④
耳元に響く、クラクションの音。
振り向くと軽トラックに、不機嫌な運転手の顔。
「俺、なにしてんだ……?」
気付いたら道路のド真ん中。
俺は運転手に頭を下げ、道を空ける。
日中にもかかわらず、意識は
立ち眩みを感じ、近くの塀に背を預ける。
空気は冷たいが、陽は暖かい。
春の陽気に当てられ……俺は住宅地をあてどもなく歩き始めた。
公園を通りかかるとボールを蹴飛ばす音に、ウグイスの声。
車のボンネットでネコは欠伸をし、砂利の間に生えた二本の
――こんなのんびりした時間はどのくらいぶりだろうか。
ポケットには財布も、スマホもない。
俺は学生でも社会人でもなく、どこにも属していない一般人。
なにに縛られることもなく、あてどもなく日中から散歩なんてしている。どこまでも自由な、黒田剣一だった。
まるで死後の世界で、花畑でも走り回ってるような気分……なんてな。
大通りに差し掛かる。
交差点の対岸には仏頂面の主婦と、サラリーマン。目の前を横切っていくタクシーに、車を詰んだレッカー車。
世界の歯車は、何事もなく回っている。
誰が希望に胸を膨らませようと、変わらない日常に退屈しようと、歯車は黙々と回り続けるだけ。
今日のアスファルトは灰色で、明日もきっと灰色だ。
その中で少しずつ、記憶の焦点が定まってきた。
氷川、茜……。
俺を現実の世界に送り出してくれた人。
もう俺たちが同じ道を歩くことはないだろう。
あの瞬間、あのタイミングでしか、共に歩むことができなかった。そして俺たちは別の道を歩むと決めたんだ。
……茜はどんな決意を抱えたのか。
俺にそれを知る権利は、きっとないのだろう。
俺の記憶に残っている茜は、現実に存在した茜だったのか。それとも俺が作り出した幻だったのか。
わからない、確かめるすべもない。
じゃあ、いまの俺はいったい何者なんだろう。
空っぽである俺を形作るモノって、いったいなんなのだろう?
気づくと、なにか握っていた。
フライ返し。
黄色のパステルカラーで、とても可愛い。お値段税込にして百八円。
なんで、俺がこれを持っているんだ?
これは小さい頃の俺が、ざくろにあげた誕生日プレゼントじゃないか。
……返してこないと。
脚が――動き出す。
赤信号に背を向け、走り出す。
体育の授業になんてしばらく出ていない。
だから自分の意志で走ろうと思うなんて、どれくらいぶりかわからない。
でも、脚を止めるわけにはいかない。
だって俺が何者でないなんてこと、あるわけがなかったから。
俺は、ざくろと結婚した。
約束した。幸せにするって。
バカか、俺は。
俺に何者でもない瞬間なんて、これから先の人生で一度も訪れるはずがないんだ。
俺はざくろのものなんだ。だからいま、こうして一人で歩いていること自体がありえない。
胸に激痛が走り、涙がとめどなく溢れてくる。
だが止まるわけには行かない。いまこうしている間にも、ざくろがどれだけ胸を痛めているかわからないのに。
ざくろ、ざくろ――ごめん、お前に笑顔でいてあげられなくてごめん。
早く会いたい、会わなきゃいけない。
ざくろに謝らなければいけない。
どんなに怒られたって、嫌われたって。
でも絶対に許してもらわなければいけない。
ざくろが寂しがる……違う! 俺が寂しいから!
走れ、もっと早く。
脚の筋肉が悲鳴を上げている。
血液の循環が追いつかず、目元がチカチカと明滅を始める。
だが、そんなことを気にしていられない。
いまは一刻も早くざくろの元へ、向かわなければいけない。
駆け落ちを断られたとか、酷い目に合って可哀想だったとか。もうそんなこと、どうでもいい。
めんどくさいことは、全部やめた。
ただそこにいてくれるだけで、十分なんだ。
アパートの階段を三段飛ばしで駆け上る。
辛い日々は終わった。
俺が、未来を創る。
一人ではなにもできない。
支えられた記憶があるから、支えることができる。
まだまだクソガキで、どうしようもない俺だけど。
周りに迷惑をかけながら、生きていくことしかできないけど。
「ざくろっ!」
一番最初に芽生えた感情だけは、失わないように生きていく。
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