3-18 朦朧とする世界の中で
――灯りのつかない空き教室に、ワイシャツの茜と二人きり。
先ほど解体工事の件を持ってきた社長を、ニセの風紀委員権限で追い返したところ。
サンマがしたいなんて理由で仕事をぶっちさせた俺の婚約者。
本来だったら怒らなければいけないところだ。だが、ここまで怒らせたのはひとえに俺が構ってやれなかったのが原因。だからこそ茜のワガママに付き合うのは俺の義務。
……なんて、体のいい言い訳。ホントは俺が茜と居たいだけだ。
肩には茜の重み。
ちらと視線を送ると、くりっとした瞳がすっと逸れ、俺の鎖骨に額を当てて恥ずかしがる。
目の前の頭を撫でる。熱の籠った空き教室に漂う、シャンプーの香り。
早く卒業して、茜と暮らしたい。
そのために俺は学生でありながら、仕事でお金を稼いでいる。
今度の解体工事が終われば、一通りの新生活の費用が揃う見込みだ。
胸にあるのは、将来への期待。
きっと素敵で、楽しい毎日になるだろう。
「ねえ……剣ちゃん」
「うん?」
少しあどけない口調で、茜が聞く。
「わたしのこと、好き?」
「ああ、好きだ」
急に聞かれても絶対に躊躇わない。怪しまれることだけは、絶対に避けるため。
……なぜ?
その疑問が頭をよぎるのも束の間、信じられない光景が目に飛び込んでくる。
「お前、その傷どうしたんだ!?」
いつ傷つけたのか、茜の首に入った切り傷から、ドクドクと血が流れ落ちている。ワイシャツの胸元は赤黒く染まっているにも関わらず、茜はきょとんとした顔で首を傾げている。
「剣一、見てたじゃない。これはアリサって女の人につけられた傷よ?」
そうだ、アリサ。
解体工事中に出会った、能力者。
現場仕事にまで首を突っ込んできた茜が巻き込まれ、人質に取られてつけられた傷。
……おかしくないか?
「ねえ、剣一」
気づけば茜は立ち上がり教室の中心に立っていた。
「ウチ、ずっと待ってたんだよ」
「待ってた?」
「うん。初めて手を繋いで帰ったあの日、メッセージが返ってくるのを」
そうだ。俺は茜を家まで送った帰り、傷ついた――**********――出会ってから茜に返信をしなかった。
「ごめん、でもあの時は」
「ううん、許さない」
不意に告げられた、強い言葉。
「剣一、あのあと学校に来なくなって、既読でも返信してくれなくて、どんなに不安だったか剣一にわかる?」
……なんで俺は茜に返信をしなかったんだ?
茜にかまけてる、場合じゃなかった……?
「ひどい、ひどいよ。剣一! あんなにウチのこと期待させてさあっ、剣一とデートできて、プレゼントもらえて嬉しかったのにっ……」
悲痛な、叫び声が薄暗い教室に響き渡る。
「無視するなんて、ひどいよ……」
茜の怒りの、悲しみの叫びは、俺に向けられている。
本当に傷ついているからこそ、本気で俺のをなじっている。
「それなのに、剣一はちゃんと謝ってもくれない。おまけに他の女の人のために頑張ってたなんて言われて、許してもらえるって思うの!?」
他の女の人? 誰だ、それは。
「ウチよりも、大事な人がいるのに。剣一はその人のことも思い出さずに、ウチと一緒に過ごして行けるなんて、本気で思ってたの!?」
脳裏にノイズがかった光景が浮かび上がる。
――剣ちゃん。
そうだ、……は俺のことを剣ちゃんと呼んでいたはずだ。
「ウチは剣一と幼馴染なんかじゃない。駆け落ちなんて夢みたいな提案、されたことない!」
茜との関係は順風満帆だった。駆け落ちなんてする理由はなかった。じゃあ駆け落ちしようとした相手は、茜じゃなかった?
駆け落ちしようとした理由はなんだ? それは香織が……を虐めるから。――あれ、茜の両親は共働きで、家に変えることすら少なかったんじゃないか。
隣に住んでたのは早乙女香織、じゃあ娘は氷川茜なんて名前じゃない。
じゃあ香織の娘の名前はいったい……
「早乙女ざくろ」
知恵の輪が外れるように、その名前がすっと胸に染み込んでいく。
「わたしはざくろちゃんに負けたの、そしてウチは剣一とざくろちゃんの姿を見て納得したの。この二人は一緒にいなければダメなんだって、……納得なんて、絶対したくなかったのに」
空き教室が崩壊していく。観測者に疑問を抱かれた光景は、もうその姿を維持することができない。
ここは光の差し込む余地がない、真っ暗な世界。
「茜、ごめん」
「言ったでしょ、許さない。ウチ、執念深いし、根に持つし、相手の揚げ足はとりまくるの」
血と涙に濡れた茜は、後頭部につけていた髪飾りを外す。
「ウチ、こう見えて意気地なしだからさ」
エメラルドグリーンのバンズクリップ。
たった一度のデート、土壇場で買ったプレゼント。
押さえつけられていた後ろ髪が溶かれ、重力に従ってふわりと肩を撫でる。
「ざくろちゃんから剣一を奪い取ること、できなかった」
そのバンズクリップに力を籠め……支えの部分から二つに割る。
「だから、剣一」
涙で腫らした、目元を瞑り、無理やりに笑顔を作って。
「ざくろちゃんを、視てあげて」
真っ暗な世界は、茜の姿を飲み込み、俺の意識が再び微睡んでいく――
***
意識が朦朧とする。
なんだここは。
どうしてこんなに、寒いんだ?
辺りを見回すと天井のない廃墟、ログハウス。
そうだ。俺は社長と香織の詐欺を暴くため、こんな山奥くんだりまでやってきたんだ。
二人の脅威はなくなった。
だがその後なにかトラブルがあって……寝込んでしまった?
ダメだ、記憶が判然としない。
だが、まずは目の前でうずくまる存在を放っておくわけには行かない。
凍えてしまいそうな体に鞭を打ち……ベージュのトレンチコートを纏った女の子の元へと歩いていく。
俺が守ってやらないといけない、人の元へ。
「おい、起きろ……
……ざくろ」
ぶかぶかのコートを被された、ざくろの肩を揺らす。
雪はいつしか本降りになっていた。こんなところで寝ていたら、風邪どころか凍えて死んでしまう。
「剣、ちゃん?」
「ほら、起きろ。帰るぞ」
ざくろは半開きの目で俺の姿を確認した後、呟くように「そっか、駄目だったんだ」とだけ口にした。
「なんの話だ」
「ううん……それより、すごい寒くて動けない」
「まったく、しょうがないヤツだな」
そう言ったものの、俺自身も異常な寒さを感じている。頭も全然働かないし、体の節々も痛い。どうやら本格的に風邪を引いてしまったらしい。
「つうか、どうやってここまで来たんだっけ?」
「わすれた」
「どうやって帰ればいいんだ?」
「わかんない、ぐぐれば?」
「……手がかじかんでスマホがうまく触れない」
指の節々に感覚がない。
仕方ない、喋る方が楽だから電話しよう。
指紋認証でロックをクリアし、着信履歴の一番上にある――黒田鮎華、俺の母様に電話を掛けた。
「母様、ごめんちょっと車で迎えに来てくれない? え、ここ? どっかの山奥――」
俺たち二人は母様の車でそのまま病院に直行。二人ともインフルエンザと診断され、一週間寝込んで過ごすことになった。
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