3-16 夢現との決別

「二人とも、俺たちの前から消えてくれ」

 本当であれば、警察に突き出すのがいいに決まってる。

 だが俺も社長から給金を受け取っている。話を警察に任せて取り調べが始まれば、俺たちにも火の粉が降るのは免れない。彼らを野放しにするのは心苦しいが、我が身には代えられない……

「黒田君がそれでいいと言うのなら、私はそうさせてもらう」

 諦めがいいのか、切り替えが早いのか。

 社長は立ち上がり、クローゼットに向かってそそくさと帰り支度を始めた。

「待ってくれ、アタシはどうすればいいんだい!?」

 髪を振り乱した醜い女が叫ぶ。

「取引は不成立だ。一円にもならない君に用はない」

 社長は視線も寄越さず上着を羽織り、這いつくばったままの香織に冷たく告げる。

「そん……な」

 絶望した香織の声に反応し、ざくろが呼びかけてしまう。

「お母、さん……」

 呼びかけられた香織は、ざくろを憎悪で満ちた目で睨みつける。そして――

「気持ち悪ぃんだよ、お前」

 自分の娘へ向けるものとは思えない、呪詛。

「いまさら惨めになったからって、同情したフリすんじゃねえよ。言いなりになるしかできない、バカのクセしてよ?」

「てめえ……」

 俺は香織に近寄り、香織に向かって手を振り上げる。

「剣ちゃん、やめて!」

 だが、ざくろの悲痛な声に止められ、上げた拳を……力なく下ろす。

「剣一も剣一だよねぇ? あんなドブネズミと本気で結婚するつもりかい?」

「ああ、あんたの育ててくれた素敵な娘さんとな」

「トンだゲテモノ好きだね。わざわざ後ろに控えてる女を愛人に繰り下げてまでさ?」

「は。なにを言ってる、茜は……」

「前に二人で手を繋いで歩いてたじゃないか。アタシ、見てたんだよ?」

 ――え?

「あれからすぐに剣一がざくろと結婚したいなんて言いに来るから驚いたよ。まあ剣一は顔も悪くないし、女を一人に決めるってのもなかなか酷だよねえ」

 香織に、見られていた?

 たった一日だけだったのに。

 その日に限って見られていた……?

「なあ、ざくろ。知ってたかい? そこの女と剣一がそんな関係だって」

 ざくろは不安そうな顔で、茜の顔を見ている。

「不思議だねえ、ざくろは剣一と結婚するんだろ? それなのに、なんでいまもその女が一緒なんだい?」

「ざくろ、聞く必要ない。茜、ざくろを連れて先に戻って……」

「聞きなよ、ざくろ!」

 ざくろは、好奇心からか、疑念からか。

 足を止め、香織の話を聞いてしまう。

「思えば剣一の家にいたこともあったねえ? アタシなんかがしょっちゅう見るくらいだ、きっと外ではべったりなんじゃないかい?」

「お前、いい加減黙らないと、本当に――」

「剣ちゃん、本当なの?」

 ざくろの声が、不安に満ちた声が突き刺さる。

「茜さんとは、外でずっと一緒なの?」

「…………違うに決まってるだろ」

「じゃあ、なんでこっちを見てくれないの?」

 体が、動かない。 

 ざくろの目を見て、話をすることができない。

「そこの女はすごいねえ。剣一のためにアタシたちの話を盗聴することまで思いついて。よく見ればアイドルみたいに可愛い顔してるじゃないか。……それに比べてざくろ、アンタはどうだい」

