第8話 死にぞこないの鍵 貸します
ロープだ!俺は巻き付いた物に咄嗟に指をかけようとした。が、ロープが首に食い込むほうが一瞬、早かった。
気道が潰される感触があり、酸素の供給を絶たれた肺が悲鳴を上げた。目線を下げて左手を見ると、少し前まで灰色だった手首がほぼ真っ白になっていた。
――まずい、このままだと「本当に」死んじまう。
首を絞め上げているロープは俺の頸椎をみしみしと軋ませ、手の力だけで骨を砕こうとしているかのようだった。
――死神の旦那、すまないが少しの間、代わってくれないか。
俺が俺の奥深くで眠っている「得意先」に打診すると、一呼吸置いて反応があった。
――なんだ、エネルギー切れか。しかしこの残量ではわしも長くは動けんぞ。
――構わない。……手っ取り早く片を付けてくれ。
俺は弱々しく懇願すると、身体の支配権を死神と交換した。
――どれ、少々不細工な身体だが、使わせてもらうとするか。
地の底から響くような声と共に、俺の意識は暗い淵へと濁流のように吸い込まれていった。闇の底では一切の体感覚が失われていたが、死神が見聞きしている物はすべて感じ取ることができた。
俺の身体――死神は「ぐっ」と呻くと首を絞め上げている「敵」の手首をつかんだ。
俺の顔面はチアノーゼを起こして紫色になっているはずだが、死神は俺の消耗具合には一切、頓着しなかった。
「ぐおっ」
塞がれた喉から断末魔の叫びを絞りだすと、死神は敵の手首をつかんだまま、あり得ない全身の発条で後方にジャンプした。次の瞬間、死神の身体は敵ごと後方のコンクリート塀に激突した。
「……うぐっ!」
首のロープが緩み、敵が地上に崩れる気配があった。死神は敵の落としたロープを拾いあげると、そのまま路上に伏している敵の背に馬乗りになった。俺は死神がロープを敵の首にかけようとしていることに気づき、警告を発した。
――よせ、殺したりしたら駄目だ。
――殺さねばお前が殺されるぞ。これは普通の人間ではない。
――それでも駄目だ。乱暴な真似はやめて捕縛してくれ。頼む。
俺が説得を重ねると死神はしぶしぶロープを首から外し、敵の手首をつかんだ。
勤務時間外なのでいわゆる常人逮捕の形になるが、俺にとっては「よくあること」だ。
死神が素早い動作でロープを敵の手首に巻きつけようとした、その時だった。
膝の下で敵の背筋がぐわっと盛り上がったかと思うと、身体が後方に弾き飛ばされた。
死神がアスファルトに叩きつけられ、何も感じないはずの俺までが眩暈を覚えた瞬間、真っ黒なスーツに身を包んだ敵が、風のような速さで距離を詰めてきた。
「むっ……?」
敵は死神の胸ぐらをつかんだかと思うと、そのまま片手で宙吊りにした。
死神の両手がだらりと垂れ下がり、敵の拳がぐいと引かれた。
身体を宙吊りにしている怪力から考えると、奴の拳は一撃で死神の――俺の頭蓋骨をぐしゃぐしゃにするに違いない。俺が観念して死神の運命にすべてを委ねた、その時だった。
死神が口を大きく開け、ごぼっと喉を鳴らした。敵の動きが止まった次の瞬間、死神の口から大量の「
「ううっ!」
敵が呻き声を上げ、死神の身体はその場で盛大に尻餅をついた。
死神は近くの路上に放置されていた角材を拾いあげると、体勢を立て直そうとする敵より一瞬早く立ちあがった。死神が角材を敵の頭上めがけて振りかざした、その時だった。
「……にゃあ」
すぐ近くで奇妙な声が上がった。肩越しに振り返った死神の目に、ブロック塀に寄せて置かれた段ボール箱が映った。声の出所はどうやらその中らしかった。
――いかん。わしはこのへんで失礼する。後はよろしく頼むぞ。
死神のうろたえたような声が響き、俺は段ボール箱の中身が何であるかを悟った。
子猫だ。子猫が鳴いているのだ。死神はどういうわけか赤ん坊や子供に接すると、弱体化してしまうのだ。恐らく幼い生命の持つ特殊な力に弱いのだろう。
俺はあっと言う間にしぼんでしまった死神の代わりに、エネルギーのつきかけた体に再び舞い戻る羽目になった。このまま放っておけば殺されなくともたぶん死ぬだろう。
俺は角材を取り落とし、その場にがくりと膝をついた。歩み寄ってくる敵が勝利を確信しているであろうことは明白だった。
――すまねえ、ポッコ。死体の後始末をよろしく頼む。
俺が絶望の中で我が身の不運を嘆いていた、その時だった。まばゆい光が俺と敵とを照らし出した。
「警察です!両手を後ろに回しなさい。抵抗したら発砲します!」
沙衣の声だった。はったりだ、と俺は思った。だが意外にも敵はその場でくるりと向きを変え、光の輪から逃れるように一目散に走り去っていった。刑事を二人も殺せば、さすがに面倒なことになると踏んだのかもしれない。
「大丈夫?カロン」
大型の懐中電灯を手に歩み寄ってきた沙衣が言った。
「……悪いがその明かりを消してくれ」
俺は虫の息で言った。死神は強すぎる光にも弱いのだ。
「えっ?なんて言ったの?」
「早く……荒木の奥さんを送るより先に、俺をアパートに連れて行ってくれ」
沙衣の後ろから洋子がおずおずと近づいてくるのを感じつつ、俺は言った。
「あらっ……なにかしら、これ?」
ふいに洋子の足音が止まり、がさがさと音がしたかと思うと甲高い声が響いた。
「まあ、可愛い!」
「……えっ、何?……あら本当、可愛い!」
俺は二人が段ボールの中の捨て猫を見つけたことを悟った。こうなるともう俺などは関心の外だ。
「ひどいわね、こんな場所に子猫を捨てるなんて」
「あの……私、この子を連れて帰ります」
「洋子さんが?」
「ええ、ちょうど一人で寂しかったところだし……いいですよね?」
「そうね、これも運命かも知れないわね。……私、タクシーを捕まえてくるわ。そこのおじさんを見ててくれる?」
「はい、わかりました」
――なんてこった。まさか味方にとどめを刺されるとは。
俺は沙衣の足音をエネルギーの切れた耳で聞きつつ、頼むから急いでくれよ、と祈った。
〈第九回に続く〉
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