第7節 偉大なる魔女ローズマリー
皆が屋外に逃げるのを見送って、私とローズマリーだけがその場に残る。
「じゃあ行きましょうか」
「う、うん」
ローズマリーは落ち着いた足取りで歩き出す。
まるで買い物にでも行くかのようだ。
緊張で体が震えている私と違って、リラックスしきっている。
怯えがないわけじゃないと思う。
肝が据わっている、とでも言えば良いのだろうか。
彼女が、今までどれだけの修羅場を乗り越えて来たのかが見て取れた。
階段に受かって進むと、やがて黒い煙が天井近くに満ち始める。
私が素早く結界を構築すると、気流がずれて私達を避けるように煙は流れていく。
「ありがとう、メグ」
「それで、どうする? ローズマリーをかばいながらだと、流石に負傷した人は運べないけど……」
元々は火除けの魔術を用いて火事場に飛び込み、ピストン輸送の要領で全員を火の元から運び出すつもりだった。
でも、ローズマリーを気にしながら火事場に入ることは、それこそ命取りになる。
「私を三階の出火元に連れて行ってほしいの」
「火事場のど真ん中に? 流石にそれは……」
しかし、ローズマリーはその真っ直ぐな視線をぶらさない。
彼女が一体何を考えているのかはわからない。
でも、何か狙いがあることだけは確かだ。
「わかった」
私は肉体強化の魔法と、跳躍の魔法を体にかけると、ローズマリーを背負う。
「一気に駆け上がるから、吹き飛ばされないでよ」
「大丈夫よ。火のコントロールも、私がちゃんとフォローするからね」
「頼りにしてる」
私は思い切り息を吸うと、呼吸を止めて階段を段飛ばしで駆け上がった。
途端に、全身を焼き尽くすような熱が包み込む。
階段の先にあったのは、先程まで私達が居た場所とはまるで別世界だった。
廊下に広がる一面の炎。
赤い色彩で覆われた館内には、黒い煙がこれでもかと言うほど満ち溢れている。
コンクリート造の建物にも関わらず、炎が壁まで覆い尽くしていた。
魔法で炎や煙の流れをずらしているのに、少し油断すれば黒焦げになりそうだ。
「ヤバいこれ……」
「メグ、止まっちゃダメ。足を止めると、炎に負けてしまうわ」
「わかってる!」
ローズマリーの声に押されるように、私は炎の中をダッシュして奥まで駆けた。
コンクリート製の壁をココまで侵食してしまう炎だ。
立ち止まればすぐに魔法を貫いて、私を火だるまにするだろう。
なるべく炎が広がっていないルートを通る。
低い姿勢で廊下を走っていると、やがて奥の方に部屋があるのがわかった。
あれが魔法教室を開いていた場所か。
「辺りに人の姿は……」
周囲に視線を走らせるも、逃げようとした人の姿は見当たらない。
火事が起こる直前、確か爆発したような揺れがしたのを覚えている。
あれがもし、魔法の暴発によるものだとしたら。
「部屋の中で、みんな気絶してるかもしれないね」
私の考えを読んだかのように、ローズマリーは言った。
だとしたら、逃げ遅れた人たちはあそこにいるはずだ。
室内に飛び込もうとして、すぐにその足を止めた。
入口付近が、完全に炎で覆われている。
瓦礫が落ちたせいだろう。
完全に火の海になっており、足の踏み場もない。
通り抜けるのは難しそうだ。
「そんな……間に合わなかった?」
「見て、メグ! 部屋の奥よ!」
「えっ?」
見ると、会議室のような広い部屋の奥の一画に、大勢の人影が見える。
不思議な事に、そこだけ火に呑まれていない。
「助けて!」
私達の姿に気づいた誰かが、そんな声を上げた。
私はそこで状況に気づく。
室内にいる魔女らしき女性の周囲に、多数の人が倒れている。
そうか、ここは今日、一般に向けた魔法教室を開いていた。
ということは、講師となる魔導師が居たはずだ。
中に居るのは彼女だろう。
爆発が起きた時、幸運なことに彼女は難を逃れたのだろう。
だから、意識のある人を集めて、魔法で結界を張れた。
結界を張っているから、火が流れて、入り口近くが燃えているんだ。
きっとまだ死傷者は出ていない。
でもそのせいで逃げられなくなっている。
「メグ、どうにかしてあの奥に行けないかしら」
「奥じゃないとダメなの?」
「ええ、これから使う魔法は、広い場所じゃないととっても危ないから」
そう話している間にも、火の手は回っていく。
すると、不意に。
ピシリ、ピシリ。
そんな、不気味な音が響くのに気がついた。
ガラスにヒビが入った音かと思ったが、すぐに違うと気がつく。
天井だ。
火の熱気に、コンクリートが負けだしている。
このままここにいれば、きっと崩れて、私達は二人共生き埋めになるだろう。
「ローズマリー、あまり時間はないみたい」
私は小さく息を飲んだ。
手と足が震える。
でも、やるしかない。
女は度胸である!