「わた、し?」

「化粧もできずに髪も伸ばしっぱなしで、言われたことしかできない。なにもできないドブネズミと、可愛くてなんでもできる女。本当に剣一が好きなのはどっちだろうね?」

 先日スパリゾートの帰りに、ざくろが初めて辿り着いた嫉妬という感情。

 そして俺になにもしてやれないと、悔しくて涙まで流したあの日。

 香織がいま口にしている言葉は――ざくろの感情にするりと入り込む、スガタカタチをしている。

「その女がいなきゃ計画はうまくいった。全部台無しだよ、剣一に味方する、そんないい女がいるんじゃね」

 ここに来れたのも茜が車を出してくれたおかげ。

 すべて茜が俺にしてくれたお節介のおかげで、俺はざくろを救うことができた。

「ざくろ、弁えてやりなよ。剣一が本当に好きなのはその女だ」

 純粋な心に疑惑の波紋が広がり始める。

「本当に剣一が頼れる、甘えたいと思う女はざくろじゃないんだよ」

 墨汁が水に広がるように少しずつ、黒く染まっていく。

「ざくろはアタシに親孝行してるのが一番いいんだ。アタシはお前に感謝してる、だったら――」

「――黙れ」

 ログハウスの天井が、轟音を響かせながら弾け飛ぶ。

 壁は軋みながら階下へ落ち、床には底が抜けそうな深い亀裂が入る。。

「香織、消えろ」

 目の前の髪を掴む。

 気を少しでも緩ませれば、こいつの顔をトマトにしてしまいそうだ。

「俺、実は超能力者なんだ」

 香織はいま起きたことが理解できず、口を開けながら体を震わせている。

 屋根を失った天井からは、いつしか降り出した雪が舞い降り始めている。きっと寒いのだろう。

「本当はチカラを使って解決することもできたんだけど、殺しはしたくなかった。でも……七百万やっても五月蠅いなら話は別だ」

 ここには俺たちしかいない、地図にも載っていない、孤立した世界。

 もしここで誰かがいなくなっても誰にもわからないし、警察に捕まることもない。

 だからここに、モラルなんてものは必要ない。誰が消えようと、誰も気に掛けない。

「消えろ、そして二度と現れるな」

「……は、い」

 這いつくばり、汚いケツを揺らしながら階段に向かっていった。

 二度と会うこともない、本当に俺たちになにも残さなかった真性のクズ。

 壁を無くしたログハウスの二階から見えるのは、葉を落とした針葉樹に囲まれた枯れた世界。

 灰色の空に、灰色の木々。

 現実浸食で荒らされた埃の匂いが漂う、すべてが終わった場所。


「ざくろ――」

 俺の婚約者は茜から距離を置き、床にうずくまっていた。

 与えられた知恵の実に頭をパンクさせ、表情というものを失っている。

 俺は歩み寄り、その肩に手を触れようと――

「触らないでよ……」

 払い除けられる。

「……ざくろ?」

「剣ちゃん、茜さんのこと好きなの?」

 ざくろの声が、硬い。

「友達としてな」

「茜さんのこと、嫌い?」

「嫌いじゃない、友達だからな」

「じゃあ、わたしは」

「好きだ」

「……わたしのこと、友達じゃなく好きなの?」

「ああ」

「わたしの、なにが好きなの?」

「一緒にいると楽しい、誰よりも」

「じゃあ、なんでえっちしないの?」

「そんなことが俺たちを繋ぐものにしたくないからだ」

「そうなんだ……」

「俺はお前にいて欲しい、お前と一緒に暮らしたいんだ」

「でも、結婚する必要あるの?」

 ……え?

「それなら結婚しなくてもいいんじゃないの」

 用意していない質問の答え。

「剣ちゃん、なんでわたしと結婚したいの?」

 それは結婚という制度で親権を香織から剥奪するため。

「なんでお母さんにいっぱいお金払ったの?」

 香織の前でざくろに認めさせないと、ざくろは絶対にそれを受け入れなかったから。

「茜さんとだったら働かなくても、楽しく学校に行けたのに。なんで茜さんじゃなくてわたしなの?」

 ざくろが、可哀想だったから。

 ざくろを見捨てた自分の罪悪感に耐えられなかったから。

 だから、ざくろを愛する資格はないけど、ざくろと結婚をする……?

 もう嫌だ。

 いつもこんなことばかり考えて。答えに辿り着くことも決してない。

 だから物言わぬ決意の実行者になりたかったのに。

 それなのに、みんなが寄ってたかって理由を聞こうとする。

 ……俺は弱い人間なんだよ。

 だから決意に助けてもらって、考えるのをやめたのに。

 黙って俺とざくろの婚約を認めておけばいいだけなのに。

 そうだよ。結婚という理由は結局手段だ。

 俺はざくろを選んだから、結婚するわけじゃない。

 結婚が必要だった過程で、ざくろがついて来たんだ……


「お母さんの言う通りだったんだ」

 喉から言葉が出てこない。

「わたし、一人だったんだね」

 困ったように笑う、目の前の婚約者。

「わたし、剣ちゃんを縛り付けていたんだね」

「ち、が」

「違わないよ」

 ざくろは軋む床を歩き、なくなった壁のほうに歩いていく。

「お、おい」

「落ちないよ。いまはまだ」

 ざくろは腰に手を当て、拓けた灰色の空を仰ぐ。

「いま、落ちるとわたし、剣ちゃんを傷つけちゃうから」

 ……なにを言ってるんだ?

「あたし、決めた」

 息をたくさん吸い込み、胸を大きく膨らませ、ざくろは言った。

「もう誰にもかかわらず、誰にも迷惑をかけない。わたしに関わった人はみんな不幸になる。だから

 そう言い放つと、ざくろの背に異形の存在が現れる。

 それは、俺にとっての理解者で、嫌悪する対象でもあった不気味な姿。

「――その決意、しかと見届けた」

 闇を管理する、冥王の存在だった。


「……残念だ」

「ハデス?」

「主の決意も、ここまでか」

「どう、いうことだ?」

「主はこの能力者に勝てない」

「なぜ、そんなことが言い切れる」

「――能力を発現する依代は、決意に最も近しいモノがその役割を得る」

「それが、なんだ」

「早乙女ざくろには主しかいない、つまり――依代は貴様だ、主」

 その言葉を最後に、俺は意識を失った。

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