耳元に響く、クラクションの音。

 振り向くと軽トラックに、不機嫌な運転手の顔。

「俺、なにしてんだ……?」

 気付いたら道路のド真ん中。

 俺は運転手に頭を下げ、道を空ける。

 日中にもかかわらず、意識は微睡まどろみの中。

 立ち眩みを感じ、近くの塀に背を預ける。

 空気は冷たいが、陽は暖かい。

 春の陽気に当てられ……俺は住宅地をあてどもなく歩き始めた。

 公園を通りかかるとボールを蹴飛ばす音に、ウグイスの声。

 車のボンネットでネコは欠伸をし、砂利の間に生えた二本の土筆つくしが風に揺れる。

 ――こんなのんびりした時間はどのくらいぶりだろうか。

 ポケットには財布も、スマホもない。

 俺は学生でも社会人でもなく、どこにも属していない一般人。

 なにに縛られることもなく、あてどもなく日中から散歩なんてしている。どこまでも自由な、黒田剣一だった。

 まるで死後の世界で、花畑でも走り回ってるような気分……なんてな。


 大通りに差し掛かる。

 交差点の対岸には仏頂面の主婦と、サラリーマン。目の前を横切っていくタクシーに、車を詰んだレッカー車。

 世界の歯車は、何事もなく回っている。

 誰が希望に胸を膨らませようと、変わらない日常に退屈しようと、歯車は黙々と回り続けるだけ。

 今日のアスファルトは灰色で、明日もきっと灰色だ。

 その中で少しずつ、記憶の焦点が定まってきた。


 氷川、茜……。

 俺を現実の世界に送り出してくれた人。

 もう俺たちが同じ道を歩くことはないだろう。

 あの瞬間、あのタイミングでしか、共に歩むことができなかった。そして俺たちは別の道を歩むと決めたんだ。

 ……茜はどんな決意を抱えたのか。

 俺にそれを知る権利は、きっとないのだろう。

 俺の記憶に残っている茜は、現実に存在した茜だったのか。それとも俺が作り出した幻だったのか。

 わからない、確かめるすべもない。

 じゃあ、いまの俺はいったい何者なんだろう。

 空っぽである俺を形作るモノって、いったいなんなのだろう?


 気づくと、なにか握っていた。

 フライ返し。

 黄色のパステルカラーで、とても可愛い。お値段税込にして百八円。

 なんで、俺がこれを持っているんだ?

 これは小さい頃の俺が、ざくろにあげた誕生日プレゼントじゃないか。


 ……返してこないと。

 脚が――動き出す。

 赤信号に背を向け、走り出す。

 体育の授業になんてしばらく出ていない。

 だから自分の意志で走ろうと思うなんて、どれくらいぶりかわからない。

 でも、脚を止めるわけにはいかない。

 だって俺が何者でないなんてこと、あるわけがなかったから。

 俺は、ざくろと結婚した。

 約束した。幸せにするって。

 バカか、俺は。

 俺に何者でもない瞬間なんて、これから先の人生で一度も訪れるはずがないんだ。

 俺はざくろのものなんだ。だからいま、こうして一人で歩いていること自体がありえない。

 胸に激痛が走り、涙がとめどなく溢れてくる。

 だが止まるわけには行かない。いまこうしている間にも、ざくろがどれだけ胸を痛めているかわからないのに。

 ざくろ、ざくろ――ごめん、お前に笑顔でいてあげられなくてごめん。

 早く会いたい、会わなきゃいけない。

 ざくろに謝らなければいけない。

 どんなに怒られたって、嫌われたって。

 でも絶対に許してもらわなければいけない。

 ざくろが寂しがる……違う! 俺が寂しいから!

 走れ、もっと早く。

 脚の筋肉が悲鳴を上げている。

 血液の循環が追いつかず、目元がチカチカと明滅を始める。

 だが、そんなことを気にしていられない。

 いまは一刻も早くざくろの元へ、向かわなければいけない。

 駆け落ちを断られたとか、酷い目に合って可哀想だったとか。もうそんなこと、どうでもいい。

 めんどくさいことは、全部やめた。

 ただそこにいてくれるだけで、十分なんだ。

 アパートの階段を三段飛ばしで駆け上る。

 辛い日々は終わった。

 俺が、未来を創る。

 一人ではなにもできない。

 支えられた記憶があるから、支えることができる。

 まだまだクソガキで、どうしようもない俺だけど。

 周りに迷惑をかけながら、生きていくことしかできないけど。

「ざくろっ!」

 一番最初に芽生えた感情だけは、失わないように生きていく。

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