『みの』

犬養

『みの』

友達に約束をすっぽかされた俺は特に何の意味もなく壁で揺れている点を見つめていた。右へ左へ、左から右へ、大きくゆっくり、今度はすばやく小刻みに。お世辞には綺麗と言えない校舎の壁を、よいしょよいしょと登っていくその姿は、エベレストへの挑戦者のようで、気がつけば食い入るようにその黒い点を見つめていた。


「虫、好きなの?」


頭上から声が降ってきて反射的に顔を上げる。

柔らかい笑みを浮かべたソイツは俺の記憶違いでなければ知らない顔で、俺もどうかしているんだろう、

「...応援したくなっちゃって。」

口から勝手に言葉が飛び出していた。


「僕も応援してていいかな?」

返事をする間もなくソイツは俺の隣に腰を下ろした。

相も変わらず点は右へ左へ揺れながら前進を続けている。



「なぁ!えと、お前...はさ、虫、好きなの?」

無言に耐えきれず思わず声をあげたものの、頭に浮かんだのは先程の問いのみ。ぎこちない言葉づかいで隣の様子を窺ってみる。

…そういえば俺、コイツのこと何も知らねぇな。


「好きだよ、好きだけど」

手をゆるりと上げ、点を指差す。その動作がやけにゆっくりで、綺麗に切り揃えられた爪と生白い指先だけが鮮やかに息をしていた。



────────────────────────


「俺、もう帰るよ。」

ぽとりと呟いた言葉は赤く色づいた空に吸い込まれて消えていった。息を飲むほど綺麗な空だった。


「もう少し」

首を少し傾けながらアイツもぽとり、言葉を落とす。

「もう少し、待ってみない?」

「もう少し?」

「うん、もう少し。そしたらきっといいことがあると思うんだよね」

何の根拠もないけれど、なんだかコイツが言うならそうに違いない、そんな気がして。

「いや待つって何をま」「ほら」

指差す先には、


「ほんっとごめんなぁ!!!」

「おまっ、来れないんじゃなかったのかよ!!」

「ごめんて。アイスおごるからさ?なっ?」

「高いのおごらせてやるから覚悟しとけよ」

「こんの鬼畜!...足りるかな。」

軽口を叩き合いながら笑う。いつものように。



「ほら、いいことあったでしょ?」



振り返ってもそこには誰もいなくて、俺は何をしていたんだっけ。──誰と話していたんだっけ。

ただただ、俺は綺麗な指先だけを覚えていた。


「何やってんだー?先行くぞー?」

「待てや!こんだけ待たせたくせに置いていく気かよ!!」






「好きだよ、好きだけど、




──この子は好きになれないなぁ」


メスは体のほとんどを簑に包まれたまま羽ばたくこともできず、足も口も持たず、卵を産むためだけの身体になって、役目を終えたら死んでいく。

オスは羽化して羽を手に入れても、食べ物を食べることも無く、交尾を終えたら死んでいく。

この子達だけに限ったことではない。種を残していくための手段。残酷で美しい、生きるための姿。

果たして壁で揺れているこの子は知っているのだろうか。

僕は見ていることしかできない。

日陰の薄汚れた校舎の壁、少しでも見つけてもらえるように明るい方へ明るい方へと。右へ左へ、左から右へ、大きくゆっくり、今度はすばやく小刻みに。忘れられて、いなかったことにされて、このまま消えていくのは悲しいから。必死に、よいしょよいしょと。

そろそろ僕も行くとしよう。やっと見つけてもらえたから。




壁で揺れていた黒い点は知らぬ間にどこかへ行ってしまった。

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『みの』 犬養 @ikasaki721

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