄介な人だ。

本当に、厄介な師匠だ。


「ジャック、私の手の上に、ジャックの手を当てておくんなまし」

「あぁ? 何でだよ」

「良いから」


私の言葉にジャックは言われるがまま、魔術式にかざした私の手の上に、自分の手を置く。


「私は十二節で魔法を唱える。いつもよりゆっくり魔力を巡らせていくから、この子を助けたい、救いたいって強く願ってほしい」

「……それだけか?」

「それだけだよ」

「ちょっとメグ。そんなんで、本当に魔法が発動するわけ?」

「わかりません。けどね、祈さんもジャックも、複雑に考えすぎだと思うんですよ。感情がどうとか、想いがどうとか、親密度とか、古い魔法とか。つい難しく考えてしまってるんだと私は思います」


お師匠様から習った魔法は、確かに知恵を必要とする。

でも、難しい技術や、複雑な理屈を求めるようなものじゃない。


「お師匠様の魔法はシンプルですから」


心を込めて魔法を放つ。

必要なことは、きっとただこれだけだ。


「我が声を聞け」


私は、静かに呪文を唱える。

すると、少女に描いた魔術式が仄かな輝きに満ち溢れるのが分かった。

実験ではあれだけやっても、発動すらしなかったのに。

祈さんとジャックが、静かに息を飲むのが分かる。


「巡る力は万物とあり 理を動かし 世を統べる力 その力を以て ここに我が想いを形にせよ 理を歪め 転化を渡し 望むままの姿を導き 彼の者の想いを叶えよ ここに祝福をもたらせ」


私がこの数日間、ジャックやココのそばにいてわかったことがある。

ジャックは、ずっとこの女の子とココを重ねていた。

そしてそこに、かつて奥さんを失った過去をダブらせていたんだ。


だから、その助けたいって想いは、ずっとずっと強いものなんだと思う。

その思いが形になれば、きっと――


「あるべき姿を見せて」


私が最後の一節を唱えた時。

少女の内側にあった魔力が、強く強く青白い魔力反応の輝きを放つのが分かった。

溢れ出さんばかり力が巡るのを感じる。

それに巻き込まれるように、少女の体内から溢れ出た魔力が風となり、辺りを揺らした。


すると、少女の体に異変が起こった。


「隆起していた筋肉が、戻ってく……」


祈さんが驚きでポソリとつぶやく。

先程まで少女を圧迫していた筋肉が、徐々に正常な形へと戻っていた。

皮膚を突き破っていた骨は体内へ収まり、獣のようになっていた手足が正常な形へと戻っていく。


溢れ出た光は強く、私達は思わず目を閉じた。


永遠にも思える時が流れたように思う。

全てが静寂に包まれ、光が消えた頃。

私達は、そっと目を開けた。


「どうなった……?」


ジャックが辺りを見渡し、そしてある一点を見た時、驚いたように目を見開いた。

私も釣られて目を向ける。


部屋の中心に、一人の少女が安らかに眠っていた。


髪色は魔力で変色して青く染まってしまっているが、先程の異形とはほど遠い、まるで天使のような美しい顔に思えた。


ジャックは、ゆっくりと少女に歩み寄る。

脈拍を取り、呼吸を確認し、容態を見ている。

私と祈さんは、呼吸することも忘れて、その様子を見守った。


「まだ精密検査をしなきゃならねぇが、呼吸、脈拍、ともに正常だ」


やがて、ジャックは言った。

その顔に、何だか泣きそうな笑みをうかべながら。


「施術は成功したんだ、メグ・ラズベリー」


その言葉が合図だった。

ワッと上がった歓声と共に、病院のスタッフたちがお互いを抱きしめあったのだ。中には涙を流すスタッフもいた。

院長は顔のシワと一体化するほど深い笑みを浮かべ、何度も何度も頷き、その目頭には熱いものがこみ上げている。


緊張がすっかり解けた私は、ヘナヘナとその場にへたり込む。

その脱力加減は、まるで株に失敗して全財産失った投資家のようであったと言う。


情けなくその場に座り込む私に、ジャックが手を伸ばしてきた。


「救われたよ、お前には」


私は差し出されたその手を笑顔で取る。


「あったりまえじゃん」


コトリコトリと音を鳴らすビンには、流れ出た沢山の涙がこぼれ落ちていた。

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