転:裏京都の住人たち
柱の軋む音に意識を引き戻され目を開くと、俺は暗闇の中で冷たい床に転がっていた。残る目眩に目元を押さえながら身体を起こす。状況をいまひとつ理解できぬまま、見覚えのないお堂のような景色をぐるりと見渡したあと、ゆっくりと立ち上がった。
遠くから聴こえる騒がしい人の声に胸を撫でおろし、僅かに光の漏れる朱塗りの戸を静かに開く。
そこに広がる景色に目を
世界が金色に染まっている。
黒い空の下に、燃え上がる紅葉がライトに照らされて、夜に灯る提灯のように光っている。その妖光の奥には五重塔が聳え、ただ美しいだけではない思わず手を合わせたくなるような荘厳な景観であった。
まるでこの世のものではない美景に、俺は吸い込まれるように立ち尽くしていた。
しゃらり。
唐突に、柔らかい鈴の音が響き渡った。
その音に合わせ、二つの影が揺らいでいる。鮮やかな橙色の着物に、腰まで伸びた黒髪。袖元の鈴。それは、昼間に見た無邪気に駆ける二人の少女であった。
ただ、昼間とは異なって頭の狐面の代わりにそれぞれ白と黒の獣耳が生えている。それが人ならぬもののように思え、反射的に俺は身を隠すように社の床下へと潜り込んだ。
「あれ、戸開いてる」
「ほんまや」
「あーあ、見張ってやなあかんのにヨイが金魚飴食べたいゆうから」
「一人で行くゆうたのにメイが付いて来るって」
「そんなん狡いし。うちやってお祭り行きたいもん」
橙色の鼻緒の黒下駄を弾ませ、彼女たちはぷりぷりとしながら社の階段を軽やかに駆け上がる。戸の中を覗き、意識が逸れた時が好機であった。
俺は床下から這い出し、勢いに任せて走り出す。その瞬間、二人に右腕と襟元を掴まれ、引き戻された俺は尻餅をついた。
「残念やったなぁ、逃げられへんくて」
「獣は夜目が利くねん。お兄ちゃん、人間やろ?」
少女たちは大きな目を細め、にんまりとした。
メイと呼ばれた白耳の少女は身体を屈め、俺の顔を覗き込む。
「君たちは人間じゃないのか」
「うちらは人間みたいな愚鈍な生き物とはちゃう」
狐であるとヨイが言う。やはり、人間ではないらしい。
「俺を捕まえてどうするつもりなんだ」
恐る恐るに問いかけると、少女はくすくすと嘲る。
「大師様に差し出すねん。人間は美味しいって大師様がゆうたはったし」
「目玉を抉り取って、飴玉みたいに舌の上で転がすのが好きなんやて」
「お兄ちゃんの解体ショー、楽しみやわぁ」
「捕まえたら、飴玉一つもらえるやろか」
二人は無邪気に笑ったあと、瞑想に耽る。
俺は少女の手を振り解き、脱兎の如く走り出した。
遠くの空に金色に輝く五重塔を見ると、ここは東寺で間違いないらしい。ただ、境内は昼の景色とは随分と異なっていた。
和服の者もいれば、洋服の者もいる。顔を見せる者もいれば、面や布で隠す者もいる。年齢や格好は様々ではあるが、行き交う全ての者の頭には立派な獣の耳が生えているのだ。それはここがいつもの京都ではないことを物語っていた。
白狐のメイは剣玉を、黒狐のヨイは羽子板を懐から取り出し、それを振り回しながら喜々として追いかけてくる。まるで鬼ごっこを楽しんでいるようではあるが、俺の命がかかっているのだ。そう簡単には捕まるまい。
境内の端には祭り屋台がずらりと並んでいた。絶賛逃走中であるが故に悠長に眺めている余裕はないが、芳しい香りを放つ屋台に混じって視界の端におかしなものが幾つも現れた。
突き当りには金魚飴と書いた店があり、巨大な金魚鉢が置かれ、髭を蓄えた店主が真っ赤な金魚を掴み上げると熱い飴に潜らせている。隣には赤い風車が一列に並べられ、駆け抜ける風によってくるくると回り、傍らの陶器の黒猫の瞳が次々と赤く点灯していく。その更に隣では気味の悪い目玉入りのカラフルなジュースを、獣耳の住人たちが美味そうに啜っていた。
こんなことになるのなら昼間に腹を満たしておけば良かったと後悔した直後、タイヤキ屋に耳の生えたオバサンが見えた。