「私が火だるまになったら、後は頼むよ」
ピシ、ピシ、ピシリ、ピシリ、ピシリ、ピシリ。
頭上のひび割れがどんどん酷くなっていく。
私はローズマリーを抱きかかえた。
着ていたローブで、彼女を包む。
「メグ、何をするつもり?」
「何って、決まってるじゃん」
私は思い切り走り出した。
廊下の天井が崩れだす。
「壁があるなら乗り越えりゃ良いんだよ!」
私は全身全霊をもって部屋に向かい、崩れ落ちた天井が私達を飲み込む直前で、ローズマリーを抱き抱え室内に向かって飛び込んだ。
背後から物凄い音が響き渡り、同時に目の前の火の海が私達を包み込む。
そこを転がるように、私達は室内に侵入を果たした。
髪や服に、火がつくのがわかった。
でも慌ててる場合じゃない。
「ローズ! 魔法を!」
火がついたローブを素早くローズマリーから引き剥がす。
彼女だけはどうにか無事だったようだ。
そう言っている間にも、私の全身に火が燃え広がる。
物凄い勢いの炎に魔法で対処するような余裕はない。
ああ、もうこりゃダメだ。
私、今度こそ本当に死ぬな。
そう思ったその時だった。
「もう大丈夫よ、メグ」
ローズマリーの声が、静かに室内に響いたのだ。
まるで時が止まったかのような、不思議な間隔が私を満たした。
一切の音がせず、ローズマリーの声だけが私に響いたかのように。
そして、次の瞬間。
嵐のような水が湧き上がったのだ。
まるで鉄砲水のように、凄まじい勢いで。
巨大な水柱が生き物の如くうねり、炎で覆われていた室内を駆け巡る。
その水は私を包み込んだかと思うと、全身についていた炎を一瞬で消し、通り過ぎていく。
何が起こったのかまるでわからない。
どうしてこんなところに水が……?
呆然と辺りを見渡して、ハッとした。
ローズマリーが水を生み出していた。
いや、正確にはそれは水ではない。
水龍だ。
水で出来た龍が、物凄い勢いで部屋中を駆け巡っているんだ。
鉄砲水のように流れる水龍は次々と炎を消し去り、先程崩れ去った廊下の瓦礫をも押し流して、全ての火をあっという間に消し去った。
「ふぅ、どうにか間に合ったわね」
彼女が腰をトントンと叩くと同時に、呼び出された水龍は霧となって消える。
その間、わずか十秒。
たった十秒で、ローズマリーはここにある全ての炎を消し去ったのだ。
すごすぎる。
私が驚きのあまり言葉を失っていると「メグ、火傷は大丈夫かい?」とローズマリーが手を伸ばしてきた。
「は、はは……何とかね。髪の毛焦げたけど」
私はそっとその手を取る。
どこか遠くから、消防車のサイレンの音が聞こえてきた。
その音を聞きながら、私は改めて思い出す。
この老婆は、中央都市ロンドを統べる偉大な魔女なのだという事を。
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