第5節 通勤ラッシュの苦難

「メグ」

「はい」

「今夜、仕事で出るからね。数日留守にするよ」

「はい」

「家を燃やすんじゃないよ」

「はい」

「馬鹿みたいにボーッとしてるね」

「はい」

「ダメだね、こりゃ」

「はい」


帰って食事をしていても、私の意識は心ここに在らず。

カチャリカチャリと食器がぶつかる音だけが妙に響いて感じた。


お師匠様は、あれからメアリの話題も、悪魔の話も一切しない。

どうしようもないことや、危険なことには近づかないからだ。

今回、この一件に関わろうとしないのもそう。


対峙する存在が危険であると、お師匠様は千里眼で見抜いてるからに違いない。


きっと、何もしなければ、私達には何も起こらない。

メアリもジルさんも、知らない間に居なくなって、謎だけが残るんだ。


でも、それは、きっと。

この先ずっと、嫌な痛みになって残り続ける。

消えることのない嫌な痛みに。




夜になり、お師匠様が出かけた。

確か数日は戻らないとか言っていたな。

それなら……。


私はこっそりお師匠様の書斎に入りこんだ。

不思議そうに私を見る小動物たちをシーッと黙らせ、書物に目を通す。


「あった」


目にしたのは、悪魔信仰に関する魔術書。

昔、掃除した時に一度目にしたのを覚えていたのだ。

この本には悪魔との契約の仕方や、儀式の方法など、悪魔に関する禁術が記されている。


契約を結ぶ方法があるということは、契約を破棄する方法だってあるはずだ。

契約する時と同じように、破棄するのにも代償がいるなら、それを用意すれば良い。

きっと何か、光明があるはず。


悪魔と魔女の歴史は深い。

古い時代では、サバトと呼ばれる集会にて契約を結んでいたそうだ。

そのため、かつてのサバトは恐ろしい儀式として認知されていた。


今の時代のサバトは、この本に記されるようなものとは全く違う。

近隣の魔法使いたちが集まって行う、小さな会議みたいになっているのだ。

魔女や魔法使いは街に住み、その街と共に生きる。

だからこそ、土地の情報や近隣の魔力の変化の情報などをシェアするのだ。


悪魔信仰は衰退した。

それは、邪悪な魔法の使い手のせいで、幾度に渡って“血の歴史”が繰り返されたからだ。

今でこそ魔女や魔法使いは世界と共存している。

しかし、法律を通じて火炙りになった歴史も、たしかに存在していた。


人々のために生きた魔女が、邪悪な魔女のせいで生きたまま火で焼き殺される。

そんな凄惨な歴史が、この世界にはあったんだ。


長い年月を掛けて、魔法を悪用する存在は排除されてきた。

差別などが消えたわけじゃない。

でも、魔女や魔法使いのイメージは随分と良くなっている。

少なくとも、ラピスの街に、かつての遺恨は存在しない。


ページをめくっていると、私は一つの項目に目を留めた。

悪魔との契約施行に関する、規則の話だ。


悪魔との契約には、ある特定の儀式場が必要らしい。

悪魔崇拝の祭壇を設け、悪魔との契約を交わすのだ。

契約を締結後、連日祈りを捧げる。

実際に生贄を捧げるのにも、契約を交わした祭壇を用いるという。


「そうか、祭壇を壊せば、ひょっとしたら……」


儀式の日付は月の十三日。

契約者は、対価に見合った報酬を悪魔より受け取る。


今日が十一日だから、あと二日しかない。

それまでに祭壇を見つけないと。




次の日の早朝。

私はメアリの家を、遠巻きに観察していた。

寒空の下、カーバンクルの毛皮とシロフクロウの羽毛に包まれ暖を取っていると、メアリの家から人が出てくる。


メアリの父のテッドである。


悪魔降臨の儀の前には、数日間祭壇に祈りを捧げなければならない。

つまり、今日一日テッドを尾行してどこにも怪しいそぶりがなければ、祭壇は家の中にある可能性が極めて高い。


「行くよ、二匹とも」

「ホゥ」

「キュイ」


空からシロフクロウに見張らせ、私とカーバンクルでテッドの動向を探る。

完璧な作戦だ。

そう、完璧な。


「ぐぎぎ、ぐぎぎ、どうじでごうなる」


通勤ラッシュでぎゅうぎゅうの満員電車にすし詰めになりながら、私はうめいた。


メアリの父テッドは都心にある会社員だ。

人当たりもよく、勤務態度も真面目。

家族想いの優しい人、と言うのが周囲からの評価らしい。


毎日毎日、こんなギュウギュウ詰めの電車で通っているのか。

私には無理だ。テッドを心から尊敬する。

いや、もしかしたらテッドがドM説もある……?


「それならこの通勤ラッシュに耐えられるのもわかる気がするぅぅあぐぐぐぐ」

「ギュイ……」


私の胸ポケットの中でカーバンクルが苦しそうにうめいた。

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