気が付くと後ろから追いかけてくる獣耳は数十に増幅し、「人間だ。捕らえろ」「大師様への献上物だ」などと好き勝手に宣って、双子と同様に玩具を振り回している。
ようやく人気の少ない北大門に辿り着いた時、唐突に視界の端から現れた何者かに肩を押され、同時に足元を棒のようなもので掬われた。当然の如くバランスを崩した俺は、そのまま地面を転げ回り強かに顔面を打った。
痛む鼻頭を押さえながら顔を上げる。
巻き上がる砂埃が風に流れ、姿が金色の光の中に現れた瞬間、喉元にぴたりと何かが突き付けられた。
「確保」
水色の着流しを纏った男が、俺の喉を貫く寸前の状態で竹刀を構えていた。彼もまた短い黒髪の中に黒い獣耳が生え、顔は黒い面と水色の正方形の布で覆い隠されている。声艶や背格好からは、俺と変わらぬ齢の青年なのだろうと想像できる。
彼の顔を隠す布が風にひらりと捲り上がった。その隙間から見えた黒い獣の面は、賀茂が露店で見つけたものと瓜二つであった。
「捕らえろ」
彼の合図と共に、ヨイは羽子板で俺の頭をぽこぽこと叩き、メイは剣玉の糸で両手を縛り上げた。
「ナオ、遅い!」
「ごめんごめん、大師様とババ抜きしとったら遅なってしもてん」
「ええ歳した大人二人がババ抜きなんて!」
「メイは厳しいなぁ。子供の遊びはいつまでも男心をくすぐる浪漫やねんで」
滑らかに竹刀を納めた彼はひらひらと手を振りおどけてみせる。
どうにかして縄から抜け出そうとするも、細い蛸糸が食い込んで、身動きが取れない。鼻腔から生温い液体がたらりと顔を伝っていくのを感じ、俺は絶望感に苛まれた。
青年が俺の服の襟を掴み、力任せに引き上げる。
きっと「大師様」の元に突き出されるのだろう。そして、この裏京都の住民たちの前で面白可笑しく解体され、鍋にでもされて食べられてしまうのだ。
そう思った時だった。
「そこ、通しておくれやす」
鈴を転がすような澄んだ声が響き、俺は振り返った。
まるで人形のように美しく整った顔の女性がそこに立っていた。陶器のように白く滑らかな肌に、肩で切りそろえられた黒髪は妖光の下で艶やかに光り、紅葉を写し取ったような赤い着物が白い肌を一層際立たせている。小さな顔にはきっちりと紅がさされ、白い獣耳が相対的に大きく見えた。
彼女は天使なのだと思った。
両手で風呂敷を抱いた彼女が下駄を鳴らしながら歩くと、俺の周囲に群がっていた住人たちが道を開く。
「そういえば、その人間。表で大師様が仲ようしてはった子やないの?」
すれ違い様に、彼女は仔猫のように首を傾げながらしっとりと告げた。
住人たちがざわつき始める。
「ナオ、あんたの命こそ危ういかもしれへんねぇ」
くすりと笑う彼女に、青年は「やってしもたなぁ」と呟きながら俺の手首に食い込んだ蛸糸を解いた。
自由になった手で鼻血を拭い、俺は彼女に向かって頭を下げた。
「あの、助けてくださって、あ……ありがとうございます」
美しい顔を前に、上手く呂律が回らない。
華やかな立ち振る舞いの彼女は少しだけ膝を折って俺に会釈をした。そしてふわりと目の前に近づいて来たと思うと、柔らかく握った右手を差し出して言う。
「この飴玉を舐めながら右回りに歩いて行き。ほな、黒猫が座ったはるお堂があるさかい、そこで休ませてもろたらええ。気ぃつく頃には表に戻ってはるはずや」
左手を彼女の拳の下に添えると彼女はゆっくりと手を開き、紙に包まれた飴玉がころりと俺の掌に転がり落ちた。
それは人間の目玉にも紛うものであった。
俺は心を落ち着かせて彼女に礼を告げたあと、一つだけ問いかける。
「俺が大師様の友人っていうのは……」
「あぁ、あんたはこっちでは大師様に会うたことあらへんもんな。表では『賀茂』って名乗てはるらしいで。ほな、気ぃつけて」
そう、彼女は長い睫毛に縁取られた涼やかな目でウインクをした。心を撃ち抜かれたと同時に、衝撃的な事実に脳みそが揺さぶられた。
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